倉橋の背中がバスの中に消えた途端、いきなり扉が閉められてバスが発車した。
ほんの一瞬、それを見ていた男達は何が起こったのか分からなかったが、一番最初に動いたのはボディーガードの経験もある綾
辻と楢崎の2人で、バスの護衛の為に用意していた4台の黒塗りの車のうち先頭の1台に飛び乗った。
 「急いで追え!」
 「巻かれるなっ」
 2人は口々にそう叫ぶと、綾辻は直ぐに倉橋の携帯へと電話を掛けてみた。
 「どうだ」
 「・・・・・出ない」
何時もの軽い口調の綾辻からは到底想像出来ないような硬い声で答えると、今度は海藤へと電話を掛ける。
ワンコール鳴った瞬間、海藤は電話に出た。
 『今追っている』
 「じゃあ、ほとんど差は無いですね。克己の携帯は出ません。電源を切られているわけじゃないので取り上げられたという事は考
えられないんですが」
 『こっちでは小田切がバス会社に確認を取っている』
 「面子が面子なので、身元の怪しい人間は選んでいないはずなんですが・・・・・とにかく、このまま後を追います」
 『5分毎に確認の電話をしろ』
 「はい」
 「何て」
 「今バス会社に確認を取っているそうです」
 訊ねてくる楢崎に答えながらも、真っ直ぐに前のバスを見つめている綾辻。
(いったい、何が起こったんだ?)
目の前で、いきなり愛しい者を掻っ攫われた屈辱を奥歯を噛み締めながら耐えた綾辻は、イラついたように助手席のシートを鷲
掴みにしていた。



 「いったい、どういうことだ」
 動いたのは綾辻と楢崎だけではなかった。残った男達も直ぐに車に分乗してバスの後を追う。
アレッシオは、同じ車に乗り込んだ江坂に険しい口調で言った。
 「なぜトモが連れ攫われなければならない」
 「・・・・・申し訳ありません」
内心、自身も激しい焦燥を感じながらも、江坂は立場上アレッシオにそう謝罪する。しかし、今回のことが誰のせいなのか、それ
をはっきりと言うことは2人とも出来なかった。
どちらも、誰に恨まれてもおかしくない立場だ。アレッシオはイタリアマフィアの首領で、本来ならば日本で狙われるということは考え
られないのだが、異国の地でアレッシオの情人に手を掛けるということが絶対に無いとは言い切れない。
 一方、江坂も妬まれ、恨まれている可能性はある。
大組織の大東組の中で、まだ三十代ながら理事に就任し、現組長にも可愛がってもらってそれなりの権限がある江坂を恨む者
達は少なくない。
 かなり強引なこともしてきたという自覚がある江坂だが、それを後悔することは今更ながらなかった。
しかし・・・・・。
(馬鹿な人間はいくらでもいる)
 「エサカ」
 「必ず無事に保護します・・・・・必ず」
(掠り傷一つ負わせてみろ・・・・・)
死ぬよりも辛い目に合わせてやると、江坂は奥歯を噛み締めた。



(どっちだ・・・・・俺か?それとも大東組の方を・・・・・)
 秋月は組んだ手を額に当てて必死で祈っていた。
この場にいるのはほとんどが大東組の関係者で、今回のバスジャック(無断で運転手がバスを走らせていない限り、そうとしか思え
ない)はそちらの関係だと思う方が正しい気がする。
 ただ、秋月自身弐織組の中で浮いているという自覚はあり、自分を狙ったものだという事も否定出来なかった。
ただ、どうして日和が狙われるのか・・・・・何の罪も無い、自分が強引に手に入れた普通の高校生の日和が今どんな思いでいる
のか、想像するだけでも秋月は胸が苦しくなる。
(俺が代われるのなら・・・・・っ)
 「・・・・・楓さん・・・・・っ」
 その時、自分の唸りに重なるように別の声が聞こえた。
 「・・・・・」
(確か、日向組の・・・・・)
 秋月の隣に座っているのは、確か日向組の若頭という紹介を受けた。
他派閥でも、日向組の名前はかなり有名だ。それはもちろん、次男である楓の美貌のせいだった。
頻繁にパーティーに連れ出されていたらしい楓の美貌は幼い頃からこの世界では知れ渡っていて、実際弐織組の中にもその姿を
間近で見た者達は多い。
彼らは口々に、とても子供には思えない艶やかさ、女には無い清廉さを持っていると褒め称えていたくらいだ。
 そんな麗人を守っているこの男も、かなりの焦りを感じているだろう。あれ程の美貌だ、別の危険をも想定していなければならな
いはずで・・・・・。
(いや、日和もだ)
 秋月が抱いたからか、日和の容姿は男を十分誘えるものに変化している。あの身体を自分以外の男が触れる・・・・・そう思う
だけで秋月の胸は嫉妬で焦げそうだった。



 上杉はこみ上げる感情を抑えることが出来なくて、思わず助手席のシートを後ろから蹴った。
 「上杉会長」
 「分かってるっ」
 今ここで自分達がイライラしても仕方が無いことは分かっている。バスは走り出しているし、今自分がそこに乗り込むことは絶対
的に不可能だ。
(いったい誰だ、俺達に喧嘩売ってんのは・・・・・っ)
 自分に、何かをされるのは構わなかった。
今まで汚いことをしていないという綺麗事は言わないし、それなりの覚悟は日々しているつもりだ。しかし、太朗は・・・・・いや、太
朗だけではない、今バスに乗っているほとんどの者は(倉橋と小田切の犬は除いて)そんな裏の世界とは全く関係のない者達だ。
高校生や大学生など、自分達で抵抗出来る力などない者達を狙うなど・・・・・そう考えると上杉の怒りは増すばかりだった。
 「いったい、どこの組織だ」
 「・・・・・」
 「俺達が九州にやってくることを知っていたってーのか?」
 「・・・・・」
 「おい、海藤っ」
 何とか言えと言い掛けた上杉はその言葉を止めた。腕を組む海藤の手が、白くなるほどに拳を握っているのを見たからだ。
(こいつも・・・・・)
上杉が太朗の安否を気遣うように、海藤も同じく恋人の身を案じているのだ。
何とかしたいのに何も出来ないというもどかしさをお互いに感じながら、上杉と海藤は先を行くバスに早く追いつくようにと祈るよう
な気持ちでいた。



 その助手席に座っていた小田切は、バス会社との連絡を終えて電話を切った。
 「どうだった」
直ぐに声を掛けてきた上杉に、口調だけは何時もと変わらないように小田切は言う。
 「会社からは普通に出たそうです。運転手は前もって連絡を受けていた者で、身元はしっかりしています。この電話中も会社の
方からバスに無線を入れてもらっていましたが、返答は全く無いそうです」
 「・・・・・ちっ」
 「警察に連絡ということを言われましたので止めてあります。叩けば埃が出る者達ばかりですからね、今の状況がはっきり分かる
まで警察の手を入れるつもりはありません。よろしいでしょう?」
 「当たり前だ、サツに何が出来るっ」
 それは小田切も同意見だった。
呆れるほどの大きな権限を持っていながら、それを少しも有意義に使いこなせない警察を信用はしていないし、向こうとしてもヤク
ザの情夫の誘拐事件など本気で捜査はしないだろう。
(同じ警察でも、テツオは・・・・・)
 頼りは、偶然とはいえバスに乗り込んでいた宗岡と倉橋しかいない。
生真面目な倉橋が突発的な事件に対応出来るかどうかと思えば首を傾げなければならないかもしれないが、それでもそれなり
の場数は踏んでいるはずだ。
そして、宗岡は・・・・・。
 「・・・・・駄目だな、筋肉馬鹿だ」
 「小田切?」
 「一応正義感の強い犬が乗っているので、誰かが怪我をするということはないはずですよ」
 警察官だからというより、元々正義感の強い宗岡は、年少の子供達が怪我をする場面では絶対に庇うはずだ。向けられるの
が銃であっても、ナイフであっても、あの犬は誰かの前に立つだろう。馬鹿だが、そんな男だ。
(あの子達を無事に守ったら褒めてやらないとな)
 「くそっ、いったい何者だっ」
 「・・・・・相手が誰でも、やることは決まっていますが」
 悔しげに呻く上杉に、小田切は頬に笑みを浮かべながら言う。
しかし、その目は全く笑っていないということを、小田切は自分自身でも自覚していた。それも仕方あるまい、小田切は本当に腹
が立っていたのだ。
(せっかくの旅行を台無しにした報いは受けてもらわないとな)
心の中でそう呟いた小田切は、手にした携帯を強く握り締めた。







 いきなりバスが発車した瞬間、倉橋は倒れそうになった身体を慌てて足を踏ん張って体勢を整え、運転席へと視線を向けた。
(誰だ?)
運転席に座っているのは中年の男で、服も帽子も見て制服だと分かるものを身に付けている。
しかし、その運転手の直ぐ横と、一番前の座席の辺りに1人ずつ、つまり、全く見知らぬ男が2人そこに立っているのだ。
 「どなたですか」
 倉橋は眉を顰めながらゆっくりと足を進める。
 「このバスに何か?」
 「・・・・・」
 「それとも、このバスに乗るはずだった者に用があったんですか?」
倉橋の脳裏に直ぐに浮かんだのは敵対する相手の攻撃ということだ。恋人同行の旅行という気の緩んだところへ戦争を仕掛け
てきたのだろうかと焦りも感じたが・・・・・。
 「大人しくしていたら何もしない」
 「・・・・・」
 「そこに座れ。一列に1人ずつ、絶対隣り合わせになるなよ」
 「・・・・・」
(何か・・・・・違和感を感じる、が・・・・・)
 鉄砲玉が乗り込んでいたのかとも警戒した倉橋だが、落ち着いてみると目の前の2人にはとてもヤクザと、いや、チンピラという
気配も感じられなかった。
顔はサングラスとマスクでほとんど見えないが、出ている肌艶を見てもかなり若いような気がする。
 「これが犯罪だということは分かっていますよね?」
 「・・・・・っ」
 試しにそう言ってみると、2人のうち小柄な方が慌てたように隣の男を見た。
 「ね、ねえっ」
 「黙ってろ」
何かを言おうとした小柄な方にそう言った男は、サングラスで見えない視線を倉橋に向けてきた。
 「悪いけど、このまま俺達が行きたい方へと行ってもらうぞ」
 「・・・・・」
 「これはどこに行く気だった?」
 「・・・・・熊本の黒川温泉ですが」
 「熊本・・・・・」
 「・・・・・」
(それも調べていなかったのか?)
 今日集まったそれぞれに地位のある男達の内の誰かを狙っていたとすれば、このバスがどこに行こうとしていたのかは既に調べて
いてもおかしくは無いはずだ。
しかし、今倉橋がきっぱりと行く先を告げてみると、えっと小さな声を上げて考えているふうな態度をとっている。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
(もしかしたら、全く関係のない・・・・・?)
 ヤクザという自分達の立場とは全く関係ない者達かもしれないと思った時、
 「お前達っ、今のうちに投降しろ!今ならまだ罪は軽いぞ!」
 「・・・・・」
(馬鹿っ)
まるで警察のような口調で男達の説得を始めようとする小田切の連れの男を、倉橋は眉を顰めて睨んだ。






                                         






置いていかれた旦那様方は焦っています(笑)。
犯人は意外な・・・・・これは次回に分かりますよ。