CHANGE




18







 「あなたは犬犬と気安く言っていますが、本当に最後まで看取る責任感が無ければ犬なんて飼えない。その点、あなたの父親
は立派でしたよ、死ぬ間際に皆を綺麗に解放してくれた」
 「・・・・・っ」
 父親であった男のことを全て知っているかのように話す小田切を、東條院は唇を噛み締めて睨みつけた。

 母親が東條院家の身内ということで、多分自分は他の愛人の子よりもあの男に近い存在だったし、集まりごとがあれば顔を見
ることも出来た。
 しかし、そこに肉親に対するような・・・・・それも、我が子に対するような眼差しや言動は一切無かった。
幼い頃はいざ知らず、物心がつき、自分の本当の父親のことを知ってからも、男の自分に対する態度は変わらなかった。
 物質的には満ち足りた生活でも、東條院の心は渇いていて、ある日男が自分よりも少しだけ年上らしい少年を連れて車に乗
り込む横顔を見た時、その飢えは嫉妬へと変貌した。
 可愛い、愛しい者を見るような優しげな男の眼差し。
少女のように整った面立ちながら、凛とした空気を纏っている少年の笑み。
 本当の子供は自分なのに、どうして父はその少年に笑顔を向け、自分には冷たい態度を取るのか。まだ幼い東條院にはその
理由は全く分からなかった。
 ただ、男がよく言っていた言葉。
 「私には可愛い犬が何匹もいる」
実際に屋敷には飼い犬はおらず、何を言っているのかと思ったが、それがどうやら男の愛人達を指すのだと気付いた時、あの綺麗
な少年もそうなのかと、東條院は人間とも思ってもらえない少年を憐れに思うことで、自分の惨めさを打ち消していた。

 それからどのくらいの月日が経っただろうか。
親の愛情には恵まれなかったが、東條院という大きな名前を背負った自分は選ばれた人生を歩んできた。
 それが、たった一度の失敗で全てを失おうとしているのだ。

 「広郷、お前には東條院の名前を名乗る資格はないようだな」

滅多に口を聞かない異母兄。唯一、あの男に認知された東條院家の総領は、一言だけそう言って自分を切り捨てた。
自分に残されたものは何なのか・・・・・東條院の中にあったのは、遥か昔、あの男に笑いかけていた少年の綺麗な笑みだった。

 「・・・・・犬のくせに、生意気な口をきくんだな」
 「何度言えばいいんです、私は犬ではありません」
 「嘘付け!自分の祖父くらいの男に尻を突き出していたんだろうが!」
 「・・・・・」
 目の前の小田切が溜め息をついた。
まるで言葉が分からない子供を前にしたような、呆れたような・・・・・。それを見ただけで、東條院はカッと頬に怒りの紅がさした。
 「何が言いたい・・・・・っ」
 「言葉が通じないのは面倒だと思いましてね」
 「なっ!」
 「何を説明したとしても、聞く本人が理解出来ないのならばただの無駄話だ。昔話など必要ないですね、ほら、さっさと言ってく
ださい。あなたは私にどうしろと言うんですか」
 小田切をどうしたいか・・・・・それは決まっている、自分と同じところまで落としたいだけだ。
しかし、この男が地面に這い蹲る姿はなぜか想像出来なかった。




 これ以上話しても無駄だと思い、東條院の望みを聞けばなかなか口に出さない。本来、こんなにも譲歩してやる相手ではない
のだ。
(全く・・・・・もしかして、まだ女を知らないなんてことないだろうな)
 誰かを支配したことがないから、こんな余裕のない対応しか出来ないのだろうか。
 「・・・・・寝たいんですか、私と」
 「・・・・・な、にを・・・・・」
 「セックスしたいのかと聞いているんです」
精神的にも肉体的にも自分を貶めたいのかと聞けば、東條院は動揺したように瞳を揺らした。
 「・・・・・」
 本当に、始末におえない。一々手足を取ってやらなければならないのか。
なまじ金と権力があっただけにやることは大胆でも、その後を考えていないのならば全くの無駄遣いだ。そんな無駄な金を使ったの
なら、羽生会に寄付してもらいたかったと思う。
(ここまで来たが、結局はこんな結末か)
 「・・・・・広郷さん」
 「!」
 初めて、名前を呼んだ。東條院の目が大きく見開かれる。
 「今のあなたの立場がどうだろうと、私には何の関係もない。もしも、過去のあなたの父親との行為を責めているんだとしたら、同
じことを返してやりますよ」
 「・・・・・なっ・・・・・!」
つかつかと東條院の直ぐ側まで近付いた小田切は、そのまま男の後頭部と顎を掴み、少し身を屈ませるようにして唇を合わせた。

 チュク

 もちろん、合わせるだけの子供じみたキスではない。
突然の小田切の行動に驚いている東條院の唇を舌で強引に割り開き、上顎や歯列まで、丁寧に愛撫してやった。
 セックスをする時、もちろん男女の身体の違いはあからさまだが、唇を合わせるキスは違う。男女の違いはほとんどなく、相手の技
巧がよく分かる手段だ。
 「・・・・・」
 始めは、小田切のキスという行為に身体を硬直させていた東條院だが、何時しか自分の手を小田切の腰に回し、積極的に舌
も絡めてくる。敵対している者同士とは思えないほどの濃厚なキスに、小田切は唇を合わせたまま微笑んだ。




 太朗と上杉の声に押されるように小田切に近付いた宗岡だったが、もう後数歩が近づけなかった。小田切の口から決定的な離
別の言葉を聞かされるかもしれないと思うと怖くて、このまま逃げ出したいという思いにさえかられてしまう。
 「今のあなたの立場がどうだろうと、私には何の関係もない。もしも、過去のあなたの父親との行為を責めているんだとしたら、同
じことを返してやりますよ」
 しかし、その言葉と共に、突然目の前で小田切が東條院とキスをして、宗岡の頭の中は真っ白になってしまった。
 「・・・・・っ」
(裕さん・・・・・どう、して?)
どういった意図で、彼が東條院にキスを仕掛けたのかは分からない。それでも、始めは一方的のように見えたキスがお互い同意の
ものとなり、今は恋人同士のように濃厚な様を見せ付けられて、宗岡は思わず手を伸ばすと、
 「・・・・・っ」
 小田切の腕を掴み、強引に東條院から引き離した。
 「何をするんだ、哲生」
腕の中、振り向いた小田切の唇は濡れて、赤みを増しているように見える。それが何のせいなのか、考えるのも嫌だった。
 「どうして!」
 「・・・・・」
 「どうしてっ、キスなんか!」
 「教えてやっただけだ、私と元の飼い主の関係を」
 「も、元のって・・・・・」
 「言わなかったか?私は彼とセックスはしていない。キスはしたがな」
 「そ、それって・・・・・」
 驚きの中にも、再度湧き上がってくる独占欲。
もちろん、小田切が自分以外にセックスをしていないというのは考えられないものの、彼の人生において一番大切だったであろう亡
くなった【元の飼い主】とはセックスしていないということは大きな喜びだった。
 「裕さん!」
 しかし、その身体を抱こうと手を伸ばした宗岡を、小田切は冷たく睨みつける。
 「触るな」
 「え・・・・・」
 「私は、勝手に行動したお前を許した覚えはない」
きっぱりと言い切った小田切に、宗岡の顔はみるまに真っ青になってしまった。




 いきなり始まったキスに、自分の腕の中の太朗が息をのむ気配がした。
(・・・・・ったく)
何もキスをすることもないだろうにと思いながら、上杉は片手で太朗を目隠ししてやった。
 「じ、ジローさん、あれ・・・・・」
動揺している太朗は、自分の目を覆っている上杉の手に指を掛けるものの引き離そうとはしない。見てはいけないものとでも思っ
ているらしいその様子に、上杉は気にするなと言うしかなかった。
 「まあ、視界の暴力だがな」
 「・・・・・宗岡さん、可哀想・・・・・」
 「あいつも小田切の忠告を聞かなかったんだ、あれぐらい可愛い罰だろう、捨てられるよりは」
 「・・・・・」
 「タロ?」
 急に黙ってしまった太朗の耳元に囁きかけた上杉は、太朗の指先に力がこもるのに気付く。
 「・・・・・ジローさんも、同じようなこと、する?」
 「ん?」
 「俺が、言うことを聞かなかったら・・・・・他の人と、その・・・・・」
 「バ〜カ」
何を心配しているんだと笑い飛ばしてやりたいが、恋愛経験が上杉限定の太朗にとっては不安なこともあるのだろう。
上杉が、若い太朗の未来に出会う相手に嫉妬を感じるのと同じように、太朗は、今までの上杉の相手に嫉妬し、ありえない未
来を考えているようだ。
 生憎、上杉はどんな相手でもいいという、ガツガツとセックスしたい時期はとうに過ぎた。今は、本当に愛する相手しか抱こうと思
わない。
 「お前が俺の言うことを聞かなかったとしても、お前が泣くような罰なんかしねえよ」
 「・・・・・ホント?」
 「どうせするなら、お前が許してくれって言うまで抱き潰す方が楽しいしな」
 「!」
 「・・・・・っ」
手に、爪が立てられる。
それでも、口から文句が出てこないことに気を良くして、上杉は太朗の頭上に唇を寄せた。




 上杉が視界を遮ってくれたので視線を彷徨わせることが無くなった太朗は、それでも目に焼きついてしまった小田切と東條院の
キスシーンを消すことは出来なかった。
 あれ程、小田切に対して辛辣な物言いをしていた東條院が、小田切のキスを受け入れたというのも、なんだか大人の事情は
深過ぎると思う。
(でも、宗岡さん、大丈夫かな・・・・・)
 東條院についてここまで来たのも、宗岡は小田切のことを考えたからだと思う。そんな彼に対して、他の人とのキスシーンを見せ
るのは可哀想ではないだろうか。
 「タロ」
 「え?」
 「それを小田切に言うなよ」
まるで太朗の考えが見えているような上杉の言葉に、太朗は恐々と訊いてみた。
 「い、言ったら?」
 「お前も苛められる」
 「い、言わないっ」
 小田切が自分にそれ程酷いことをするとは思わないが、それでも、笑いながら人の腕をねじ上げていた小田切の先ほどの姿を
思い出すと何をされるかと想像して・・・・・ちょっと怖い。
 それに、
 「お、犬が取り戻したぞ」
 「犬って、宗岡さん?」
 「さすがに、飼い主が他の犬を可愛がるのは面白くないようだな」
そう言う上杉の声は何だか楽しそうで、太朗は少し不謹慎ではないかと思うが、それでもどうやら宗岡の手に小田切が戻ったらし
いということを聞いて、何だか安心して溜め息をついた。