縁と月日は末を待て




21







 目覚めは、何時もと変わらなかった。しかし、今日は楓にとって、いや、楓と伊崎にとっては大事な日だ。
 「・・・・・」
ベッドの中で、楓は一度目を閉じた。迷いはまったくなかったが、それでも気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸をし
た。
(・・・・・大丈夫)
 そう、自分自身に言い聞かせ、楓はようやく起き上がる。そして、パジャマから服に着替えた時、まるで頃合を見計らっ
たようにドアがノックされた。
こんな時間、部屋を訪ねてくる人物は決まっている。楓は自然に頬に笑みを浮かべながらドアへと近寄り、思わせぶりに
ゆっくりと開いた。
 「おはようございます」
 「おはよ」
 目を細め、愛しみの色を湛えた目で見つめてくるのは伊崎だ。
昨夜、日付が変わって電話をくれたので、朝は多分会えないのではないかと思ったが、こうして一番に顔を見ることが出
来て嬉しい。
 「恭祐」
 そう考え始めるとたまらなくなって、楓は伊崎の腕を掴み、そのまま部屋の中へと引っ張る。そして、伊崎の上半身が部
屋の中に入ったと同時に、少しだけ背伸びをして唇を合わせた。
 「んっ」
突然の行為だったが、伊崎は直ぐに後ろ手にドアを閉めると、楓の腰を抱え直し、合わせるだけだったキスをもっと深い
ものへと変える。舌を絡め、唾液を交換する、身体を合わせる時にする濃厚なそれに、仕掛けた側の楓の方が身体が
熱くなってしまった。
 「ぅ・・・・・ぁっ」
 楓の変化を敏感に悟ったのか、キスは不意に解ける。物足りない反面、ここで止めてもらって良かったと思いながら、楓
はパフッと伊崎の肩に額をのせた。
 「朝から、サカるな」
 自分の方からキスをしたというのは置いておいてそう言えば、すみませんと直ぐに謝ってきた。だが、その声はどこか笑
みを含んでいて、まるで宥められているような気分になった。
 「楓さん」
 「んー?」
 「誕生日、おめでとうございます」
 「それ、もう聞いたぞ」
 「何度でも伝えたいんですよ。あなたが生まれてきてくれたことがとても嬉しいから」
 バカと、口の中で怒るが、そこまで想われて嬉しくないはずがない。いや、伊崎にそう思われるのが嬉しかった。
(俺だって、お前の誕生日が嬉しいんだから)
こうして生まれているからこそ、自分たちは出会うことが出来たし、愛し合うことも出来た。もしも、今の時点で出会ってい
なかったとしても、存在さえしていれば絶対に出会い、愛し合うだろうと確信出来るほど、楓は自分と伊崎の間の深い絆
を信じている。
 そう・・・・・切ることの出来ない絆が自分たち2人には、ある。
 「今日だぞ」
 「はい」
 「ようやく、俺だけのお前になる」
誰からも尊敬され、憧れられる伊崎が、自分だけのものになるのだ。
 「あなたも、私だけの楓さんになりますね」
もちろんという思いを込め、楓はもう一度自分から伊崎の唇を奪った。




 途中まで伊崎と一緒にいたが、洗面所で別れた。楓は洗顔をすませ、まずは母のもとへと向かう。
 「おはよう」
 「おはよう、楓」
今朝も顔色は良く、母の身体の調子に心配はないようだ。これならば今日の自分の誕生祝いにもちゃんと出席をしても
らえそうだと思いながら、楓はキョロキョロと視線を動かした。
 「父さんは?」
 「なんだか、朝からバタバタしていたけど。多分、楓の誕生日プレゼントが関係あるんじゃないかしら」
 「えー?」
 「もう、ずっと楽しみにしていたんだから。怒らないでやってね」
 「・・・・・」
 「楓」
 母は自分に甘いが、多分、一番その甘さを発揮しているのは父に対してだろう。
見掛けはまさに美女と野獣。それでも、楓は両親が深く愛し合い、互いを想い合っていることを知っている。母がそう言う
限り、結局自分も父の暴走を許さざるをえないだろう。
(父さん、いったい何を用意したんだろう)
 母は別格として、楓は自分が父に溺愛されている自覚はちゃんとあった。その父が、楓の二十歳の誕生日にかなり
力を入れているだろうということも容易に想像は出来たが、一体何を用意しているかというのはどうにもわからない。
 何日も前から欲しい物のリサーチはされたが、結局はっきりした物は言わなかった。もしかしたらそのせいで、なんだか
驚くようなものを用意されているのかもしれない。
 「・・・・・それでも、すっごい無駄遣いなんかしたら許さないけど」
 一時期の、組の運営にも困るほどの貧乏ではなくなったとはいえ、潤沢な運営資金を持っているわけではない。
組のことに口を出さないと決めている楓も、事お金のことに関してはどうしても口が出てしまうのだ。

 「おはようございますっ、おめでとうございます!」
 「おはよう、ありがと」
 「坊ちゃんっ、おめでとうございます!あっ、おはようございます!」
 「ありがと、おはよう」
 母の部屋から出た楓は、すれ違う組員からことごとく朝の挨拶と誕生日の祝いの言葉を投げかけられた。もちろん嬉し
いが、一々立ち止まり、深く頭を下げられることに悪いなと思ってしまう。
(まったく、みんな娯楽がないからか?)
 楓はふうと溜め息をつきながら兄の部屋に向かった。
 「兄さん、おはよう」
 「・・・・・」
 「兄さん?」
外から声を掛けても、一向に返事はなかった。首を傾げ、楓はドアに手を掛ける。私室には初めから鍵など掛けられてい
ないので、簡単に中に入ることが出来た。
(いない?)
 部屋の中に、兄の姿はなかった。後十数分ほどで朝食の時間になるが、よほどのことがない限り、組員が呼びに来るま
では部屋の中にいるはずだ。
もしかしたら、組のシマでなにかあったのか、もしくは、大東組絡みの問題か。
伊崎が朝来た時は何も言っていなかったので、それ以降に何かあったのかもしれないと、楓は足早に母屋から組事務所
へと向かった。
 「あっ、坊ちゃん?」
 「おはよう、兄さんは?」
 昨夜の当番の組員が、楓の姿に慌てて椅子から立ち上がる。そんな彼らに兄のことを問えば、組長室にいると教えら
れた。だが、そう教えてくれる組員たちの顔に切羽詰まった様子は見えない。
(何もないのか?)
 緊急の用件がなかったとしたら、どうして兄はこうして朝早くから組に顔を出しているのだろうか。兄の行動を考えながら、
楓は閉められたドアの前に立った。




 「兄さん、俺」
 ノックと共に聞こえてきた声に、雅行は慌ててソファから身を起こした。
 「何だ?」
出来るだけ平静な声を出したつもりだが、どこか不安げな色を帯びていたのだろうか。入室の許可も与えていないというの
に(それはいつものことだが)勝手に部屋の中に入ってきた楓は、ソファの横に跪いて雅行の顔を見上げてきた。
 自分はほとんど眠れなかったのに、楓の表情はすっきりとしていて、相変わらずとても可愛い。本当に、雅行にとって楓
は可愛くて可愛くて仕方がない弟なのだ。
 「気分悪い?」
 「楓・・・・・」
 「とんジイ、呼ぼうか?」
 とんジイ・・・・・それは、昔から日向組のかかりつけの医者である戸笠(とがさ)内科の院長のことだ。もう七十も半ばの
院長はヤクザをヤクザとも思わない豪快な初老の医師で、楓はもちろん、雅行が赤ん坊の頃からずっと世話になってきた
人だった。
 可愛い楓は随分可愛がられているが、ガタイの良い雅行のことは遠慮なく拳骨で言うことをきかされてきたあの医師に
はどうしても・・・・・弱い。
雅行はきちんとソファから足を下ろすと、楓の髪をクシャッと撫でた。
 「本当に大丈夫だ。ま・・・・・色々と考えることがあってな」
 ずっと眠れなくて、朝方につい、事務所の方へと足を運んでしまった。自分でも、これほど神経質な性質だとは思ってい
なかったのだが。
雅行の言葉に思うことがあったのか、楓は一度目を伏せてから、改めて真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
 「俺たちの気持ちは変わらないから」
 「・・・・・」
 「兄さんも、覚悟を決めて欲しい」
 「・・・・・わかってる」
 自分が一方的に突き付けた約束を、今日まで律儀に守ってきた2人だ。この上、さらなる条件を提示することなど出来
ない。
さすがに、それは男らしくない。
(・・・・・わかってるんだ)
 いずれは、自分の手の中から巣立つ、愛しい弟。だが弟・・・・・楓には、ヤクザなどという裏の世界のことは一切関係な
く、優しい女性と、温かで幸せな家庭を築いて欲しかった。それが、雅行の勝手な願望だというのは百も承知だ。
(それでも、未練たらしくどうにかならないかと考えたんだ)
 雅行は立ちあがり、楓に向かって片手を伸ばす。その手を取った楓のそれは、白くてたよやかで・・・・・それでも、力は強
かった。
 「飯、行くか」
 「うん」
 にっこりと笑った楓の顔は本当に可愛い。
いっそ、楓が妹だったら諦めも早くついたかもしれないなと、あり得ないことを考えてさらに落ち込んでしまった。
そんな思いを振り切るように、朝食をとろうと雅行は楓と共に部屋を出る。その時、手を離そうと思ったが、楓はしっかりと
握ったまま離さなかった。
 「楓」
 「・・・・・」
まさか逃げるつもりだと思われていないだろうが、信用されていないのだろうか。




 まだ、どこか納得のいかない様子の兄と共に、楓は朝食をとるために広間へと向かう。
既に父を始め、他の組員たちも揃っていた。もちろん、伊崎も自分の席にもうついている。
 「・・・・・」
 その顔を見ると、どうしても今朝のキスが頭の中を過った。身体は合わせていないが、思いはしっかりと確かめ合い、心
は合わさった。
(そうだよな、恭祐)
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 目が合い、つい笑みを浮かべてしまった。次の瞬間、ツンと手をひっぱられる。まだ手をつないだままだった兄の子供っぽ
い行動に思わず笑って、楓は素直に自分の席に着いた。
 「おはよ、父さん」
 「おはよう、楓」
 まだ挨拶をしていなかった父にそう言うと、厳つい顔を緩々に弛めた父が返してくる。その顔を見ると、どうやら自分の考
え通りのプレゼントを用意出来たようだ。朝からいったいどこにいったのか、問い詰めたらボロボロと口から秘密をバラしそう
なのだが・・・・・。
(それが何なのか知るのが怖いじゃん)
 そう考えながら目の前の膳に視線を移した楓。
 「・・・・・すご」
まさか、朝から赤飯に、鯛の尾頭付きの塩焼きが出るとは思わなかった。そこまで、自分の誕生日を祝ってくれる気持ち
が嬉しいというか、くすぐったい。
 「金谷(かなや)」
 楓は給仕をしている料理長の名前を呼んだ。
 「ありがと、美味そうだ」
 「祝い事ですから」
目を細めながら、そう答えが返ってくる。本当に、皆自分には甘い。
思わず楓が笑っていると、父が立ちあがり、並ぶ組員たちを見渡しながら言った。
 「みんな、今日は楓の二十歳の誕生日だ。大人の仲間入りをしたこいつの記念すべき日を皆で祝ってやってくれ」
 「「「おめでとうございます!!」」」
 全員が声を揃えて祝いの言葉を贈ってくれる。楓は自分も立ちあがり、深く頭を下げた。
 「ありがとう、みんな。今日から俺も、自分のことは自分で責任を取らなければならない歳になった。まだまだ頼りないだ
ろうが、どうか見守って欲しい」