CHANGE
14
空が薄暗くなり始めた頃、ようやく目的地に到着したのか車が停まった。
しばらくして後部座席のドアが外から開かれると、東條院に下りろと促されて太朗は外に出る。
「・・・・・海の匂い?」
どこを走っているのか全く分からなかったが、どうやらここは海の近くらしい。潮の匂いを感じると共に波の音も聞こえて、太朗は思
わず周りを見回してしまった。
「あ」
海は、思い掛けなく近くにある。
太朗は無意識のままもっと近くに歩いて行こうとしたが、その時聞こえてきたバイクの音に足を止めて振り向いた。
「太朗君っ!」
「宗岡さんっ」
バイクを停めるなり降りて来た宗岡が駆け寄ってきて、ヘルメットを取るなり太朗の肩を強く掴んでざっと身体を見てくる。
「・・・・・大丈夫だな?」
「はい」
「何か・・・・・言われた?」
「いいえ、あの人、あんまり話さないし」
太朗が少し離れて立っていた東條院を振り返ると、それにつられる様に宗岡も彼を見る。そして、険しい表情をしたまま、近付い
ていった。
「場所はここですか」
「ああ」
それだけを言って、東條院は開かれた扉の向こうへとさっさと歩き始める。
太朗は思わず宗岡と顔を合わせてしまった。
(普通、ついて来いとか言うと思うんだけど・・・・・)
初めて来た家に勝手に足を踏み入れるのはさすがに躊躇するものの、ドアを押さえたまま立っている男はピクリとも動かずに自分
達を待っているようだ。
「・・・・・行きます?」
「そうだな」
足を踏み出した宗岡の後を付いて行きながら、太朗は一瞬後ろを振り返る。静かで、街灯もあまりない場所。1人ではとても
寂しいかもしれないが、誰かと一緒ならばゆっくりと過ごせそうだ。
自分のおかれている立場で感じるものも変わりそうで、東條院はどうしてこの場所を選んだのかなと太朗は思った。
都心から離れてしまったことに、宗岡の警戒心は更に強くなった。
話をするだけならば手近なホテルでも構わないと思うが、それでは拙い事情でもあるのだろうか?
(とにかく、太朗君の安全だけは確保していないと)
非番なので、もちろん拳銃は携帯していない。私用のために使うことは当然のごとく厳禁だが、今自分は本当に丸腰で敵対す
る相手と向き合うのだなという覚悟をしなればならなかった。
「・・・・・」
(ここは、別荘なのか)
あれ程の肩書きを持つ男だ、別荘の一つや二つ持っていてもおかしくはない。
しかし、部屋の中は妙に埃臭く、長い間ここに誰も暮らしていない気配が濃厚で、ソファにゆったりと腰掛けている東條院も妙に
浮いた感じがしているなと、宗岡は落ち着かずにリビングの入口に立ったままでいた。
ただ1人、太朗は重厚な外国製らしい家具を物珍しそうに見て回っている。どこに行っても物怖じしない子だなと、宗岡は少し
だけ口元を緩めた。
「・・・・・失礼致します」
しばらくして、1人の男がコーヒーを運んできた。
「犬には水で十分だとは思うが」
「・・・・・っ」
東條院の言葉に宗岡が睨むと、男は冷笑を浮かべている。
「飲めるか?」
「頂きます」
その中に、何か仕込まれているかも知れないという可能性は一切考えず、宗岡は一番側にあったカップを手にとって中身を飲み
干した。熱かったが、構わなかった。
「・・・・・本当に、あいつも変わった」
「・・・・・」
「自分自身が飼われて、犬とはどんなものなのか知っていたはずだが。いや、調べがついた限りの犬達は皆、相応の地位も財力
もあったな。何も無かったのはお前だけだ」
「裕さんのことを・・・・・調べたのか」
「最後に会ってからかなりの時間が経っているからな」
父親だという男の一周忌。その頃、まだ中学生だった東條院も、既に自分の出生のことは知っていた。
母は未だにその相手のことを想い、父はその相手に仕える立場で、その事実は一族の中でも公然の秘密であった。
しかし、たとえ万人が東條院の出生を知っていたとしても、東條院正道の嫡子は本妻の子供である正紀で、喪主も彼だ。
他にも大勢いる愛人達の子供の中、東條院だけは分家の子という立場だったので、その末席に座ることを許されただけだった。
もちろん、そんな自分の立場はいいものではなく、東條院は息抜きのために1人寺院の中を歩いていて・・・・・。
「あ」
そこで、見たのだ。
あの男の愛人達の中で、一番歳若い・・・・・男を。
「おいっ!」
東條院は思わずその男、小田切を呼び止めた。
「どうしてお前なんかがここにいるんだよ!」
自分より、幾つか年上なだけの相手。
普通に見れば、自分と同い年にも見える細い姿と、少女のように綺麗な顔が振り向き、じっと自分を見つめてきた。そのあまりにも
真っ直ぐな視線に、東條院は落ち着かずに更に吠える。
「ここは、お前みたいな犬の来る所じゃない!大体、なんだよっ、その格好!」
白のジーパンに、赤いニットセーター。その上に丈の短い明るい色のジャケットを羽織っている姿はまるでモデルのように似合って
いたが、この場にはとても似つかわしくないと思った。
「・・・・・ふ〜ん」
「なっ、なんだよ!お前に財産なんか一円もやらない!」
「いいんじゃない?別に欲しくもないし」
そう言うと、小田切はなぜか面白そうに笑った。
「僕、絶対君の犬にはなれないな。親子でも、かなり違うんだね」
「!」
じゃあねと、手を振りながら小田切は背を向けた。もう、全く未練はないというように真っ直ぐな背中は振り向くことも無く、東條院
はただその姿を見送るだけしか出来なかった。
あれから、十数年経っている。
かなり長い間、小田切の姿は東條院の脳裏から消えなかったが、それでも大学生、社会人へと成長していくたびに過去は薄れ
てきた。
何とか正紀に能力を認めてもらい、今の地位に就いたというのに、たった一度の失敗で全てを失うとなった時、東條院の頭の中
に浮かんだのはあの日の小田切の姿。
あの男の犬という立場だったのに、子供である自分を見下しているかのような鮮やかな笑みを浮かべた小田切を、どうしても自
分と同じ位置まで落としたいと思ってしまった。
「おい」
「・・・・・なんです」
目の前にいる、逞しい身体と精悍な容貌を持つ男は、今小田切と共に暮らしている。小田切が誰かと暮らしていること自体不
思議で、東條院はどうしても気になっていたことを訊ねた。
「小田切とお前は、セックスしているのか?」
「・・・・・っ」
「それとも、ただの番犬か?」
「違う!」
「ふ・・・・・ん、やはり関係があるのか」
あの小田切が、この男に組み敷かれている。東條院はゾクッと背中が震えた。
しばらく黙っていると思ったら、いきなり何を聞いてくるのかと思った。
それでも、小田切との関係を隠すつもりは無かったし、一応自分としては恋人のつもりなので、彼の犬達と自分は違うのだという
ことをはっきりと伝えたかった。
「どこがいいんだろうな」
「・・・・・」
「そう言えば、お前は警察官だったか。ヤクザのあいつに情報でも漏洩しているのか?」
「馬鹿にするなっ!俺はそんなことはしないし、裕さんだって言わない!」
ヤクザである小田切と付き合うとなった時、宗岡もその問題を危惧していたが、小田切は宗岡の仕事面のことには一切口を出
しては来なかった。
小田切はそんな姑息な真似をしなくても、この世界で確固たる地位を築ける男だった。
(出来れば、止めて欲しいけど・・・・・)
「何の利害も無く、お前といるのか?」
「そ、そうだ」
「・・・・・信じられないな」
「・・・・」
小田切の気持ちは宗岡も分からない。それでも、彼が自分に愛情を向けてくれているということは感じているので、俯くことはした
くなかった。
目の前で繰り広げられている生々しい会話。
その意味は分かるのだが、どうしても現実とは結びつかなくて太朗は混乱していた。
(小田切さんと宗岡さんは恋人同士で、その、エ、エッチしててもおかしくないけど・・・・・)
ここでも出てくる犬という言葉。どうしても分からなくて太朗は黙っていられなかった。
「あのっ」
いっせいに向けられた2人の視線に一瞬たじろいだが、それでも太朗は言葉を押し出した。
「さっきから犬犬って、いったいどういう意味なんですか?」
「太朗君、それは」
「本当にお前は何も知らないんだな」
「おいっ」
「あいつの側にいるのに何も知らないという方がおかしいだろう。犬というのはな、その呼び名の通り犬なんだ。飼い主のために自
分の持っている地位も財力も、その身体も全て捧げる存在のことだ」
止めようとした宗岡を無視して東條院がそう言うが、それでも太朗にはピンと来ない。
「誰かのために、自分の全部を捧げる?」
「そうだ。その代わり、飼い主はその犬を手放すまで可愛がる。一度犬になったものは、死ぬまで主人に尽くすんだろうが・・・・・そ
こまで異常な主従愛なんか、俺は信じることは出来ないけどな。どんなに言葉を飾ったって、甘い言葉で釣りながら、人一人を顎
でこき使うことに変わりない。役立たずになったんなら、直ぐにお払い箱だ」
(犬、って、ペットの犬とは全然違うってこと?)
愛情を与え、信頼を返してもらえる関係ではなく、ほぼ一方的に相手から貰うだけの関係なんだろうか?
「太朗君・・・・・」
宗岡に名前を呼ばれ、太朗は視線を上げる。
「・・・・・俺、信じられない」
さらに言い返そうとした時、服の中に入れたままの携帯が震えた。
「で、電話だ」
「出たらいい」
鳴り続ける電話の音を聞きながら、太朗はじっと東條院の顔を見て・・・・・携帯を取り出す。液晶に映った番号を見た瞬間、太
朗はパッと通話ボタンを押した。
「ジローさん・・・・・っ!」
『待ってろ、もう着いた』
「え?」
思わず太朗が聞き返したのと、外から凄まじい音が聞こえたのはほぼ同時だ。
立ち上がった太朗と共に、他の2人もとっさに音のした玄関が見える窓辺に向かうと、そこには門を突き破って敷地内に入っていた
四駆が停まっていた。
ほとんど無傷な四駆の両ドアが開き、それぞれ現れた2人の姿。
「ジローさん!」
窓を開けて叫んだ太朗に、上杉が目を細めて笑い掛けてくれる。
「正義のヒーローみたいだろ」
本当にそうだと思い、太朗は大きく頷いていた。
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