縁と月日は末を待て




18







 楓が睨みつけても、伊崎はまるで動じない。
楓はギュッと拳を握りしめる。なんだか一人興奮している自分が子供で、我儘を言っているようにしか思えなかった。
(・・・・・よく、考えろ・・・・・)
 越智をこちら側にとりこんで、いったいどんなメリットがあるだろうか。
もちろん、組専属の弁護士がいるというのは心強い。わざわざ大東組に頼まなくても、ある程度の問題は内々で解決出
来る。
 最近、兄が積極的に取り組んでいる株式の取引などでも、弁護士が表に出れば組の名前を出さずともスムーズに取
引が出来るかもしれない。
 それに、これから弁護士を目指す楓にとっても、現役で働いている越智が傍にいることはかなり勉強になる。たとえ男が
人間的に問題がある者でも、弁護士として有能ならば楓にとっては有益だ。
 「・・・・・」
 頭ではわかっているつもりなのに、どうしても越智に対する不信感が先になり、なかなか兄の決定を受け入れる気にな
れない。明らかに不満な気持ちそのままに越智を睨みつけたが、男はまったく意にも返していないかのよういふっと口元
に笑みを浮かべた。
(俺なんか問題にならないって言うんだな・・・・・ムカつくっ)
 「楓君」
 不意に、越智が口を開く。
 「頭が悪くないという自負があるのならよく考えたらいい。私が君の傍にいることで、プラスとマイナス、どちらが多くなる
のか、君ならわかると思うが?」
 「・・・・・」
わかるから、返答をしたくない。
口を引き結ぶ楓を見て、越智はますます楽しそうに目を細めた。
 「じゃあ、もっと簡単に君が信じられる言葉を言おうか?」
 「・・・・・」
 「私は、日向組ではなく、君に興味がある。君に取り入るために、この組の顧問弁護士になるのを申し出た」
 「おいっ」
 薄々は感じていたことでも、さすがに口に出されては兄も黙って聞いていられなかったらしい。途端に低い声で威嚇し
たが、越智には全く効き目はないようだった。
 伊崎も、兄同様越智をきつく睨んでいるが、反対に楓は何だと妙に納得していた。
(俺を、手に入れたいってことか)
日向組をどうこうするというのなら、組の中に入ることを絶対に許せないと思うだろうが、その対象となるのが自分ならば
話は別だ。
越智がいくら楓を欲しても、楓自身の気持がブレなければ何の問題もない。
(俺の一番は、何時だって・・・・・)
 楓が視線を移すと、何時からこちらを見ていたのか伊崎と目が合った。
その眼差しの中には嫉妬の色はあったものの、不安は見当たらないように思う。伊崎も、自分と同じように考えてくれた
のだろうか。
(そうと決まれば・・・・・)
 気持ちを決めた楓は、ようやく自信に満ちた笑みを浮かべた。
 「今の言葉、後で取り消すと言っても聞かないから」
 「もちろん」
 「楓」
兄の声に振り返った楓は、大丈夫だからと頷く。
 「どんどん仕事を押しつけちゃったらいいよ、兄さん。俺の下僕になりたいって言うんだから」
 「おいおい」
 「違う?」
 反論は許さないと見据えると、越智は苦笑しながら肩を竦めた。
 「まあ、違わないか」
こうして話していても、越智がどこまで本気で言っているのか、まだ楓には掴みきれないと感じる。自分のことに興味が
あると言っても、それがイコール好意になるとは限らないかもしれない。
それでも、この男の存在は今後の日向組の武器になる・・・・・それだけは確かなような気がした。




 「楓さん」
 まだ兄が越智と話があると言うので、楓は自室に戻るとその場を辞した。今から話すだろう組のことには、今の楓には
何の発言権もないし、兄も多分聞かせたくはないはずだ。
その時、後ろから伊崎が駆け寄ってきた。
 「・・・・・」
 楓が黙ったまま振り向くと、伊崎はすぐ近くまで来て足を止め、じっと目を見つめてくる。
伊崎が何を言いたいか・・・・・楓にはよくわかる気がした。
 「俺がどういう気持なのか、お前にはわかっているはずだよな?」
 「・・・・・はい」
 「確かに、あの男は組にとっても俺にとっても利用価値がある。でも、一番最初に敵として現れたあいつを、俺は簡
単に自分の味方として認めることは出来ない」
 頭の中でわかっていても、感情まで追いついてこない。それでも、あの場で頷いたのは、多分兄も伊崎も楓のことを
考えてくれたとわかったからだ。
自分の意思を、それも疑念を押し殺すというのはかなりきつい。それをするのは、兄と・・・・・伊崎のためだ。
 「こうなったら、とことんあいつを利用してやる。俺が一日でも早く弁護士になればあいつは用済みだからな」
 「ええ、もちろんです」
 「・・・・・妬くか?」
 「妬きますよ」
 「・・・・・馬鹿」
 「本当に、申し訳ありませんでした」
 いくらまだ秘密にしておかなければならない関係だとしても、もう少しわかりやすく嫉妬してほしい。自分が伊崎を好
きな以上に、伊崎も自分を思ってくれている・・・・・そう、態度に示して欲しいのだ。
(そんなふうに思う俺が子供っぽいのかもしれないけどっ)
 越智のことは、最終的に兄が決めたことだ。それにどんなに異論を唱えたかったとしても、伊崎が私情で動くわけが
ないということも理解出来る。
理解出来るが・・・・・思いがけない越智の待遇に驚かされたのだ、このくらいの文句は可愛いものだろう。
 「・・・・・恭祐、もうすぐ何の日かわかっているな?」
 「もちろんです。あなたの、誕生日ですね」
 「そうだ。二十歳の俺の誕生日。兄さんとの約束の日だ」
 「楓さん・・・・・」
 伊崎と恋人だということを意識的に隠してきたつもりはないが、それでも一つの区切りとして皆に言うことが出来る。
楓はずっとその日を待っていたのだ。
 「俺が誰のものか、皆の前できっちり宣言してもらうぞ。もちろん、あの男・・・・・越智の前でもな」
 どんなに欲しても、けして手に入らない存在だと見せ付けてやれ。
言葉にしない楓の思いに、伊崎は黙ってその身体を抱きしめた。




 自分がどんな表情をしているのか、楓はきっと自覚していないはずだ。
自信たっぷりな命令口調でも、その目は不安に揺れ動いていた。伊崎がどう思っているのか、想像してもわからないの
かもしれない。
(俺の気持は、何時だって決まっている)

 「俺が誰のものか、皆の前できっちり宣言してもらうぞ。もちろん、あの男・・・・・越智の前でもな」

 楓のこの言葉がどんなに嬉しかったか。
自分の想いがただの独りよがりなものではないということを実感出来、さらには周りの人間に楓が自分のものであると知
らしめることが出来るのだ。
 まだ大学生の楓は、この先一人前の弁護士になるまで親や兄の庇護のもとで生活をしていかなければならない。
(それでも、楓さんが俺を選んでくれることに、もう誰も文句を言えなくなる)
 「宣言します」
 「恭、祐」
 「俺も、ずっと待っていたんですよ、この時を」
芸術品のように完璧に美しい外見だけでなく、その心も眩しいほど輝いている楓を欲しがる者は数限りない。
その中で楓が伊崎を選んでくれたのはそれこそ奇跡で、どんなことをしても絶対に手放すつもりはなかった。
 ただ、楓が大切にしており、伊崎にとっても大事な主である雅行の言葉は守るべきもので、伊崎はどんなにか周りを
牽制したくても必死に我慢していた。
約束の日がどれほど長かったか、多分それは楓が感じている時間よりもはるかに長かったと思う。
 それも、もうすぐ終わる。
きっと、雅行はそう言った自身の言葉を後悔しているだろうが、伊崎ももう一度確認するなんて手間は掛けるつもりはな
い。
 「周りにあなたが誰のものか、早く言ってしまいたい」
 「・・・・・うん」
 「その時まで、後少しだけ・・・・・」
 待っていてくださいという言葉は、楓からされたキスで消えてしまった。




 楓と伊崎が席を外し、雅行は改めて越智を見た。
(こいつ・・・・・本当は楓をどう思っている?)
越智が楓に興味を抱いているのはさすがにわかったが、その種類がどんなものかは全く予想がつかない。今までも数多
くいた男たちのように邪な思いか、それとも・・・・・。
 「おい」
 大切な弟をみすみす危険に晒すつもりはない。楓本人に越智の処遇を伝えた後だからこそ、雅行は改めて男にくぎを
刺した。
 「言っておくが、楓には絶対に手を出すな」
 「・・・・・」
 誤魔化すことのない言葉に、越智が思わずと言ったように笑う。馬鹿にしたのではないだろうが、あまり面白い気持ち
はしなかった。
(だから、頭の良い奴は嫌いなんだ)
思えば、一番最初に伊崎に会った時も面白くない思いを抱いたはずだ。
すぐに楓が懐いたことも面白くなかったし、伊崎が楓目的で組に入ってきたのもなんだこいつはと頭にきたものだった。
 しかし、いったん組に入ってからの伊崎はかなり有能な組員で、今となっては日向組にいなくてはならない人材になっ
ている。
 唯一、楓に対する極甘な態度は雅行の目からしたら明らかだったが、他の組員の前では一応自制している様子なの
も認めていた。
その伊崎と、この越智が同じ感情を楓に抱いているとは思わないが・・・・・均衡を破るこの異質な分子を身の内に入れ
ると決めた以上、きちんと思い知らせておかなければならない。
 「あなたは、組長という立場よりも楓君の兄という立場の方が強いようですね」
 「何だと?」
 雅行は越智を睨みつける。父親譲りの厳つい顔は僅かに歪めるだけでも威力があるはずなのに、さすがに腹が据わっ
ているらしい越智はまったく動揺していない。
 「何を心配されているのかわかりますが、人の気持ちというものは他人にはどうしようもないと思いませんか?」
 「お前・・・・・っ」
 「まあ、どんなに甘い依頼主でも、私がいる限り守って差し上げますけど」
 「・・・・・っ」
雅行は腕を組み、越智から視線を逸らさないままもういいと言った。
 「俺が言いたいことは言った」
 「・・・・・わかりました」




 楓目的で日向組に取り入ろうと思ったが、どうやらなかなか面白そうな人材が揃っている。
初めから油断がならないと思っていた伊崎はもちろんだが、たいして問題にもしていなかった雅行も改めてさしで話せば
退屈しなさそうな人物だった。
 「・・・・・さて」
 これでも越智は一応人気がある弁護士だ。報酬次第では怪しい人物の弁護もするし、権力がある者も、もちろん弱
い者も救う。
こんなことを言えば楓にさらに嫌われるだろうが、要は越智は自分が気が向いた時、気が向いた者につくのだ。
 今回も日向組を選んだことにより、多少は調整をしなければならないこともある。それが面倒だと思わない程度には、
この日向組は越智の好奇心を満足させてくれそうだ。
 玄関から出ようとした時、越智は意外にも伊崎の見送りを受けた。
楓を追って出ていった男は戻ってこないと思っていたが・・・・・妙にすっきりとした表情で伊崎は越智の前に立った。
 「越智さん」
 「わざわざ見送っていただいて」
 わざとおどけたように言えば、伊崎は無表情のまま頭を下げてくる。
 「若頭?」
 「楓さんの力になってやってください」
この行動は予想の範疇外だ。どんな思いで頭を下げているのか判断付かないまま、それでも越智は自らも頭を下げた。
 「こちらこそ、よろしくお願いします」