CHANGE




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(あの高畑相手に善戦じゃない)
 綾辻は目の前で行われている争いをのんびりと見つめながら思った。
正紀の秘書兼ボディーガードの高畑臣(たかはた しん)。高校に入学した時からずっと正紀に付いているらしい男は、190近い
身長に、がっしりした体格で、一時期自衛隊にも入って訓練したらしいという噂も聞く。
 隙の無い眼差しや身のこなしから、それは多分本当なのだろうなと綾辻は思っていた。
(でも、いきなり上杉会長の挑発に乗るなんて・・・・・裏があるのかも?)
ボディーガードとしては完璧だし、補佐役としても十分能力を発揮している男が、幾ら密室とはいえヤクザ相手に簡単に手を上げ
るだろうか。ある意味、正紀本人よりも冷静沈着でなければならない男のその行動に、綾辻は僅かに違和感を感じてしまう。
 「ジローさんっ!」
 「・・・・・」
 「止めろよ!」
 必死に叫ぶ太朗の声が聞こえてくる。
大丈夫といってやりたいが、今自分が動くのは止めた方がいいだろう。
(でも、これで被害届を出されたりしたら、上杉会長の方が不利なんじゃ・・・・・あ)
 「傷付けないでっ、会長!」
思わず、綾辻はそう叫んでいた。




 体格的には自分よりも立派な男。
こうして向き合い、数回拳を交えただけでも、相手のみっしりとした筋肉の存在は分かった。
(・・・・・ったく、筋肉馬鹿めっ)
 上杉も腕には自信がある。拳銃や木刀など、武器を使わない方が自分の実力をより発揮出来るし、万が一そんな道具を使っ
て太郎が傷付いたりしたらと思えば、自分の身体一本で勝負をした方がいい。
 しかし・・・・・相手の攻撃を間一髪避け、蹴りや拳をくり出すが、相手も同じように自分の攻撃を避けている。
どちらがより力が勝っているのか、こんな狭い部屋の中では取っ組み合うことも不可能だった。
 「ジローさんっ!」
 「・・・・・っ」
(タロッ?)
 「止めろよ!」
(馬鹿っ、応援しろって!)
 必死に自分を止める太朗の声が耳に届く。心配するなと言ってやりたかった。自分は大怪我などするつもりはないし、目の前の
男にも致命傷を与えるつもりはない。
 ただ、どんなに大きな勢力を前にしても、自分から引くつもりがないことを男に見せ付けたかった。表の権力も、そして裏の圧力に
も、そんなものに屈する自分ではない。

 ガツッ

上杉の蹴りが男の太股に綺麗に入った。それでも表情の一つも変えないまま、対峙する男は腕を伸ばしてくる。
重い拳はほとんど避けているものの、掠るだけでも衝撃を感じるそれに、何か武道をしていたのだろうと察することが出来た。
そう考えているうちに、上杉も次第に気持ちが熱くなってくる。
 (ここじゃっ、思うように動けねえっ)
 幾ら広いホテルの一室とはいえ、調度品が邪魔だ。
壊れたら東條院に請求してやると思った時、
 「傷付けないでっ、会長!」
 突然、綾辻の叫び声が聞こえ、上杉の呼吸が乱れる。
その隙を突いて男の拳が上杉の腹に綺麗に入ってしまい、グッとせり上がってくるものを感じた。
もちろん、やられたままでは済まない上杉は、接近していた男の足を払い、バランスを崩した腰にしがみついて、そのまま床に押さ
え込む。
 「・・・・・っ」
 「動くな」
 男の腰を膝で押さえ、喉もとに拳を付き付ける。力を入れたら男の喉を潰すことも、いや、その命を危険に脅かすことも出来る
態勢に、上杉はにやりと口元を緩めた。
 「お前、結構強いじゃねえか」




 「止めろよ!」
 どんなに叫んでも、目の前の相手に意識を集中させている上杉には聞こえないようだ。
(もうっ!)
太朗も喧嘩をしたことが無いとは言わないが、それは小学生くらいまでだ。成長してからは語彙も多くなったし、感情が爆発する前
に考えることも出来るようになったので、殴り合いというものは滅多にしなくなった。
 しかし、今目の前のものは、自分がしてきた喧嘩というものよりももっと激しい・・・・・まさしく、戦いに見える。
くり出す足も、拳も、自分のものとは比べものにならないほどの凶器になりうるだろうと感じ、太朗は止めてくれと言葉で止めること
しか出来なかった。
(ど、どうしようっ)
 上杉は自分の声が聞こえないかのように動きを止めることはせず、小田切も綾辻も制止する気配は全く・・・・・。
 「傷付けないでっ、会長!」
 「!」
(あ、綾辻さんっ?)
突然叫んだ綾辻に、太朗はハッと顔を向けた。
反応したのは自分だけではなく、上杉本人も同様だったようで、僅かに動きが止まった上杉の腹に綺麗に相手の拳が入る。
(い、痛いっ)
 まるで自分が痛みを感じたように顔を顰めた太朗だが、上杉は全く怯まずに反撃し、あっという間に男を床に組み敷いた。
 「ジローさん!」
 「まだ近付くなよ、タロ」
 「・・・・・っ」
動きかけた足は、その場にくっ付いたかのように止まる。
完全に押さえ込んでいる状態なのに、まだ安心するなという上杉の言葉が、ますます太朗の緊張を高めた。




 「綾辻、今の言葉の意味は」
 「・・・・・多分、高畑・・・・・その男が掠り傷でも負えば、そのまま警察に被害届を出しますよ。羽生会の会長を捕まえる、警察
としても絶好の口実でしょうね」
 「・・・・・」
 綾辻の淡々とした言葉に、小田切も納得出来た。
全く何の落ち度もない一般人がヤクザに脅された場合、警察に相談するというのはごく普通の対応だ。
正紀が何の後ろ暗い所もないというのはありえないが、ヤクザと一大グループの総帥と。警察がどちらの言葉を信じるのかは考え
るまでもない。
(姑息・・・・・とは、思っていないんでしょうね)
 自分に纏わりついている蝿を追い払うぐらいのつもりなのだろうが、小田切はもちろんそんなことをさせるつもりはなかった。
 「東條院正紀さん」
 「・・・・・」
 「私はこれでもあなたの父親には可愛がられていましてね、あなたの家の事情もよく聞かせてもらっていましたよ」
正紀の眼差しが小田切に向けられた。
 「あの人は私を子供だと思っていただろし、将来こんな生業に就くとは思わなかったかも知れませんが・・・・・」
 それでも、小田切の本質には気付いていただろう男が、東條院家の裏の話を聞かせたこと・・・・・それには何か意味があったの
ではないかと今ならば思う。
 「言葉だけでは誰も信じないよ」
 ようやく、正紀が口を開く。
もちろんと小田切は頷いた。
 「私も馬鹿ではありませんからね、根拠のないことは口にしません」
 「・・・・・」
 「綾辻さん、少しは協力してくれます?」
 「・・・・・さあ、どうしようかしら」
 「・・・・・」
 「東條院さん、私達はあなたを脅そうとしているわけじゃありません。その口から謝罪の言葉を聞きたいだけなんですよ?ごめんな
さいと、子供でも言えるくらい簡単な言葉を」
 金や権力など、人から与えられたものを喜ぶような性格ではない。それは自分はもちろん、上杉も綾辻もそうだろう。
だからこそ、重い意味を持つだろう正紀の言葉を欲しているのだと、小田切はじっと正紀を見つめた。




 滅多に直接連絡のない綾辻からアクションがあった時、自分はもう少し用心しておくべきだったかもしれない。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
目の前にいる男達は、正紀から見れば格段に下の存在だ。簡単に潰せるだけの権力を自分は持っているし、少々脅されたから
といって揺らぐものは何もない。
ただ、それが面倒であるし、尊敬する祖父の血を引く綾辻の存在もあって、一応僅かでも時間を割いたのだが・・・・・。
 「・・・・・」
 正紀は小田切から広郷に眼差しを向ける。
(・・・・・馬鹿が)
一度の失敗で更迭するのは厳しいという意見も出たが、正紀は側近達の緊張感の無さを正すために、広郷をスケープゴートにし
た。自分達も一歩間違えれば、直ぐに切り捨てられる存在であると、この先、愛する息子が継ぐ東條院家を更に強固なものにし
てやるための手段だった。
(それが、こんな結果か)
 祖父が小田切に何を話しているのか分からないが、この男はやるといえば必ずやり遂げる。どんなに手を回しても、大胆に、姑
息に、必ず成果をあげる。
 「・・・・・」
 正紀は眉間に指を当てる。
これ以上話を大きくしないためにも、この辺りで事態を収拾した方が得策だろう。




 黙ってしまった正紀を、太朗はじっと見つめた。
謝る・・・・・という小田切の言葉とは違い、太朗は謝罪が無くても、もう一度東條院のことを考えるという言葉が欲しかった。
 もちろん、小田切は色々と迷惑を被っただろうし、上杉もしなくてもよい心配をしただろうが、太朗自身は何もなかった。怖さも、
不安も、過ぎてしまえば全部忘れてしまえる。
 「・・・・・苑江君」
 「え?」
 突然名前を呼ばれた太朗は、驚いて返事をした。
 「今回は、何も関係の無い君に、広郷が迷惑を掛けてしまったね」
 「い、いえ、俺は」
 「悪かった。今後こんなことをさせないように、広郷は私の側においてもう一度勉強をし直させる」
 「え・・・・・そ、それって」
 「切り捨てることは簡単だが、ここまで来て私に頭を下げてくれた君の気持ちを、私もきちんと受け止めることにするよ」
 「あ、ありがとうございます!」
太朗はガバッと頭を下げた。
自分が謝るより遥かに、正紀ほどの地位にいる人間が前言を撤回するのは大変なことだろうとさすがに分かる。無理を言って、本
当は迷惑だろうに、きちんと考えて応えてくれた正紀の気持ちが嬉しかった。
 「良かったねっ、東條院さん!」
 振り返ってみた東條院の表情は、嬉しさというよりも戸惑いの色の方が濃い。
声を掛けた太朗を見つめ、正紀を見て・・・・・今度は小田切に視線を向けている。小田切の口元に皮肉気な笑みが浮かんだ。
 「まあ、私達に頭を下げるよりは、太朗君にそうする方が無難ですね」
 「私は、今回の一番の被害者である彼に謝っただけだ」
 「・・・・・ものは言い様」
 不思議な言葉を呟いた小田切が、太朗を見てにっこりと笑い掛けてくれた。
 「あなたを連れて来て良かったですよ、太朗君」
 「小田切さん」
 「ほら、そこで待機しているあなたの犬に声を掛けてやってください」
この場合の犬というのは誰だと考えるより先に、太朗はまだ男と組み合ったままでいた上杉をパッと振り返った。