elite
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襲名式までに江坂がしなければならないことは案外多い。
しかし、実務に関しては全て橘が取り仕切っているので、江坂自身が動くのは主に人間関係に関してだった。
「予定通りで構いませんか?」
「ああ、横浜からだな」
「そうです」
今までも最年少理事として大東組内で大きな発言権を持っていた江坂だが、やはりその若さゆえか下に見る古参の組長達
は少なくはなかった。
江坂自身も表立って喧嘩をするなどという馬鹿な考えは無く、表面上は年上の組長達に礼を尽くしてきたが、総本部長とも
なるとそれはまるっきり変わってくる。江坂が気にしなくても、その周りが彼を下に見た者に対する制裁を厳しいものにするのだ。
その辺りの切り替えを上手く出来ない者は自然と立場が後退し、割り切り、江坂に仕えるようになる者はそれなりの処遇を受
ける。
それだけの力を有することになった江坂は、関東近隣に住む組長達に自ら赴いて挨拶をした。今後、自分は迎える立場になる
ので、その前に実際に相手の組事務所に向かい、相手の対応を直接肌で感じることにしたのだ。
「昨夜、埼玉の榮組長から感謝の挨拶がありました。わざわざご足労頂いて感謝すると」
「そんなことに気付くような人物には見えなかったが」
「あそこの組は若頭が有能のようですよ」
「年配者か?」
「確か、まだ30代前半だったと思います」
そう聞いた江坂は昨日の対面を思い浮かべる。
見るからに武闘派の組長は若い江坂に負けないように胸を張っていたが、その目はどこか戸惑ったように見えた。あの場面で若
頭という男は挨拶に顔を出さなかったはずだ。
「・・・・・会えるか?」
「明日、調整しましょう」
「・・・・・」
即答する橘の横顔を見て江坂は納得した。
今ここでその話題を振ったのは偶然ではなく、明らかにその若頭という人間に江坂を会わせたいという思いがあったのだろう。
橘がそれ程と思う相手に間違いはないだろうと、江坂は差し出された表の仕事の方の書類に目を落とした。
「そういえば、小早川君の方はどうでしたか?」
「静が我が儘を言うはずがないだろう」
「そうですね」
「だが、今よりも楽になると言った。調整は頼むぞ」
「・・・・・はい」
明らかに、理事の時代よりも忙しくなるのだが、江坂は当然静に言った言葉を優先するつもりだった。そのことで橘が引き攣った
笑みを浮かべたのには・・・・・気付かないふりをする。
その日、昼食の席に呼ばれた江坂は、組長の永友と若頭の九鬼に軽く頭を下げてから部屋に入った。
「蕎麦ですか」
「職人崩れが見習いに入ったんだ。出汁も本格的だぞ」
「確かに、美味そうだ」
(じゃあ、これはここでうったものか)
ザルに綺麗に盛られた蕎麦に、大きな海老が主役の天麩羅。高価なものを食するのではなく、美味い物を食べるのが好きな永
友が選んだ職人ならば間違いがないだろう。
離れに建つ本部の方では襲名式に向けてとても慌しい時間が過ぎているのに、本家の座敷であるここには全く違う時間が流
れているようだった。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
ズルズルと蕎麦をすする音が響く。
そして。
「江坂」
不意に、永友が声を掛けた。
「どうだ」
短い言葉の中には様々な意味が含まれているのだろう。もうずっと永友の下で動いてきた江坂には当然その意味は分かってい
るので、箸を置いて静かに答えた。
「万事、滞りなく」
「お前が言うと本当にそんな気分になるな」
「・・・・・」
(何か引っかかることでもあるのか?)
元々永友はさっぱりとした性格で、物事も遠回りにではなく何でもズバリと口にする。そんな永友の微妙な言葉のニュアンスに、
江坂はあえて口元に微笑を湛えながら問い直した。
「気にされることでもありますか?」
これはもう、言葉の駆け引きのようなものだった。いくら同じ組織、そして相手がその一番上に立つ存在でも、江坂は自身の内
側を全て曝け出してはいない。それはけして永友を疎んじているというわけではなく、彼のことは多分これまで出会ってきた人間の
中で一番尊敬しているが、すべてを明け渡さないというのは江坂の性格の問題だった。
「お前も当然知っていると思うが」
「・・・・・」
「海藤は大丈夫なのか?」
唐突ともいえる海藤の名前に、江坂は平静を装う。
「・・・・・それは、どういう意味で?」
「無事に襲名式を迎えることが出来るのかどうかということだ」
「・・・・・」
(知っているのか)
江坂が持っている情報を永友が持っていないとは限らない。いや、力からすれば永友の権力の方が数倍上で、その気になれ
ばどんな情報も握ることが出来るはずだ。
「気にされることはありません」
今、海藤が抱えている厄介な問題。
香港伍合会のロンタウであるジュウ。その男が海藤の恋人である真琴に横恋慕をし、強行に香港に連れ去ろうとしていることは
海藤から報告を受けていた。
今の時期にと江坂は眉を顰めたが、それは海藤も同じ思いだったのだろう。出来るだけ自分で処理をするつもりだったらしいが、
真琴は静の友人であり、江坂とも少なくない接触を持っていて、さすがにそのまま見て見ぬ振りをすることは出来なかった。
かといって、香港伍合会と表立ってぶつかることは出来ないので、あくまでも友人としての位置を崩さずにというスタンスで協力す
ることを伝えていた。
少なからず大東組にも影響を与える香港伍合会のロンタウという大物が関係していることも、今この場で報告することではない
はずだ。
(うちに火の粉が降りかからない限りは、な)
江坂は真っ直ぐに永友の顔を見つめ返した。
「・・・・・」
「海藤の方にも問題はありません」
「分かった。悪かったな、蕎麦がのびてしまう」
「いいえ。美味い蕎麦です。持ち帰りたいくらいですよ」
「なんだ、食べさせたい相手がいるのか?」
「・・・・・」
今度こそ、江坂の箸を持つ手が止まってしまった。
「江坂」
昼食を食べ終えて座敷を出た江坂は、そこで今度は九鬼に呼び止められた。
「なにか?」
「少し、いいか」
そう言いながら、九鬼は近くの空き部屋に視線を向ける。わざわざ彼が呼び止めるほどの話が何なのか気になる江坂はもちろん
頷き、そのまま九鬼の後に続いて部屋に入った。
「さっきの話だが」
「さっき?」
「海藤のことだ」
「・・・・・そのことでしたら組長にも申し上げた通り問題はありません」
また話を蒸し返す意味が分からず、江坂は無難に話を流そうとしたが、どうやら九鬼が憂慮しているのは海藤のことだけではな
いらしい。
「今、倉橋がここに通ってきている」
「ええ、姿を見ました」
何回か挨拶もしている。
海藤の理事就任のためにしなければならない雑事は倉橋が一任されているらしく、忙しく立ち働いているのを見かけた。
生真面目で控えめ、そして有能な倉橋を江坂も気に入っていて、目に止まれば簡単な言葉も交わしているくらいだ。
「どうやら、少し煮詰まっているようだ」
「倉橋が?」
「真面目な奴だから色々と考えるんだろう。それに、傍にいるのがあの綾辻だからな、自分が何も出来ないと思いこんでいるの
かもしれない」
比べるものが違うんだがと苦笑する九鬼に、江坂も同感だった。
確かに綾辻は素晴らしく有能な男で、既に自分の組を背負っていてもおかしくないくらいの実力者だとは思うが、己の部下にす
るのならばどちらを選ぶのかといえば躊躇い無く倉橋を選ぶ。あの男を操る気苦労などしたくはなかった。
(海藤や上杉は良くやっている方だ)
そう、綾辻と同じようなタイプの小田切を(綾辻よりも厄介かもしれない)何とか使いこなせている上杉もたいしたものだろう。
ただし、海藤とは違い、上杉自身厄介なタイプには違いないが。
「何かあったら声を掛けてやってくれ」
「九鬼さん」
「頼むな」
「はい」
子供ではない倉橋をそこまで心配するのも少しおかしい気がしたが、ここで断ることもないと江坂は分かりましたと頷いた。
静はパソコンを見ながら唸っていた。
「ん〜、何がいいんだろう・・・・・?」
江坂が総本部長という地位に就くのはもう直ぐだ。それまでに何か祝いの品を送ろうと思っているのだが、なかなかそれが決まらな
い。元々、彼が身につけているのは一流のものが多く、そのどれもに拘りがあるらしい。そんな中に自分が選んだものが加わるのは
どうなのだろうかと躊躇いがあった。
「・・・・・」
(洋服とか、身に付ける物はパス)
「あなたがくれるものならば何でも嬉しいですよ。私のことを想う気持ちが込められていますから」
そんな江坂の言葉が頭の中に蘇る。
(あ・・・・・っ)
「真琴は何か考えてるのかな」
今回の江坂の昇進と共に、海藤も理事に就任すると聞いた。きっと、真琴も海藤のために色々考えているのではないか?
電話をして話をしようと思い立ち、早速携帯の番号を押そうとしたが・・・・・止めた。
(真琴も悩んでいたら、一緒にグルグルしそうだし・・・・・あ)
「海藤さんにも何かプレゼント贈って驚かせようかな」
どうせならば真琴も一緒に喜べるようなものを・・・・・そんな風に考えると、先ほどまで考えていた江坂への昇進祝いも違う角
度から考えられそうな気がした。江坂だけでなく、自分も一緒に楽しめるもの。
(それだったら、凌二さんももっと喜んでくれるだろうし)
「・・・・・よし、もうちょっと頑張ろう」
相変わらず慌しい日々は続いた。しかし、全ては上手くいっていたし、久し振りの大きな義理事はさらに大東組の名前を世に
知らしめることになりそうだ。
一方で、海藤の方の厄介な揉め事はさらに問題が大きくなってきたらしい。
一度江坂に連絡をしてきたせいか、海藤は詳細ではないものの経過を報告はしてきていた。それを聞いて、江坂もジュウの本気
に溜め息が漏れそうだったのだが・・・・・。
「・・・・・」
そして、その危惧は思い掛けないほど早く現実となった。
唐突に掛かってきた携帯電話から聞こえてきた海藤の声は切迫している。
江坂はそのまま席を立ち、何事かと視線を向けてくる者を無視して人気の無い場所へと急いだ。
「何があった?」
電話の向こうの海藤の言葉に、さすがに江坂は眉を顰めてしまった。こんなふうに海藤自ら電話を掛けてくること自体、既に問
題はギリギリのところにまできていた。
「お前達は今成田に向かっているんだな?」
時間はない。ここから成田まで、車を飛ばせばそんなに時間は掛からないだろうが、今は一分一秒でも惜しい時間だ。
どうしてこんなことになってしまったかという問題は置いておいて、江坂は直ぐに頭の中で計算を始める。
(飛行機を飛ばさない方法・・・・・)
「海藤、時間を・・・・・なんだ」
その時、電話の向こうの相手が代わった。
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