縁と月日は末を待て




16







 翌日、楓が目を覚ました時には既に伊崎の姿はなかった。
夜を一緒に過ごしても、同じ屋根の下で主従という立場がある限り、伊崎は何時も楓と過ごしたことを他の者に知られ
ないように夜が明ける前には部屋を出ていた。
 それを寂しいと思わないくらいには、楓も今の自分たちの立場を知っている。
 「・・・・・」
身体は綺麗に拭かれていて、パジャマまで着せてもらっている。一見すれば昨夜抱かれたことなどわからないのに、確
かに残る身体の奥の疼きは夢では感じ得ないものだ。
 ゴロンと寝返りを打ち、楓は視線の先のドアを睨みつける。
 「手加減せずに出来るじゃないか・・・・・」
基本的に、伊崎のセックスはとても優しく、何時だって楓の快感を優先してくれる。しかし、昨日は楓の暴走を懲らしめる
ためか意地悪なこともされた。
そんな伊崎の少し強引なセックスがとても気持ちが良かったなんて絶対に言わない。
 「・・・・・起きないとな」
 今日も休みではない。
それに、朝食の時間は合わせなくてはならないと、楓はまだジンジンと痺れる下半身を庇いながら立ち上がった。

 「おはようございます、ぼっちゃん」
 「おはよー」
 寝起きは悪い方ではない楓は、廊下を歩くごとに挨拶をしてくる組員達に一々挨拶を返す。たったそれだけでも、その
日一日の組員達の士気が上がるということがわかっているからだ。
 「・・・・・」
 そして、朝食が用意されている座敷に行くと、既に父と母、兄、そして伊崎以下組員達も揃っていた。
 「・・・・・遅いぞ、楓」
兄の挨拶は何時もと変わらないが、その眼差しの中には気遣う色が見える。昨夜叱ったことを気に病んでいるのかもしれ
ないが、それは楓も納得したので返ってそんな目を向けてくれない方が良かった。
良くも悪くも自分に甘い兄に内心ごめんと謝った楓は、表面上はそっけなく挨拶を返す。
 「・・・・・おはよう」
 「おはよう、楓」
 「おはよう」
 他の者とも挨拶をかわして、母の隣の席に座った。
 「少し疲れているようだけど大丈夫?」
 「・・・・・そんなふうに見える?」
母が頬にそっと触れてくる。
 「色々と考えることもあるかもしれないけど、あなたの味方は周りにたくさんいるということ、忘れないでね」
 「・・・・・うん」
 それは、本当に嫌というほどわかっている。兄がどんなに自分のことを思って怒ってくれたのか、伊崎が何時もと違うよ
うに抱いたのか、その意味がわからないようでは本当に馬鹿だ。
 楓はチラッと伊崎に視線を向ける。珍しく、伊崎も真っ直ぐな視線を向けてきているので、楓は置いていかれた寂しさも
込めてべーっと舌を出してみせた。




 食事が終わると、大学に行く支度をする。
そして玄関先で津山の出迎えを受けた楓は、そこに若い組員2人が一緒にいるのを見て眉を顰めた。
 「田代と森重・・・・・どうしたんだ?」
 「組長に、今日からしばらく楓さんに付くようにと」
 2人に変わって答えたのは津山だった。
(津山だけじゃなくって、この2人も大学に同行するってことか?)
津山よりも遥かに雰囲気が柔らかく、若い2人は、難なく大学の構内にも同行できる外見だ。一応気は遣ってくれたよう
だと、兄と伊崎の顔を思い浮かべた。
 「申し訳ありませんが、楓さんが拒んだとしても・・・・・」
 「いい」
 「・・・・・本当に?」
 「これだけ勝手なことをして、護衛を増やすだけで済んだだけでもいい方だろう?」
 もしかしたら、状況にある程度のカタがつくまで部屋に閉じ込められていてもおかしくないのだ。大学に行かせてもらうだ
けでもありがたいと思わなければと楓は意識を切り替える。
 「行くぞ」
 「はい」
 「は、はいっ」
 初めて楓に付く2人は、かなり緊張している様子は見えるものの、それ以上にやる気も漲っているようだ。
一応日向組の次男坊を守るのだからなと楓は思っていたが、彼らが憧れの楓を守るということに緊張しているのだという
ことには気付かない。
 「出来るだけ目立たないようにな」
 「はい!」
 何を言っても、今日はこの強張った声を聞きそうだ。
楓は何だかおかしくなって笑いながら、3人を引き連れて家を出た。




 どうやら楓は増えた護衛のことには文句を言わずに出掛けたらしい。
そのことに多少意外に思ったが、伊崎は内心ホッと安堵していた。昨夜、ベッドの中で何度も気をつけるとは答えてくれた
ものの、楓自身が気をつけてもどうしようもないこともある。
 津山は有能な男だし、新しく付けた若い2人も腕には覚えがある者たちだ。とにかく、しばらくはこのまま何もなく過ごして
くれたらいい・・・・・そう思っていた昼過ぎ、日向組に思い掛けない来客があった。
 「若頭っ」
 慌ただしくドアがノックされたかと思うと、1人の組員が飛び込んできた。
 「あのっ、今っ、事務所に!」
 「落ち付け。一体何があった?」
 「あいつっ、あの弁護士が来ました!」
 「・・・・・」
その言葉を聞いた瞬間、伊崎は直ぐに椅子から立ち上がり、入口で棒立ちになっている組員を押し退けて部屋から出
る。
直ぐに事務所の机や来客用のソファが目に入るが、伊崎の視線の先には入口付近で数人の組員に囲まれている越智
がいた。
 「まだ、以前にいらしてから間がありませんがどうされましたか」
 慇懃な態度で話し掛けるが、組員に下がれとは命じない。すると、越智は今の状況をまったく気にとめないように口元
に笑みを浮かべた。
 「随分と歓迎していただいて嬉しいですね」
 「・・・・・」
 「若頭も、彼らと同じお気持ちのようですが」
 余裕たっぷりなその態度を腹立たしく思うが、手を出したらこちらが負けだ。
伊崎は越智を見据えていた視線を外し、来客用のソファを指し示した。
 「どうぞ」
 即座に追い返すことは諦めたが、それでも歓迎しているわけではないという意思を示すように、茶など用意させるつもり
はない。ソファに座って落ち付いたらしい越智に、伊崎はもう一度繰り返した。
 「それで、どんな御用でしょう?訴状を提出したという話でしょうか」
 先日事務所に来た時は、既に関係書類は準備しているというような雰囲気を匂わせていたように思う。それをいよいよ
提出されたのなら、こちらも覚悟を決めて動かなければならなかった。
 組の一員ならまだしも、楓はいくらヤクザの家に生まれたといえど普通の大学生だ。雅治も雅行も、楓だけは普通の生
活を送らせてやりたいと思っているので、その名に傷がつくことだけは避けたいと思う。
(こちらも、弁護士を雇うようになるな)
 日向組の名前を出せばなかなか良い弁護士がつかないかもしれない。非合法な組織に与することを良しとしない弁
護士は多いし、何より金がなかった。
 だとしたら、考えられるのは大東組の本部に訴えることだ。総本部長という組のNo.3に新しく就任した江坂凌二なら
ば、有能な弁護士を紹介してくれるはずだ。
 「先日の件ですが、ここに来る前に断りを入れに行きました」
 「・・・・・断り?」
 しかし、思い掛けない越智の言葉に、伊崎はさすがに驚いて聞き返してしまう。そんな伊崎に越智はまったく慌てずにえ
えと頷いて見せた。
 「今後、日向楓君に対して告訴状が出る可能性はゼロではありませんが、私が担当しない限り告訴状自体を受け入
れて貰えるかどうかもわかりませんし、仮にそうなったとしても、今度は私が楓君の弁護を引き受けます」
 「・・・・・それはどういうことですか」
 「どう言うとは、言葉のままですが?」
 その瞬間、伊崎は立ち上がった。上から睨みつけるように越智を見下ろしても、越智は少しも動揺した様子は見せな
い。
(こいつ、まさか楓さんに・・・・・)
わざわざ大学にまで行って楓と直接接触してきたくらいだ。訴訟相手と言うよりも、楓自身に興味を抱いたと思った方が
いいだろう。
 最大限の警戒をする伊崎の雰囲気につられたのか、事務所内にいた組員達もいっせいに立ち上がって臨戦態勢にな
る。多勢に無勢などと、綺麗事など言うつもりはない。周りからどんなふうに見られていても、自分たちはヤクザ、だ。
 「口を謹め」
 「何か、誤解されているんじゃないですか、若頭」
 「・・・・・」
 「私は私欲のために彼に近づこうとしているわけじゃない。あくまでも彼の、楓君の力になりたいと思ったからですよ」
 「楓さんの、力に?」
 今の今まで楓を追い詰めようと画策していたくせに、そんなことを言うのはあまりにも滑稽としか思えない。
口から出まかせを言って今度はどんな手段を講じようとしているのか、伊崎は油断のならない男をさらにきつく見据えた。




 「楓!」
 「・・・・・」
 大学の門をくぐった瞬間、楓は悲痛な声で呼び止められる。
その声で相手が誰だかは直ぐにわかったが、わざわざ足を止める必要もないだろうと歩き続ける。
 「楓っ、待ってくれ!」
 その声はドンドン近付いて来て、今にも楓の身体に手が掛かりそうなほどに大きくなった。しかし、楓はそのまま無視し
て歩く。
 「なっ、なんだよっ、お前らっ?」
 「・・・・・」
 「おいっ!」
 「・・・・・」
(煩い)
 そうでなくても目立つ自分には周りの視線が多く集まる。どんなトラブルを抱えているんだという好奇の眼差しを向けられ
るのも面倒だと、仕方なく溜め息を突きながら振り向いた。
 そこには声の主、平井が、今日から新しくガードに付いている森重に腕を掴まれてもがいている。
いかにも堅気じゃない雰囲気の津山は何時ものように門外で足を止めたが、一見して大学生にも見える若い田代と森
重は楓に同行して学校内に足を踏み入れていたのだ。
 「離せよっ!」
もちろん、平井は森重がヤクザだとは知らない。知っていたらこんなにも激しい抵抗はしないに違いない。無知と言うのは
怖いなと思いながら、楓は森重に合図をして裏庭へと向かった。

 人の目の少ないところを探すのはなかなか難しかったが、それでも運動部の部室が並ぶ棟と校舎の間にある空間に落
ち付くことが出来た。
 ここにいるのは自分と平井、そして2人の組員だ。2人のことを何も知らない平井にわざわざ説明してやることもないだろ
うなと、楓は淡々とした口調で言った。
 「いったい何の用?俺は話はないんだけど」
 「こいつら、楓の知り合いかっ?席を外すように言ってくれよっ」
 「・・・・・」
 楓はチラッと2人を振り返る。
 「知り合いなのは間違いないが、俺が命じて止めさせることは出来ないよ」
 「・・・・・え?」
 「こいつらの主人は俺じゃないから」
その言葉に、それまで気色ばんでいた平井の顔が一瞬で青ざめた。平井も、当然のことながら楓の家がどんな家業をし
ているのか知っているはずだ。そこから考えれば、楓を守り、なおかつその楓が命令できない相手となればおのずとその
立場にも思い至ったのだろう。
 「・・・・・」
 無意識なのか、ザッと後ずさる平井を楓はじっと見る。ここで逃げても構わないし、言いたいことがあるのならさっさと言っ
て欲しい。
 「お、俺はっ」
 「・・・・・」
 「俺はっ、どうしてもお前が欲しくて・・・・・!」
その言い草に、楓はフンッと鼻で笑った。