縁と月日は末を待て












 翌日、楓が目を覚ました時、既に伊崎の姿はそこに無かった。
何時ものことなので分かっていたはずなのに、ベッドの中で1人で目覚めるのはとても寂しくて、楓は目が覚めると何時も
大きな溜め息をつき、次には天井に向かって呟くのが常だった。
 「恭祐のバカヤロ」
 セックスが終わった後、何時も伊崎の腕枕で眠りにつくのに、翌日その温かな腕が無いのがどんなに寂しいのか伊崎は
きっと分かっていない。もちろん、若頭としての立場は分かっているつもりなので、それを面と向かって言うことは出来なかっ
た。
 「ん〜・・・・・っ」
 勢いを付けてベッドから起き上がると、鈍い痛みが下半身に走る。それが何のためか思い出した楓は1人赤面し、それ
を誤魔化すためにわざと痛みを振り切るように立ち上がった。
 身体は何時ものように伊崎が綺麗にしてくれて、ちゃんとパジャマも着ている。
そのまま先に顔を洗おうと思った楓は、ドアを開けて直ぐに立っている人影に気がついた。
 「おはよ、津山」
 「おはようございます、楓さん」
 自分に付いてくれている津山がそこにいるのは何の不思議もなかったが、何時もの時間よりも少し早いような気がした。
 「もしかして、兄さん?」
 「・・・・・何のことでしょうか?」
 「・・・・・」
(じゃあ、津山が気を利かせてくれたってことか)
伊崎が出張から戻ってきた昨日、当然夜、何かがあっただろうとは兄も想像がついたはずだ。
他の者には知られないようにしろと常々煩く言っている兄。楓が朝食に遅れると、それだけで伊崎を責めてしまいかねな
い。
 そんな自分を心配して津山がこうして起こしに来てくれたのだろうと楓は見当を付けた。
 「ごめん」
 「楓さんが謝罪されることは何もありませんよ」
それでも、謝らずにはいられなかった。そんな風に心配してもらうことが申し訳なかったし、何より津山は自分に対して恋
愛感情を抱いているのだ。
 「さあ、顔を洗いに行きましょうか?このままだと朝食に遅れてしまいますよ」
 「・・・・・うん」
 そう、早く顔を洗って着替えなければ、朝7時半の朝食に間に合わない。
(恭祐も起こしてくれたら良かったのに!)
ゆっくり寝かせてくれるつもりだったのかもしれないが、楓は1人バタバタしているような気がしてたまらなかった。

 津山を後ろに引き連れた格好のまま顔を洗い、服に着替えて本家の居間に向かう。
そこには既に兄が上座に座っていた。
 「「「おはようございます!」」」
 配膳を始めていた組員が楓に声を掛けてくれる。それに答えながら、楓は兄の右隣に座った。
 「・・・・・おはよー」
 「おはよう」
 じっと楓を見つめてくる兄は、しんなりと眉を顰める。
 「なんだ、その眠そうな顔は。ちゃんと顔を洗ったのか」
 「洗ったよ!」
 「じゃあ、寝不足なのか」
 「・・・・・ちゃんと、寝た」
探るような兄の言葉に反応してはいけないと内心思いながら、楓はちらっと兄の左隣の伊崎を見た。
夕べ、あれほどいやらしいセックスをしたとは思えないほどの涼やかな表情をしている男は、楓の視線に僅かに目を細めて
くる。
(・・・・・薄情者)
 勝手に部屋から居なくなった伊崎に心の中で文句を言いながら、楓はふと空席の父と母の席に気がついた。
 「母さんは?」
 「少し眩暈がするらしい。今日は部屋で食事を取ってもらうことにした」
オヤジはそれに付き合っていると言われ、楓は思わず奥の部屋へと視線を向けてしまう。退院出来るほどに身体は回復
したとはいえ、まだ完全に健康体になったとは言えない母は、こんな風に時折調子を崩す。
 そのたびに泣きそうになるほど心配していた日々は過ぎたものの、それでも気になってしまうのだ。
 「・・・・・俺も」
 「お前はここで食え」
 「だって」
 「母さんにはオヤジがついている」
兄は母のことが心配じゃないのか。母思いだったはずなのでそんなことはないと思いたいが、あまりにもそっけない態度に
楓は口を尖らせてしまった。




 朝食の間中、楓の眉間には皺が寄っていた。
それは、朝声を掛けずに部屋を出て行った自分に対する怒りなのか、それとも雅行に対する反抗心なのか・・・・・多分、
そのどちらでもあるのだろう。
 何とか楓に声を掛けようと思ったが、その前にさっさと部屋を出て行かれてしまった。多分このまま大学にいくはずだ。
その楓の後ろには津山がピッタリと付いていた。
本当は自分こそがその役割を担いたかったがそうもいかず、伊崎はそのまま事務所にとやってきた。
 「・・・・・」
 そして、直ぐにパソコンを立ち上げて画面を見つめる。
(この連絡さえなければ・・・・・)
本当は、伊崎も今朝は楓の傍にいるつもりだった。
久し振りのセックスで疲れただろう楓をそのままにしておくなど出来なかったし、自分が楓の部屋に行くことを分かっている
はずの雅行にあからさまなセックスの余韻を感じさせないようにしたかった。
 しかし、今朝早く携帯の方に投資していた企業が危ないという情報が入り、その真意を確かめるために早朝からずっと
様々な所に連絡をしていたのだ。
 「どうですか、若頭」
 「・・・・・」
 「若頭?」
 楓との朝の一時を邪魔されて少々不機嫌になってしまっていたが、それでもその感情を組員にぶつけるような大人げな
い真似など出来ない。
 「どうやら、ガセだったようだ」
 「そうだったんですか。良かったですね〜」
 「・・・・・全くだ」
(こんなガセに踊らされるとはな)
 それでも用心のためにその情報が確かかどうかを確認してから、伊崎は組長の部屋にいる雅行に報告に向かう。
 「組長、よろしいですか」
 「ああ」
伊崎は失礼しますと言いながらドアを開けた。




 昨夜のセックスと、寝不足のためか、楓は何度も欠伸を繰り返す。
さすがに講義中は下を向いて何とか誤魔化したが、休み時間の学食では気も緩んでしまう。それでも、ただの欠伸でも
優雅なしぐさになるが。
 「どうしたんだ、楓?夜遊びか?」
 「え?」
 まだ椅子に座って1、2分も経っていないというのに、早速声を掛けられた。
 「やだなあ、遊んでなんかいないよ?」
(ちゃんと、自分の部屋でセックスしただけだし)
同じゼミを受けている男は、楓ににっこり笑い掛けられてたちまち視線を彷徨わせている。こうして自分と話したくて真っ先
に声を掛けてきただろうに、実際に話すとこんな風にオドオドされるのはおかしいというか・・・・・すこし、呆れてしまった。
 「楓は真面目だもんな」
 そう言いながら、今度は馴れ馴れしく肩を抱かれた。
 「そうだよ、俺は真面目だから」
(勝手に触るんじゃないよ)
振り向き様、自然とその手をほどいた楓は、立っている男を見上げながらにっこり笑う。
 「よく分かってくれているね」
 「そりゃ、俺は楓のことをずっと見てるから・・・・・」
 大学の中でも、イケメンと噂される男。大学に入学してから直ぐに楓に近付いて来て、実は2人きりの時に告白もされ
た相手だ。
 もちろん伊崎という恋人がいるのでやんわりと、それでも容赦なく振ったつもりだが、いまだにこうして傍にいるということ
は諦めていないのかもしれない。
 「何か飲む?」
 「ん〜、じゃあ、コーヒーをお願い出来る?」
 「分かった」
 誰かがコーヒーを買いに行ってくれて、別の誰かが腹は減らないかと聞いてくる。
こんな風に取り巻きが出来るのは高校時代とあまり変わらないが、少し違うのは年が年だけに生々しい欲望が垣間見え
ることだ。
応えることが出来ないので最初から期待を持たせるような言葉は言わなかったつもりだが、どこかで自分は彼らの恋愛感
情を利用しているかもしれない。
 ズルイなとは、思う。
だが、悪いことだとは思わない。
利用出来る者は何でも利用してやるというスタンスは、子供のころからずっと変わっていないつもりだ。
 「はい」
 「ありがとう」
 コーヒーの入った紙コップを目の前に置かれると、楓は礼を言って小銭を渡す。
 「いいよ、これくらい」
 「だ〜め。受け取って貰えないと、次にお茶出来ないよ」
大東組の長老達のように、随分と年が離れ、自分のことを孫のように可愛がってくれている相手ならまだしも、同世代の
相手に奢ってもらうのは安易に受け入れられない。
それが後々、自分だけが特別なのだという変な誤解を生まないためだ。




 短い休み時間を潰して次の講義に行こうとした時、楓は後ろから腕を掴まれた。さっき学食でも馴れ馴れしく肩を組ん
できた男だ。
 「何?平井(ひらい)」
 「楓って、恋人居るのか?」
 「え?」
 いきなり何を言うんだと眉を顰めると、平井は耳元に唇を寄せてくる。顔は笑ったまま、気安く近付くなと心の中で文句
を言うと、囁くような声が耳に届いた。
 「キスマーク、見えてる」
からかうような、というよりは、どこか楓の反応を探るような言い方だった。
 「・・・・・」
(キス、マーク?)
 さすがに驚いた。普段、伊崎は楓の身体に痕を付けるような真似はしない。
もしも付けたとしても、絶対に服を着れば隠れるような場所に付けるので、こうして誰かにあからさまな情事の証拠を見付
けられたことは今まで無かった。
 楓がまずいと思ったのは大学の知り合いにそれを見られたということよりも、兄に見付からなかったかどうかということだ。
誕生日まではもう少し、それまで出来るだけ兄の神経を逆なですることはしたくなかった。
 「楓?」
 楓は平井を見つめる。その言葉の真意を確かめたかった。
(キスマークを付けられてるからって、相手を男とは思わないかもしれないし・・・・・)
 「平井」
 「・・・・・」
 「これ、虫さされ」
 「・・・・・はあ?」
 「うちが古いから虫がいるんだよ。だから、これは虫さされ」
明らかに嘘だと思われても構わなかった。楓がこんなふうに言い張れば、それでも違うというほど平井には情報がないはず
だ。
 「そんな、楓、嘘だろ?」
 「ほら、早く行かないと講義が始まるぞ」
楓は軽く平井の肩を叩くと、そのままあっさりと背中を向けた。