縁と月日は末を待て
10
楓は自室でじっと考えていた。
傷害罪で訴えようとする平井の行動には驚いたものの、それで男を怖いとは思わなかった。きちんと説明すればそれが過
剰な訴えだということが分かってもらえるはずだし、分かってもらう自信があった。
ただ、さっきの伊崎と津山の態度はどうしても解せない。
何か大切なことを隠されていると感じるが、それが何なのかを訊ねてもきっと答えてはくれないだろう。
2人共楓に対しては従順で、嘘をつくということもしないはずなのに、この件に関しては苛立つほどに口が堅い。
(・・・・・このまま、何も知らなくていいのか・・・・・?)
守られるだけ守られて、何もしなくていいのか。
勝手に動けばそれだけ伊崎が困るというのも十分分かっている。それでも楓は、どうしても守られるだけの存在でいたくは
なかった。
「・・・・・」
楓は立ち上がる。
「・・・・・うじうじしてたって仕方ないよな」
とりあえず、動く。自分が帰る前、組事務所の中でいったい何が起こったのか、それを知る者は伊崎以外にも絶対にいる
はずだ。
そう思いながら部屋のドアを開けると、案の定そこには津山がいた。
「どちらに行かれるんですか?」
「・・・・・母さんとこ。1人で行くから付いて来なくていい」
「楓さん」
「組の仕事もあるんだろ?家にいる時は危険なんてないんだから」
勘の良い津山が側にいると何も出来ないと、楓は出来るだけ抑揚の無い口調で言う。
そんな自分をどう思ったのか、しばらくじっと視線を向けてきた津山は一礼してからその場を去った。きっと、心の中で楓が
何かするんじゃないかという疑いはあるだろうに、何も言わずに引き下がるのがあの男らしい。
(・・・・・悪いな、津山)
自分のことを大切に思ってくれる津山を裏切りたくはないが、楓は津山以上に伊崎が大切だった。伊崎が困るようなこ
とが目の前にあれば、自ら動いて排除したい。
今回のことは、自分が上手く平井をあしらえなかったせいで組にまで迷惑を掛けてしまいそうだ。
(俺がカタをつけないと)
母の部屋ではなく、楓はキッチンに向かった。
そろそろ夕食の仕込みをしている頃だと思ったが、案の定広いキッチンでは3人の料理当番の組員達が忙しく働いてい
た。
「コーヒー、貰っていい?」
「あっ、坊ちゃん!」
直ぐに楓の姿に気付いた組員達は、1人はコーヒーの準備をし、もう1人はお茶菓子のマドレーヌを皿にのせて、もう1
人が椅子を引いて迎えてくれる。
ここまでしてくれなくてもいいのだが、変に遠慮をすると組員達が残念そうな顔をするので、楓はありがとうと一言言ってか
ら椅子に座り、用意されたコーヒーを一口飲んだ。
「今日の夕飯、何?」
「鯖の味噌煮とハスのキンピラです。モズクも用意してますよ」
「モズクかあ・・・・・」
「身体にいいんですから、残さず食べて下さいね」
楓の好みを把握している年配の組員が苦笑しながらそう言う。楓はその言葉に苦笑すると、マドレーヌを掴んで出来
るだけ自然な口調で聞いてみた。
「これ、組の皆には持って行った?」
「組番の奴には渡しましたよ。湯川(ゆかわ)の奴、3個も食べやがって・・・・・」
「あいつ、案外甘党なんだよ、知らなかったのか?」
会話を続ける組員達の言葉を耳にしながら楓は考えた。
おやつを食べる組番なら、自分が帰る前に事務所であった出来事を少なからず見ているはずだ。湯川というのはまだ21
歳の若い組員で、ここに住み込みをするようになってからまだ半年くらいだった。
(・・・・・そいつだな)
「・・・・・あのさあ、今から買い出しとかある?俺、勝手に出かけられないから、ついでに頼みたいものがあるんだけど」
「だったら、湯川に頼みましょう」
「いいかな?」
「今時分なら組も暇でしょうし」
「じゃあ、出掛ける前に俺の部屋に来るように伝えて」
自分の言葉に頷いた組員が内線を掛けるのを、楓はじっと見つめていた。
「ぼ、坊ちゃんっ、何の御用でしょうか!」
まだあまり楓と接触をしていない湯川は、いきなり楓の部屋に行くようにと言われて驚いた。
まだまだ下っ端で、組の雑用が主な湯川は、若頭や組長はもちろん、母屋に住む組長の家族ともなかなか直接話をす
る機会がなかったからだ。
(ほ、本当に美人だ・・・・・)
湯川も今まで何人もの女と付き合ってきたし、日向組に入ってからは夜の世界の年上の美人とも会話をする機会は
多々あった。
しかし、その誰もと比べても、楓はやっぱり綺麗だった。女々しい美しさではない、凛として、神々しくて、真っ直ぐ見てし
まうのが申し訳ないほどに光り輝いていた。
そんな楓が組の古株の人間には頻繁に気軽に話しかけたり、笑顔を見せたりするのを羨ましく思っていたが、まさか自
分が憧れの楓の部屋にまで来れるとはまったくの想像外だ。
「悪いな、わざわざ」
ドアを開けてにっこりと笑ってくれた楓にボウッとしていると、楓が小さく折りたたんだメモを差し出してくる。
「学校で使う文房具。それに書いてあるから」
「は、はい!」
「・・・・・雑用、大変だな」
「いいえっ、これも大切な役目ですから!」
気遣ってもらって、更に気持ちが高揚する。
「・・・・・今日はずっと事務所にいたのか?」
「はい、昼は電話番で・・・・・俺、まだ仕事任せてもらってないんで」
「じゃあ、客の対応もするのか・・・・・凄いな」
楓に褒められ、湯川はデレッと相好を崩した。
今時の少しチャライ感じの容姿をした湯川は、きっと素直で・・・・・単純なんだろう。
楓がそれとなく水を差し向けると、まるで褒めてくれと尾っぽを振る犬のように滑らかに話し始めた。
「俺っ、自分の出来ることは精一杯頑張ろうって決めてるんです!今日来た弁護士なんかすっごく嫌な奴だったけど、
頑張って対応したし!」
「・・・・・弁護士」
それが、平井の被害届を持ってきたという弁護士だ。
「どんな風に嫌な奴だったんだ?」
「それが、若頭に対しても威張ってるっていうか・・・・・。若頭や坊ちゃんは頭が良くても俺達を馬鹿にしないけど、あい
つの目は完全に俺達を下にして見てました」
よほどその視線が癇に障ったのか、湯川は眉を顰めている。
嫌味な弁護士。確か《おち》と伊崎は呼んでいたが、調べるのなら下の名前も必要だ。
「名前、何ていうんだ?」
越智和浩。
よほど湯川は印象深かったのか、学がないと言いながら入口で見せられた名刺の名前をちゃんと覚えていた。
楓は湯川が立ち去った後にパソコンで調べてみる。
「・・・・・モグリじゃないのか」
ヤクザ紛いな訴えをしてきた男なので、どうせ表立った活動などしていないと思ったが、自らが代表になってきちんと事
務所を開いていて、それなりの企業の顧問弁護士もしていると書かれている。
これがどこまで真実かどうかなど、今の楓には関係が無かった。この男は堂々と日向組に乗り込み、伊崎を脅した男な
のだ。
「・・・・・」
電話番号をじっと見つめていた楓は、やがて決意したように携帯を取り出す。そして、慎重にその番号を押してみた。
【はい、越智弁護士事務所です】
電話に出たのは事務員らしい若い女の声だった。
「すみません、越智先生は戻っていらっしゃいましたか?」
【いえ、まだ外出中ですが・・・・・】
(まだ?)
楓は時計を見上げる。もう、ここから出て二時間近くは経っていると思うが、どこかに寄っているのだろうか。
名乗っていない今から嘘をつかれる覚えは無いので、楓は出来るだけ穏やかに言葉を継いだ。
「じゃあ、戻られたらこの携帯に電話をいただけるように伝えてもらえますか?」
【すみませんが、どちら様でしょうか?】
「・・・・・日向、楓と言います」
【日向楓様ですね】
女の声の調子に変化は無い。どうやら今回のことは知らないようだ。
「お願いします」
電話を切りながら楓は考えた。名前を名乗った上で、越智という男は折り返し連絡をしてくるだろうか。もしも、日向組
が目的ならば掛けては来ないだろうし、反対に楓の方がそうならば絶対に掛けてくるはずだ。
「・・・・・」
携帯を机の上に置き、楓はホッと息をつく。
(夕方まで、だな)
それまでに電話が無ければ、また別の手段を考えなければならない。
それは、夕食の仕度が出来たと呼びに来られた時だった。
電話を掛けてから更に数時間、もう折り返し越智からの連絡は来ないだろうと諦めかけた時に掛かった電話は、携帯電
話からだった。
「・・・・・はい」
見慣れない番号に警戒しながら声を出すと、向こうでクッと笑みを漏らす気配がした。
【そんなに怖がらなくてもいいですよ】
電話越しにも分かる落ち着いた声音。嫌味な丁寧語の知らない声を聞くだけで眉を顰めた楓は、怖がったという言葉に
即座に反論した。
「別に、顔も見えない相手を怖いとは思いませんが」
【ふふ・・・・・。それで、日向組の次男坊さんがわざわざ電話を掛けてくださったとはどういうご用件でしょうか】
「昼間、事務所にいらした件です。それ、俺に関係ありますよね?」
【・・・・・】
「俺のことなのに、俺が知らないっていうのはおかしいと思って。わざわざ実家にまで来られるくらいなんですから、急いで
いるんじゃないんですか?」
実際に平井がどんな解決をこの弁護士に依頼したのかは分からないが、自分個人のことに組を、伊崎を、巻き込んで
欲しくは無かった。
固い決意を込めて言った言葉はどうやら相手にも意味は通じたようで、笑いの気配は消えた。
【一度、あなたとお会いしたいと思いますが・・・・・またそちらに行っても会わせてはもらえないでしょうね】
「・・・・・」
確かに、心配性の兄や伊崎は、絶対にこの弁護士と自分を会わせないようにするだろう。
彼らに知られること無く、ゆっくりと会話が出来る場所・・・・・そんな所は、楓には1つしか思い当たらなかった。
「俺の大学に来れませんか」
【大学ですか】
「大学内なら、結構自由が利くので」
【分かりました。では、明日の昼・・・・・2時に、どこがいいですか?】
こちらの思惑をどう取ったのか、意外にも男は即座に頷いた。
大学内では伊崎ももちろん、津山の目も届かない。それでも、もっと人目のつかない所と考え、楓は思いついた場所を
告げた。
「本郷キャンパスの図書館。分かりますか?」
【これでも、あなたの先輩ですよ】
「・・・・・そうなんですか」
先輩だと知ったところで敬う気持ちは毛頭ない。
楓はおざなりに挨拶をすると、そのまま長電話は無用だと電話を切った。
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