縁と月日は末を待て
25
何時の間にか伊崎と父の間に入っていた兄は、そう言ってしばらく伊崎の顔を見ていた。何も言わないことに楓は不安
になったが、伊崎の表情に変化はない。
ようやく視線を離した兄は、まだ怒りが収まりきっていない父に向かって言った。
「楓の気持ちを考えてやれよ」
「雅行、お前・・・・・」
「何も、結婚してこの家を出て行っちまうわけじゃない。楓は何時までも親父の息子だし、俺の弟だ。・・・・・そうだな、
楓」
「兄さん・・・・・っ」
今日は、ようやく伊崎との関係を組のみんなに発表する日で、楓にとっては待ち遠しく、嬉しい日だった。父と兄に対して
もきっぱりと自分の意思を通さなければならないと思っていたし、間違っても泣くことはないと思っていたのに、兄のこの言
葉を聞いて楓はどうしても我慢が出来なくなった。
「どうした、ベソかいて」
「だ、だって・・・・・」
この家を出ることにならなくて、本当に良かった。
父と、母と、兄と・・・・・組のみんなと、離れなくて本当に良かった。
「楓」
「・・・・・っつ」
楓は兄に抱きついて、久しぶりに声を出して泣く。しばらくしてポンポンと頭を叩く優しい手を感じ、楓はますますしがみ
つく手の力を強くした。
楓の髪を撫でる雅行の手は本当に優しく、どれほど弟を愛しみ、大切にしているのかが周りのものにもよくわかった。
こんなに強い結びつきの兄弟を引き離すことなど、もとから無理だったのだと伊崎は自嘲する。認めてもらわなければ組を
出る覚悟はしていたが、そうなれば結局楓は寂しさと悲しさを抱いたまま、本当の笑みが消えてしまったかもしれない。
こうなって初めて、伊崎は雅行の度量の大きさを実感していた。
「ほら。せっかくの祝いの席だ、もう泣くな」
そう言いながらも楓の気持ちが落ち着くのを十分待ってから、雅行は事の成り行きを黙って見ていた組員を振り返る。
「お前ら、伊崎と楓のことに文句はないなっ!」
それに、揃って上がったのは肯定の声だ。
「よし!ただし、伊崎が楓を泣かせた場合っ、楓が伊崎を見限った場合はっ、お前らがしっかり監視して楓を守れよ!
伊崎は大事な若頭だが、楓は日向組の宝だからな!」
「「「はいっ」」」
揃った組員の言葉に満足した雅行は、一連の雅行の言葉に唖然とした伊崎に唇の端で笑って見せた。
「ここにいる日向組の連中が証人だ。覚悟しろよ、伊崎」
「はい」
もちろん、楓を泣かすことも、裏切ることもするはずがない。しっかりと頷けば、雅行は抱き締めていた楓の身体をそっと
離し、身を屈めて顔を覗き込んだ。
目元が赤くなり、頬が紅潮しているものの、楓の美しさは少しも損なわれていない。
「楓さん」
名を呼ぶと、楓の視線は自分に向けられた。しかし、その手は雅行から離れない。
「どうしました?」
「・・・・・俺」
「・・・・・」
「俺、やっぱり兄さんが大好きだ」
「・・・・・ええ、わかっていますよ」
自分に向けてくれる想いとは別に、楓がどれほど雅行を慕っているのかはわかっているはずだ。ただ少しばかり、この手
よりも雅行のそれを選ばれていることが悔しい気もする。
「私の側に来てくれないんですか?」
ずるいかもしれないが懇願するように言えば、チラッと楓は兄の顔を見上げ、小さな声で言った。
「今は、兄さんの側にいる」
「・・・・・わかりました」
どうやら楓は込み上げる感情を制御出来ないらしい。この場だけですよと胸の内で言った伊崎は、ようやく自分に宛がわ
れた席に着いた。
その途端、古参の組員が酒を持ってやってくる。
「振られましたね、若頭」
「まあ、組長が相手ではしかたありませんよ」
半ば負け惜しみ、半分は本気でそう言えば、組員はハハッと声を出して笑った。
寂しいですねと言われながら注がれた酒を飲み干せば、直ぐに別の組員がやってきた。今日は楓の二十歳の祝いだとい
うのに、これでは自分が祝われているようだなと、何杯目かもわからない盃を呷りながら考える。
(でも、これで良かったのかもしれない)
本当なら、雅行と雅治に数発ずつ殴られた方がすっきりするが、そうしないところに雅行の意地があるように思えた。
「若頭っ、一杯どうぞ!」
「ああ、ありがとう」
「楓さんを絶対に泣かさないで下さいよ!」
「わかっている」
組員たちが口々に願うのは楓の幸せだ。もちろん、伊崎が願うのも楓の幸せなので、彼らの言葉に素直に頷き、めでたい
祝いの酒を飲み続けた。
みんなが祝いの言葉を贈ってくれた。
プレゼントもたくさん貰い、楓は1人1人に感謝の言葉を告げる。
「楓ぇ〜、伊崎の奴が浮気でもしたら絶対に言うんだぞ?父さんが半殺しの目に遭わせてやるからな」
父の言葉に笑い、楓はうんと頷いた。伊崎が浮気をすることはないと信じているし、もし仮に他の誰かに目をやったとし
たら、楓は自分の手でちゃんと始末をするつもりだ。
もちろん、別れるという選択はないので、ギュウギュウにお仕置きをして、もっともっと自分にメロメロにさせてやる。
「・・・・・ふぅ」
宴会が終わり、風呂に入った楓は、まだ控えてくれていた津山に言った。
「今日はもういいから」
「はい」
「津山」
「・・・・・」
「今まで、黙っていてくれてありがとう」
常に自分に付いて行動している津山には、伊崎との関係はとうにバレていた。本来なら、組長である兄に仕えている津
山はその報告を上げてもおかしくはないのに、楓の気持ちを考えて口を噤んでくれた。
津山の、自分に向けてくれる想いを利用したかもしれないとも考えたが、それを感じさせないほどごく自然に津山は自
分を守ってくれていたのだ。
「いいえ、良かったですね」
感情の起伏が乏しい津山だが、今は少しだけ・・・・・笑ってくれているように見える。
「うん、良かった。みんな受け入れてくれて」
「組員は楓さんの幸せが第一ですから」
「・・・・・そっか」
なんだかくすぐったくて俯くと、風邪をひきますよと促された。
楓が席を立った時も、伊崎はまだ父に絡まれていた。
兄は他の組員と話していたし、母はとっくに部屋に下がっていたので、あの父を諌める人間はあの場にはいなかった。
(もしかして、今日は徹夜かもしれないな)
せっかくの記念すべき夜だが、この先もずっと一緒にいることが出来るのだ。今日一緒にいられなくても仕方ないかと思
いながら自室に向かっていると、
「恭祐?」
部屋の前に立っている伊崎を見つけて慌てて駆け寄った。
「風呂に入ったんですか」
「うん。父さんは?」
「酔い潰れてしまわれたので、奥までお送りしました」
「もうっ、加減を知らないんだから」
身長は普通でも、体格は立派な父の身体を支えて奥まで連れていくのは大変だったはずだ。その後、父の世話をする
母だって大変だ。
酒が弱い方ではないはずだが、今日は思い掛けない楓の告白に度を過ぎてしまったのだろう。それでも、身体のことも考
えてくれないと、もう歳なのだ。
「今日は大目に見てあげてください」
伊崎も同じようなことを思ったのか、苦笑しながらそう言った。今日の自分たちの告白のために、父が少々羽目を外し
てしまったことを責めることは出来ないと、楓も文句を飲み込んだ。
そして、改めて伊崎の姿をじっと見る。まだスーツ姿で、強い酒の匂いがした。今話してるだけではとても酔っているとは
思えないが、相当勧められたはずだ。
「大丈夫?」
「私ですか?」
「今日は早く寝た方が良いんじゃないか?」
今日は一緒にいたかったが・・・・・伊崎の体調のことを考えたら、早く休んだ方が良い。
「楓さん」
すると、伊崎は不意に楓を抱きしめてきた。
「つれないことを言いますね」
「え?ちょ、ちょっと、恭祐?」
伊崎らしくない行動に動揺し、楓は思わずその胸を押し返そうとする。しかし、しっかりと抱きしめてくる長い腕は簡単に
解放してはくれなかった。
「今日から堂々と、あなたの側にいてもいいんですよ?」
「恭祐っ」
「今夜は、ずっと一緒にいたい」
「!」
(バ、バカ!)
耳元で、囁くように言わないで欲しい。ついでのように耳たぶを噛むのも、意味深に背中を撫でるのも、伊崎の指先の
動きはすべてある行為を連想させて、楓の身体は呆気なく熱くなってしまった。
「お、俺だって・・・・・っ」
気持ちが高ぶってしまった今、伊崎の手を離すことは出来そうにない。甘えるように首筋にすり寄ると、頭上で笑う気配が
した。
「私も汗を流してきます。おとなしく、部屋で待っていてくださいね」
頬に軽くキスをされ、楓はぎこちなく頷いた。
楓を焦らすつもりはなかったが、伊崎はゆっくりと風呂に入って汗を流した。
楓にあんな言葉を言ったのは、伊崎自身が少し浮かれていたからだ。多分、考えていた以上にうまく2人の関係を公言
出来たことが、こんな行動をさせるほど嬉しかったのだ。
「楓を頼む」
雅治を奥の部屋へと連れて行き、もう一度座敷に戻ってくると組員が片づけを始めていた。
伊崎も細々とした指示を出し、あらかた終えた時に雅行に挨拶に行った伊崎は、短い言葉でそう言われ、軽く肩を叩か
れた。
まさか、こんなにも早く雅行にそう言ってもらえるとは思わなくて驚いたが、それでもじわじわと腹の底から喜びが浮かび
上がる。誰よりも、雅行にそう言ってもらえたのが嬉しくてしかたがなかった。
「・・・・」
スーツから普段着に着替えた伊崎は、そのまま楓の部屋に向かう。
あれから三十分は経ったが、楓はちゃんと自分を待ってくれているだろうかと、柄にもなくドキドキとしていた。
「楓さん」
軽くノックをして声をかけると、しばらくして小さくドアが開いた。隙間から覗く楓の瞳が濡れているように見えたのは気の
せいだろうか。
「・・・・・遅い」
「すみません」
ドアに手をかけてするりと部屋の中に入った伊崎は、後ろ手にドアを閉めてしっかりと鍵をかけた。カチャっという小さな
音に、目の前の細い肩が揺れるのが見える。
「起きてくれていて良かった」
「寝るわけないだろっ」
ベッドに腰をかけた楓が、少し睨むようにこちらを見た。
時刻は午後11時を過ぎた頃で、普通でもまだ起きている時刻だ。しかし、色々とあり、安堵も手伝って横になればその
まま目を閉じてしまうのではないかと危惧していた。
「・・・・・」
伊崎はベッドに歩み寄り、上から楓の顔を見つめる。
「楓さん」
「・・・・・」
「今日は、本当にありがとうございました」
大事な家族の前で、はっきりと自分への想いを告げてくれた。その勇気と強い愛情に、伊崎は愛おしさが溢れて止まら
ない。
手を伸ばして肩を抱き寄せると、少しだけそれが冷えているのがわかった。こんなにも待たせるつもりはなかったのにと
思いながら、伊崎はそっとベッドの上に楓の身体を押し倒した。
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