縁と月日は末を待て




17







 自分を欲しがる人間がいるというのはわかる。
しかし、自分自身に何の力もない者が、ただ欲しいのだと喚くだけで手に入れることが出来るほど自分は安い存在では
ない・・・・・楓はそう自負していた。
 特に平井は、弁護士と言う社会的に権力のある第三者をたててきた。この時点で、楓の中で平井という存在はバッサ
リとたち切った存在となったのだ。
 「その答えは前にも言った。それでわからないのなら、お前はこの大学にいる意味はないんじゃないか」
 「・・・・・っ!」
 「平井、お前という存在だけでは、何の価値も見出せないな」
 「な・・・・・っ?」
 冷た過ぎると思われてもいい。
ここで改めてきっぱりと意思表示をしなければ、この手の男はズルズルとつきまとってくるに違いない。
毒にも薬にもならない男だが、不快感をかきたてるだけの存在は視界にさえ入れたくなかった。
 「じゃあな」
 「楓!」
 そのまま平井の横をすり抜けようとした楓の腕を反射的に捉えようと思ったのか、平井が手を伸ばしてくる。
しかし、当然のようにその手は楓の護衛の1人である田代が掴み、森重は楓の前に守るように立ちふさがった。
 「楓・・・・・っ!」
 それでもまだ悲痛な声を上げてくる平井に、楓はチラッと視線を向けた。
その目は、多分平井が今まで知っている日向楓のものではなく、ヤクザの息子である冷たい殺気を含んだものだったの
だろう、それまで触れることしか頭の中に入っていなかったらしい平井が、青褪めた顔で動きを止める。
 「気安く名前を呼ぶな。今度その舌に俺の名前を乗せれば、遠慮なく手を出させるぞ」
 「そ、そんな・・・・・」
 「じゃあな、平井。大学をやめることはないが、二度と俺に話し掛けるな」
 終わりだと、楓は確信した。
自分自身に力がないということを知り、楓がヤクザの息子だと改めて思い知った平井は、学校内で二度と楓に話し掛け
てくることはないはずだ。
 たとえ、ねっとりとした眼差しが向けられたとしても、楓はすべてシャットアウト出来る。
 「おい」
そこまで考えた楓は、後ろに付く2人に言った。
 「このこと、兄さんには・・・・・」
 「大学内であったことはすべて報告するようにと言われています」
 「・・・・・仕方ないか」
(兄さんも、素人相手に本気を出すことはないだろうし)
 もしも兄が動いた時は、平井が何かをした時だ。その時に自分は平井を庇う必要もないと、楓は今あった出来事を頭
の中からすっぱりと消し去ることにした。




 伊崎はじっと越智を見る。何をしようと考えているのか、顔に張り付いた笑みを見る限りではわからないが、今の申し出
も簡単に受け入れるほどに伊崎も甘くない。
 「わかりませんね」
 「何が、でしょうか?」
 「あなたが今のクライアントを捨てて、うちの組を取る理由が、です。あなたもこれまでの経緯の中で日向組の内情も調
べたと思いますが、うちはけして弁護士という職業の者にとって美味しい存在ではない」
 ヤクザお抱えの弁護士になる。それ自体、普通の弁護士から見れば大きく逸れた道だろうが、商売として考えればそれ
ほど悪いものばかりではない。
 非合法な存在を守ってくれる代償としてそれなりの金銭を提示する組は多く、巨大な組織の大東組も何人かの凄腕
の弁護士を囲っている。
 しかし、この日向組には弁護士に掛ける金はない。虚栄心が大きそうな越智がどんなうま味を見出しているのか・・・・・
伊崎は視線を逸らさないまま言葉を続けた。
 「中から壊そうとでもしているとしか思えませんね」
 「・・・・・私の言葉をちゃんと聞いて貰っていたんでしょうか?私は私欲のために彼に近づこうとしているわけじゃない、あ
くまでも楓君の力になりたいと言ったはずですが」
 「それは、聞きました」
 伊崎の中で面白くない思いが強くなったのもそれを聞いたからだ。
無意識のうちに顔が強張る伊崎の心中を正確に読みとっているのか、越智はことさら落ち着いて次の言葉を口にした。
 「それがすべてですよ」
 「・・・・・」
(楓さんのこと・・・・・本気なのか)
 今回のことで楓のことを知った越智が、その存在を手に入れようとしているのか。
楓を知れば誰もが彼を欲しがることは嫌というほど知っている。津山をはじめ、身内である日向組の組員からして楓を見
る目にはある特別な感情が込められているほどだ。
 楓の、自分に向けられる真っ直な想いを信じられるからこそ、伊崎は燃え上がる嫉妬を押さえることが出来ているが、
越智に関してはなかなかその先を読むことが出来ない。
 さらに、楓が弁護士を目指していることを知っている伊崎にとって、越智は同じ世界に生きる先駆者として楓にとって特
別な存在になりえる相手だ。今は越智を毛嫌いしている楓も、もしもこの男がこちら側になってしまったら思いも変化して
しまうかもしれない。
 「若頭」
 黙ってしまった伊崎が何を考えているのか予想がつくのか、越智がフッと口元を綻ばせて言った。
 「確かに、彼に対する私の興味が、まったくセクシャルな意味を含んでいないとは言いません」
 「・・・・・っ」
 「ですが、これくらいで彼にとって有益になりうる私を遠ざけることが出来るんですか?」
 「貴様・・・・・っ」
悔しいが、この男が楓にとって利用価値があるかどうかと言えば、絶対にあると言っていいと思う。
伊崎ではわからない弁護士の仕事に付いて、現役の人間が傍にいればどれほど勉強になるのか・・・・・。楓のことを考え
れば、答えは見えているのはわかっている。
 ただ、伊崎はどうしても素直に頷けないのだ。
しばらく越智を睨んでいた伊崎は、無言のまま立ち上がった。
 「どうされました?」
 「一緒に、組長のもとに行っていただきます。今のあなたの言葉を、組長の前でも繰り返して下さい。どう判断をされる
のか・・・・・私は組長の言葉に従います」
 楓のことを思う雅行が、越智の言葉をどう捉えるか。
伊崎は自分自身の想いも試されるような気がしていた。




 「・・・・・楓に、か」
 「ええ」
 組長である雅行を前にしても、越智はまったく動揺した様子も見せずに伊崎に言った言葉をそのまま繰り返した。
今の雅行は、きっと日向組の組長という立場よりも、楓の兄という意識の方が強くなっているかもしれない。何時もの威
圧感はかなり薄れ、思慮深い目で越智を見つめている。
 やがて、雅行はその視線を伊崎に向けた。
 「伊崎」
 「はい」
 「お前はどう思っている?」
正直なところ、こんな胡散臭い存在を楓に近付けたくはない。近付けたくないが、それでも・・・・・。伊崎は静かに口を開
いた。
 「楓さんにとっては有益でしょう」
 「・・・・・」
 「裏切らないという確証があれば、ですが」
 ヤクザの組長を前に口先だけで逃げることなど許さない。
そんな伊崎の意思が伝わったのかどうか、越智は片眉を上げた後、そうですねと少し考えるように言って、不意に鞄の中
から数枚の書類を取り出して雅行の前に置いた。
 それを手にとって見た雅行の顔が、驚いたように表情を変える。一体どんなことが書かれてあったのかと思った伊崎に、
雅行は無言で自分が見ていた書類を手渡した。
 「これは・・・・・」
書類に書かれてあった数十人もの名前。政財界から芸能人まで、見知った名前が連なっている。
 「私の顧客リストですよ」
 「・・・・・これは、職務上秘密にしておかなければならないものじゃありませんか」
 「だから、ですよ」
 「・・・・・」
 「この顧客の中に、いずれあなた方にとってプラスに出る者がいるかもしれない。その時は迷わず、私は紹介すると誓い
ますよ」
 これだけの顧客を持つということからしても、越智がかなり有能な弁護士だというのはわかる。
そして、そんな顧客とヤクザの橋渡しをすると堂々と言うところからしても、その度胸の良さに感心するしかなかった。




 平井との、胸が悪くなるような不快な対面の後、一つだけ講義を受けた楓は帰宅することにした。
本当はもう一つ受けたい講義があったが、眠気と鈍い腰の痛みに加え、朝あまり話せなかった伊崎のことが気になったの
だ。
 「坊ちゃん」
 「あ、ただいま」
 玄関先で出迎えてくれた組員に何気なく言えば、組員にそのまま組長のもとに行って下さいと言われる。
 「・・・・・何の用?」
 「す、すみません、俺にはわからなくて」
 「・・・・・わかった」
まだ、小言が言い足りないのだろうか。
(朝言ってくれたら良かったのに)
面倒だなという気持ちはあったが、それでも無視することは出来なくて座敷の方へと向かう。すると、中から人が会話する
声が聞こえてきた。
(・・・・・恭祐も一緒なのか?)
 あの2人がタッグを組んでの説教。寄り道をして帰ってくれば良かったという思いが生まれてしまい、自然と足を止めてし
まったが、後ろに控えていた津山がどうぞと後押しをしてくる。
 とにかく神妙にして、早く説教を終わらせてもらうしかないと、楓は大きな溜め息をついてから、
 「兄さん、入るよ」
そう声を掛けて襖を開いた。

 「・・・・・」
 中に視線を向けた楓は一瞬動きが止まる。
 「お帰り、楓」
 「お帰りなさい、楓さん」
兄と伊崎がそう言って迎えてくれるが、楓の視線は2人の方に向かわない。
 「お帰りなさい、楓君」
そう、笑いを含んだ声で迎える人物しか、楓の視界には入らなかった。
 しかし、驚きはそう長い間は続かず、次の瞬間に楓の中に湧き上がったのは不快感だ。大学で平井と対面した時以
上に腹が立つ。
 「あんた、なんでここにいるんだよ」
 「組長に許されたからですが」
 「兄さんっ」
 どうしてこいつなんかを家に招き入れるのかと迫ろうとしたが、
 「座れ」
冷静にそう返されてしまい、楓は拳を握り締めたまま伊崎の隣に腰を下した。
無意識のうちにその服の裾を握ると、伊崎の大きな手が宥めるように重なってくる。温かくて、優しくて、楓は縋るように
その横顔を見つめた。
(恭祐・・・・・)
 ここは日向家の本宅で、傍には兄もいる。それでも、味方は伊崎だけしかいないような気がして、楓はますます伊崎に
寄りそってしまった。
 「あー、楓」
 咳払いをした兄が名前を呼ぶ。
 「・・・・・なに」
 「一応、お前にも言っておいた方が良いと思う。越智・・・・・彼を、日向組の顧問弁護士として雇うことにした」
 「・・・・・は?」
一瞬、、聞き間違いかと思った。
 「彼を顧問弁護士にする。これはもう、俺が決めたことだ」
 「どうしてだよ!」
 数日前、楓を訴えると組事務所まで乗り込んできた男を、どうして味方として迎え入れるのかまったくわからない。
越智が頭の良い男だというのはわかるが、反面、油断がならないということも肌で感じている。この感覚は多分合ってい
て、それは兄も、伊崎もわかっていると思った。
 「恭祐っ、お前も賛成したのかっ?」
 どうして兄を止めてくれなかったのかとスーツを握り締めたが、伊崎は淡々とした口調で答えを口にする。
 「組長の決められたことですから」
 「そ、それでっ?」
(俺がどう思うのか、お前ならわかってくれるはずなのに!)