縁と月日は末を待て












 弁護士らしい話の進め方だと思った。
最初は告訴という言葉で脅し、その後に示談という言葉で安心感を誘う。言葉をそのままの意味で取れば良い方向に
進むかと思いがちだが、伊崎は言葉の裏の別の響きを感じ取った。
(何が目的だ?)
 越智の目的が楓なのか、それとも日向組なのか。まずそれが分からない。
 「・・・・・暴行をしたというのは本当でしょうか?」
 「なんでしたら、この場でその病院に問い合わせしていただいてもよろしいですよ」
ここまで自信たっぷりに言うのなら、多分この病院は越智が何らか関係するところだろう。
 伊崎は、楓が平井という男に暴行を働いたというのははなから信じていなかった。生まれた家がヤクザということで、周り
は暴力に慣れているだろうと思うかもしれないが、だからこそ暴力に対して非常に神経を尖らせていた。
 どんなに相手の言葉に怒りを感じても、楓は家のことを考えて絶対に先に手を出さない。出したとしても、その後のこと
をちゃんと考えて行動する頭の良さを持っている。
 「この診断書はコピーですね?一応お預かりします」
 「ええ、どうぞ」
 「それと、こちらも改めて弁護士を向かわせますので。これ以降はその者と話をしていただけますか」
 きっぱりと言い切った伊崎に、越智は眼鏡の奥の目を細めた。
嘘くさい笑みを浮かべているよりは、よほどこの男に似つかわしい酷薄な表情だ。
 「それは、法廷に持ち込んでいいということでしょうか?」
 「私のように法律に疎い者では、きちんとした対応を取る自身がありませんので。専門家同士ならばきちんとした話し合
いが出来るのではないでしょうか?」
 「・・・・・それは、日向組長の意向ととってもよろしいのでしょうか?」
 「そう思っていただいても構いません」
 この話をまだ雅行は知らないが、話したとしてもきっと同じような対応を指示してくると断言出来る。
楓と似ている真っ直ぐな気質は逃げることを良しとはせず、とことん相手と向き合うことを望むはずだろう。
 ただし、今回名前が出てきたのが楓だということに心の揺れはあるかもしれないが、それでも最終的には同じ判断をす
ると思った。
 「・・・・・日向組の若頭は利口な方だと思っていましたが・・・・・意外に、頭が固いようですね」
 そう言いながら越智は立ち上がる。
 「ですが、あなたも今初めて話を聞いたばかりで混乱しているのかもしれません。明日一杯、告訴状の提出は見送るこ
とにして、楓君の誠意ある対応を待ってみましょう」
 「越智さん」
 「失礼します」
ここで話は終わりだと、越智はそのまま鞄を持つ。
引きとめるのも無駄だと判断した伊崎も立ち上がり、自ら応接室のドアを開いた。
 「・・・・・っ」
 事務所では、数人の組員が立ったままこちらを見ていた。
皆剣呑な雰囲気なのは前回のこともあるので仕方が無いかもしれないし、伊崎もそんな視線まで咎めるつもりは全くな
かった。
 「お客様のお帰りだ」
 「はいっ」
 直ぐに若い組員が立ち上がって事務所のドアを開く。
 「伊崎さん」
そんな周りの対応に少しも表情を動かすことなく、越智は伊崎を振り返ってフッと口元を緩める。
 「連絡、お待ちしていますよ」
 「・・・・・ご苦労様でした」
慇懃無礼に頭を下げる伊崎の言葉に軽く目礼し、越智は悠然とした足取りのまま事務所を出て行った。




 出来るだけ車を急がせて家に戻ってきた楓は、自らドアを開けて下りると走って事務所に向かう。
 「恭祐!」
そして、慌ててドアを開けて中に入った。
 「あ、坊ちゃん」
 「お帰りなさい」
 中にいたのは5人の組員達。彼らは口々に楓に帰宅の挨拶を掛けてくれた。
その様子は何時もと全く変わらないが、楓は微妙に雰囲気が張り詰めていることに気付く。何もなかったと楓に思わせる
ようにしているとしか思えないその様子に、楓は一番近くにいた組員に聞いた。
 「誰かいなかった?」
 「え?」
 「客」
 「い、いいえ、誰も」
(ビンゴ)
 声の震えを確実に感じ取り、楓はそのまま伊崎の部屋へと向かい、軽くノックをしてからドアを開けた。
 「恭祐」
 「お帰りなさい、楓さん。何時もより少し早かったですね」
伊崎は外の気配で楓の来訪に気付いていたのか、何時もと変わらずに優しい微笑を向けながら立ち上がる。だが、その
行動も今の楓には芝居じみて見えた。
 「もう少し遅い方が良かったか?」
 「・・・・・」
 「でも、どうやらこれでも十分遅かったみたいだけど」
 試すように言えば、伊崎は困ったような笑みを頬に浮かべる。
その表情に、自分が危惧していた何かがあったのだと確信し、楓は後ろを振り返った。そこに立っていた津山の腕を掴ん
で部屋の中に引き入れると、そのままドアを閉める。
 「話せ」
 「楓さん」
 「俺に関係することだろう?」
 わざわざ、津山にメールを送るくらい、楓がいない方がいいと思った状況がここにあったのだろうと見据える。
しばらくその視線を見返していた伊崎は、小さくそうですねと呟いた。
 「あなたに確認もしておかなければなりませんし」
 「確認?」

 楓が平井に暴行をし、怪我を負った平井が弁護士を雇って、告訴状を突きつけてきた。
その話を聞いた時、楓は思わず呆気に取られてしまった。
(俺が、暴行?)
 まったく、そんな覚えは無い。いや、今日の午前中、平井の頬を引っ叩いたのは確かだが、わざと当たりを弱くするため
に拳ではなく平手にしたほどだ。
赤くなってはいたが、あれで全治三週間とはどれだけ話を盛ったのだろう。
 「あいつ・・・・・」
 「楓さん」
 「俺が、平井を引っ叩いたのは事実だ」
 真意を問う伊崎に、楓は苦々しく答えた。
 「三週間もの怪我を負わせるほど、俺の腕力は強くないつもりだけど・・・・・手を出したのは不味かった・・・・・ごめん」
あの時は、どうしても平井の勝手な言い草を無視出来なくて手が出てしまったが、まさかそれが警察に訴えるという所ま
でいくとは全然考えていなかった。これは、自分の考えが甘かったといわざるをえない。
(平井・・・・・どういうつもりだ?)
 何が目的で楓を訴えたのか、平井の真意をきちんと量る必要があるかもしれない。そう思った楓は早速平井に連絡を
取ろうと考えたが、
 「楓さんは何もしなくていいです」
伊崎はきっぱりと言いきった。
 「恭祐っ」
 これは楓に売られた喧嘩だ。自分が対応しなくてどうするのだと思うのに、伊崎は楓を真っ直ぐに見つめて言いきかせる
ように言葉をつむいだ。
 「平井という男の真意はともかく、越智がわざわざ組事務所に乗り込んできたということは、相手の目的はこの日向組
にあるのだと考えられます。多分、楓さんのことはいい口実に使われたのでしょう」
 「そんな・・・・・」
 絶対に違うとは言い切れず、楓は伊崎の言葉に反論が出来ない。
 「万が一、本当に楓さんに謝罪を求めているのだとしても、あなたはまだ未成年だ、責任は親にあると考えるのが普通
です。ですから、楓さん、あなたはもう平井という男に会わないでください」
 「でもっ」
 「いいですね?」
 そう決め付けるように言った伊崎は、側に控えていた津山にも同じことを言っている。
津山は楓の護衛として付いているが、直接の上司は伊崎だ。若頭の伊崎の言葉に津山は逆らうことはしないだろう。
(俺に・・・・・引っ込んでいろっていうのか?)
 何もしなくていい・・・・・その言葉が一番辛い。
成人していないということがこんな意味で自分の気持ちを押し殺してくるなど、楓は初めて思い知った。




 楓がじっとしていない性分だとは十分分かった上で、伊崎は念を押すように言った。
今回のことは、肩書きが弁護士という存在が絡んでいるので下手な動きは出来ない。たとえ相手に非があるとしても、
世間はどうしてもヤクザという方へ嫌悪の視線を向けるものだと分かっているからだ。
(それに、どうしてもあいつと楓さんは会わせたくない)
 何を考えているのか分からない、それでも切れ者だというのは会話をしているだけでも十分分かる越智。
どういった意味ででも、楓があの男と顔を合わせるのは絶対に避けなければならない。あの楓に会ったら・・・・・ずば抜け
た美貌以上に、あの輝く魂を見たら、越智はきっと・・・・・。
 「それで、その診断書というのは本物なのか?」
 それから一時間後。
出先から帰ってきた雅行の前に出た伊崎は、越智の訪問とその理由を告げた。
診断書を手にし、眉を顰めてその話を聞いていた雅行は、苦々しいものを吐き出すようにそう言い、伊崎もこの一時間
で確認したことを報告した。
 「はい、一応その病院は存在していますし、電話でですが医師に確認を取りました」
 「・・・・・楓も認めているんだな?」
 「はい」
 「・・・・・ったく」
 雅行は舌を打ったが、それはきっと楓に対してではない。楓にちょっかいを出し、その上振られたからといってこんな姑息
な手段に出た平井に対して憤りを感じているのだろう。
 「・・・・・楓がちょっかいを出されるのは不可抗力だが、今回は相手が悪かったな」
 「・・・・・」
 「まさか、警戒していたあいつが絡んでくるとは・・・・・」
 確かに、つい先日話したばかりの懸案が、こうやって現実のものになるとはさすがに伊崎も予想は出来なかった。
 「申し訳ありません」
 「伊崎」
 「私の対応が不十分でしたので、あの男がまた現われたんでしょう」
揚げ足を取られないよう、言葉には気をつけたつもりでいても、相手にとってはそれを根に持つこともある。
越智が癖のある人物だと十分分かっていたくせに用心に用心を重ねなかった自分が一番悪いと、伊崎は深く頭を下げ
た。
 「楓は?」
 「部屋にいらっしゃいます」
 無意識なのか、雅行の視線が母屋の方へ向けられる。
 「・・・・・暴走しないだろうな」
それは、伊崎も最大の懸念だ。言葉で幾ら止めても、楓は立派に考え、行動する力がある。
(守られるだけなことを嫌がる人だから・・・・・)
 外見に見合わず、男らしい楓。それはとても彼らしく、誇れる長所ではあるものの、こういう時は大きな心配の種にもな
ると、伊崎は少し声を落とした。
 「津山に、しっかり見張るように言いつけてあります」
 「それで済むか?」
 「・・・・・私からも、よくお願いします」
 「・・・・・」
 雅行の視線が再び自分に向けられた。
 「その言葉、しっかり守ってもらうぞ」
 「はい」
一礼した伊崎は組長の部屋を出て、自分の部屋に戻る。本当は直ぐに楓の部屋に行き、きっと高まっている彼の感情
を宥めてやりたいと思うものの、しなければならないことがあった。
(あいつの背後に何があるのか・・・・・)
 一応は調べたが、それではきっと足りなかったのだ。隠された真実を探るために、一刻も早く行動しなければならない。
(先手は打たれたが、二度は許さない)