縁と月日は末を待て












 組のドアを開けると、中にいた組員達がいっせいに立ち上がって頭を下げた。
 「お帰りなさいっ」
 「ただいま」
コートを脱いだ伊崎は、なぜか苦笑を浮かべている渋井の顔を見て僅かに眉を顰めた。
 「渋井さん、何かありましたか?」
 組の中の立場は若頭である伊崎の方が当然上だが、自分が日向組に入る以前からいて、歳も父ほど違う渋井に対
してはどうしても敬語になる。
 「お待ちかねの方が組長の部屋にいらっしゃいますよ」
 「・・・・・楓さんが?」
 「開口一番、若頭はまだかとおっしゃっていました」
渋井の言葉に、他の組員達もその状況を思い出したのかクスクス笑い始めた。
(全く・・・・・)
伊崎は今回同行した2人の組員を振り返る。
 「皆に土産を渡してくれ」
 「若頭」
 「私は組長に報告をする」


 楓の伊崎に対する執着はもう全組員の知るところだ。
幼い頃から楓の世話係をしていたという事実があるので皆はそれ程不思議に思っていないだろうが、今の自分と楓の関
係はそんな微笑ましいものとは全然違う。
 恋人。
年の差があり、何より男同士だったが、楓は狂おしいほどの自分の恋情を受け止めてくれた。
その関係は楓の兄、日向組の組長である雅行には知られていたが、未だに2人の関係は隠すようにと言われている。
 美しく、賢く、魅力的な楓は様々な人間を惹きつけるので、伊崎としては自分のものだということを声高に公表したい
所だが、今は雅行との約束を守り、表向きは面倒見の良い元世話係という仮面を被っていた。

 伊崎はドアをノックした。
 「失礼します」
伊崎はドアを開こうとしたが、それは思い掛けなく中から開いて、目の前には艶やかな笑みを浮かべた楓が立っていた。
 「お帰りっ、恭祐!」
 「楓さん・・・・・」
 本当に嬉しいのだという感情を隠さないその様子に、伊崎の頬にも笑みが浮かんだ。
幼い頃はともかく、大学生になった楓は言動もずいぶん落ち着いてきたが、伊崎や雅行、そして組員の前では驚くほどに
子供っぽい。
それだけ心を許していることが十分分かり、伊崎も柔らかい口調で答えた。
 「ただいま戻りました」
 そして、その目を奥のデスクに座っている雅行に向ける。
楓と自分の関係を知っている雅行にとってはこのやり取りもむず痒いものかもしれないが、彼以外の前ではけしてこんな
態度を取っているつもりはないので許してもらいたい。
 「組長、ただいま戻りました」
 「・・・・・」
 雅行が直ぐに返答をしなかったことに、楓がムッと口を尖らせた。
 「兄さんっ」
 「あー、御苦労だったな」
相変わらず、楓には弱い。人事ではないし、雅行の複雑な感情は伊崎も納得出来るので、伊崎がその態度を不快に
思うことは無かった。
なによりここは組事務所だ。楓と2人きりの空間ではない。
 「いいえ」
 雅行はイスから立ち上がると応接セットの方へと歩いてきた。
 「早速報告をしてもらおうか」
 「はい」
 「楓、外に行ってろ」
 「えーっ!」
自分からきっぱりと言い切ったくせに、楓が不満げな声を上げると雅行が僅かに動揺したのが分かった。
剛健で肝が据わっていると言われる雅行も、最愛の弟の前では情けない兄の顔を覗かせる。
 「楓さん」
 伊崎も楓と早く2人きりになりたいのは山々だったが、先ずは仕事の方が優先だと少し厳しい声で名前を呼んだ。
そのあたりのきき分けはいい楓は、少し不満げだが渋々頷く。
 「・・・・・後で部屋に来いよ?」
 「分かりました、後でお土産を持って行きますから」
土産よりも、先ずはあの甘い唇を味わいたい。伊崎の声にしない気持ちを知ってか知らずか、楓は早く来いよと言いなが
ら組長の部屋から出て行った。




 「あれ、坊ちゃん」
 楓が1人で部屋から出てきたのに、組員達はなぜか驚いたようだ。
 「若頭は?」
 「兄さんに報告。みんなへのお土産なんだった?明太子と・・・・・《博多の女》?」
パッケージを見ながら楓が土産を見ていると、伊崎の供をした若い組員が大きな袋を取り出す。
 「大阪土産は《551蓬莱》の豚まんですよ」
 「美味しいの?これ」
 「向こうじゃかなり有名だって言ってました。早速温めますか?」
 「ん〜、いい、後で食べるから。後から帰ってくるみんなの分も残して食べろよ」
 今回は父親である雅治の旧知の組の祝い事が重なって出掛けたので、同行した組員もずいぶん気楽ではあっただろ
う。これが抗争中だとしたらとても暢気に土産を買ってくる場合ではない。
(・・・・・あれ?恭祐、さっき・・・・・)
 部屋を出る前、伊崎は後で土産を持って行くと言っていた。それでは、今ここにある土産の他にも、何か個人的なもの
を買ってきてくれたのかもしれない。
(何だろうな)
 伊崎がくれるのならば飴玉一個でも嬉しい楓は、途端に楽しみが膨らんでしまった。
 「俺、部屋に戻るから」
 「え、もう帰っちゃうんですか?」
 「お前達はまだ仕事中だろ。気を引き締めておけよ」
 ことあるごとに楓を巻き込んで騒ぎたがる組員達と一緒にいるのはもちろん嫌ではなかったが、今は早く伊崎と2人きり
になる方が先決だ。
それに、ドアの向こうには兄がいる。
 「サボってると、兄さんに怒られるぞ」
 若いが、既に堂々とした風格のある大好きな兄は、生真面目なので規律には厳しいのだ。
 楓がそう言った途端、組員達は慌てたように持ち場へと散る。その様子を笑いながら見た後、楓は自室がある母屋に
続くドアを開けた。




 訪問した相手方の親書を手渡し、滞りなく役目を終えたことを告げると雅行の顔にも安堵の色が浮かんだ。
現組長である自分もそうだが、今回は父である先代の関係する組への訪問なので少し気が張っていたらしい。
 「御苦労だったな」
 「いいえ」
 伊崎が労いの言葉に頷くと、ソファに座りなおした雅行がハァと溜め息をついた。
 「組長?」
 「・・・・・楓の奴、お前が帰ってくるのを楽しみにしていた」
 「・・・・・そうですか」
それは、先ほどの楓の様子からもよく分かったが、さすがに雅行の前で手放しに喜ぶ表情は見せられない。それでも、頬
が緩んでしまうのは押さえられないでいると、雅行はさらに溜め息を続けた。
 「もう直ぐあいつの誕生日だ」
 「ええ」
 「・・・・・どうやら、忘れてはいないようだしな」
 「組長」
 「分かってる、分かってるが・・・・・」
 せめて成人するまでは周りに関係を知られないようにしろ。
それはあの時の雅行の精一杯の言葉だっただろうが、一方でその間に楓や伊崎の気持ちが変化することを期待していた
気持ちもあったはずだ。
 楓は大学という新しい世界に入り、若い女との接点も多くなるし、伊崎の方も適齢期ということで周りから結婚を勧め
られるのは想像に難くない。
 一時の男同士の恋愛は過去のものとして、それぞれが新しい道に踏み出すことを期待していたはずの雅行には申し
訳ないが、伊崎は一時として楓を手放すことは考えていなかったし、楓の方も一途な想いを向け続けてくれた。
 正直、伊崎の中には恐怖がある。あれだけ美しく、優しい楓を欲しがるのは自分だけではないし、若い楓が他の人間
に目を向けることは可能性としてゼロではない。
 その時、自分はどうなるのか・・・・・とても想像出来ないが、多分、呼吸をしていたとしても生きているという状態にはな
らないような気がした。
 「申し訳ありません、組長」
 「・・・・・」
 「ですが、私はもう、楓さん以外を愛することは出来ません。彼から引き離されたりしたら・・・・・それこそ、あなたを手に
掛けてでも彼を奪って逃げるでしょう」
 それだけはしたくなかった。楓の愛する兄を、この手で殺すことは・・・・・。
 「分かっている。楓もお前も無駄に頑固なことはな」
 「・・・・・」
 「だが、俺はいっさい手助けはしない。自分たちのことは自分たちで考えろ」
 「ありがとうございます」
 「礼を言うな・・・・・ムカツク」
ふと、自分よりも年少の顔を見せた雅行に、伊崎は少しだけ笑った。
今の言葉を雅行がどれ程の思いで言ってくれたのか、今は感謝の言葉がそれしかないのだ。
 「ほら、さっさとあいつの所に行け。遅くなるとまた怒鳴り込んでくるぞ」
 「・・・・・それでは、失礼します」
 伊崎は立ち上がり、深く一礼をする。軽く頷いてくれた雅行の姿を見てから伊崎は組長の部屋から出た。
 「若頭」
そう広くは無い部屋の中を見渡しても楓の姿は無い。
 「坊ちゃんは部屋に戻られましたよ」
 伊崎の視線に気付いたらしい渋井が笑みを含んだ声で言ってくるのに苦笑を返すと、伊崎はそのまま母屋に行くと言
い残して部屋を出る。
少しでも早く、楓の身体を抱き締めたかった。




 トントン

 「!」
 部屋に戻ってから二十分もしないうちにドアがノックされた。
ベッドに腰掛けていた楓は直ぐに立ち上がると、相手を確認しないまま大きくドアを開ける。
 「恭祐!」
 「楓さん、せめて一言誰かと訊ねてから・・・・・」
 「お前しかいないだろ!」
 部屋に来ると約束したばかりなのだ、伊崎以外がやってくるはずが無い。
それよりも、何時まで経っても自分をただ見つめてくるだけの伊崎に苛立ってしまい、楓はその腕を引っ張って部屋の中に
連れ込んだ。
 「恭祐」
 そして、ネクタイを引っ張って身を屈ませる。
 「楓さん」
 「ただいまのキスくらい直ぐにしろよ」
なかなか恋人モードになってくれない伊崎に焦れて少し怒ったように言えば、伊崎は長い腕でギュッと身体を抱きしめてく
れた。
 「ただいま、楓さん」
 その言葉と同時に、そっと唇が重なってくる。
触れ合わせるだけだったキスはしだいに深くなり、楓は自分からも口中に入ってきた伊崎の舌と自分のそれを絡めて、久
し振りの恋人の熱さにうっとりと目を閉じた。