縁と月日は末を待て
6
平井に指摘されたキスマークが気になり、休み時間トイレに行って確かめてみた。
(・・・・・嘘か)
あの時、あからさまな動揺を見せなくて良かったと、楓は鏡に映る自分の白い首筋につっと指先を走らせた。
まさかとは思ったのだ。平井が気付くような痕を、伊崎や津山が気付かないはずがない。さらには、兄があんな風に平静
に自分に対するわけが無いと、楓はホッと息をついてトイレから出ようとした。
「・・・・・何?」
その視界の端に映った人影に、少しだけ眉間に皺が寄る。
「やっぱり、確かめに来たのか」
鏡に映っている平井の顔は妙に嬉しそうに歪んでいた。その顔を見ただけでも男の思惑が透けて見え、楓はわざとにっこ
りと笑いかけてやる。
「何のこと?」
「キスマーク」
「・・・・・ああ、そういえばそんなこと言ってたよな?でも、付いてないみたいだけど」
なんでもないことのように事実だけを伝えると、平井の両手が無遠慮に肩に置かれた。何だか妙に熱く感じ、楓はそれ
を振り払うと身体を捩ったが、平井はますます拘束する手に力を込める。
「でも、お前あの時、確かに反応しただろう?キスマークが残るようなことをした覚えがあるんじゃないか?」
「・・・・・」
(全く、変なとこで頭を働かせてどうするんだよ)
最高学府に通っているくらいだ、多少は賢いと思ったが、どうやらそれは本当に勉強に関することだけで、それ以外の、
例えばこんな偏執的な思いを抱くのは、知能の高さは全く関係ないようだ。
「付き合ってる奴、いるよな?」
「・・・・・」
「それも、男」
「・・・・・」
(男って断定するな、俺も男なんだよ)
女々しい性格ではないと自負しているので、こんなふうにあからさまに揶揄されるような物言いをされるのは頭にくる。
それに、多少細身とはいえ、明らかに自分は女の体形ではなかった。女みたいと思われるのは心外だ。
(お前の頭の中、一度空っぽにして詰め替えてやりたいよ)
言いたいことは多々あるものの、ここで言い合うつもりはなかった。男とどうこうというのは今は平井の妄想だけで、そこ
には何の証拠もない。
相手をしてやる時間さえ無駄だった。
「悪いけど、急いでるから」
「逃げるのかっ?」
「逃げる必要なんてないよ。俺がどんな相手と付き合っていようと、平井には何の関係もないだろう?それに、俺はそん
なふうにプライベートに立ち入られるのがすっごく嫌いなんだよ。悪いけど、今度から声を掛けないでくれ」
「楓!」
「じゃあ」
ここはあくまでも勉強する場であって、恋愛などはほんの付属でしかない。それに現をぬかしたいなら、それに相手を出
来る人間を選べばいいだろう。
あいにく、楓には余計な時間などない。弁護士になることへの勉強と、伊崎への想いを貫くことで日々時間は足りない
ほどなのだ。
「待てよっ、楓!」
「・・・・・」
伸ばされた手を、すっとすり抜けた。
平井は驚いた顔をしているが、腕力のない楓は少々護身の術は心得ているので、素人相手ならば何とか対処は出来
る。こんなことで、待機している津山を呼ぶことは出来ないしと、楓は既に平井のことを頭の中から抹消していた。
講義が全て終わって大学の門を出た楓は、そこに待っていた津山の姿にホッと表情を緩めた。
「お疲れ様です」
「ごめん、待たせた」
「いいえ」
楓のスケジュールを全て把握して行動してくれる津山は、こうして門を出た時は必ずといって待っていてくれる。
講義を受けている間くらい津山には自由にしていいと、組の仕事をしてもいいのだと言ったのだが、津山は頑なに楓のこ
とを第一に考えてくれていた。
「今日はどこかに寄られますか?」
「ん〜」
近くの駐車場まで並んで歩きながら、楓はこの後のことを考えた。
昨日の今日なので、楓としては本当はもっと伊崎にべったりしたい所だが、仕事を邪魔しては兄に叱られそうだし、何より
伊崎も構ってはくれないだろう。
(夕飯までは時間あるもんな)
「あ、そうだ、ちょっと寄り道いい?」
「図書館ですか?それとも本屋に?」
「和菓子屋。一昨日、母さんが大福を食べたいって言っていたんだ。美味しいイチゴ大福がある店がこの近くにあったは
ずだから」
「それは、喜ばれるでしょうね」
硬い表情はほとんど変わらなくても、その目元が僅かに緩んだのが分かった。
「じゃあ、歩いて行こうか。わざわざ車で移動するのも・・・・・」
そのまま話を続けていた楓は、不意に津山の腕の中に囲われた。
「?どうした?」
歩いている最中に何の意味もなくこんな真似をする津山ではないので、楓は何事があったのかと周りに視線を向けようと
した。
しかし、津山は抱き寄せる腕に力を込めて、少しはや足で歩き始める。
「妙な視線を向けている男がいるので」
「男?」
「1人ですし、どうやら一般人のようですが・・・・・」
そこまで聞いた楓は、ある面影がポンと頭の中に浮かんでしまった。
今日の午後、きっぱりと切り捨てたはずの友人・・・・・もどき。もしかしたらあの男がこりもせず付いてきているのではない
かと思う。
「それってさ」
簡単に容姿の説明をすると、津山は軽く頷いてご友人ですかと聞き返してきた。
今朝ならば知り合いと答えただろうが、今の楓にとっては知り合いの範疇からも出てしまった男だ。
「顔は知っているけど、友人じゃない。放っておけばいいって」
どうせ何かをする勇気などなく、こちらを見つめていることしか出来ないはずだ。
構うことはないと楓は言ったが、津山は肩を抱く腕を離しはしなかった。
「念の為ですから」
「ふ〜ん」
(でも、こんな格好をしてると、本当に男と付き合っていると思われるかもしれないな)
出張中に溜まった書類を整理し、新たに持ち上がっていた問題の処理に時間を費やしていると、いつの間にか午後5
時を過ぎていた。
そろそろ楓も帰っている頃だ。朝もゆっくりと話をすることが出来なかったし、昨夜抱いた身体は大丈夫なのかと顔を見
に行こうかと部屋を出た伊崎は、丁度母屋に繋がるドアから姿を現した津山の姿を見た。
「津山」
「お疲れ様です」
津山は丁寧に頭を下げる。
楓が家にいる時は、津山も組の仕事を手伝う。頭がいい男なので随分と助かっているが、いざ楓に何かあった時には全
てを放って駆けつける男でもあった。
任務という名のその行動を羨ましく思うのは今も消えないが、それでも伊崎は津山を信頼していた。
「若頭、少しいいですか?」
「ああ」
珍しく、津山の方から話があるらしい。伊崎はもう一度自分の部屋へと戻り、津山を招きいれた。
「どうした?」
「楓さんのことですが」
「・・・・・何があった?」
楓の警護に関しては、ある程度津山の裁量に任せていた。そんな津山がわざわざ伊崎に報告をしてくるなど、一体ど
んなことがあったのだと気になってしまう。
「実は・・・・・」
無表情のまま話を切り出した津山のその内容に、伊崎は端整な眉を顰めた。
「同級生、か」
「ええ。素人なので無茶をすることはないと思いますが、一方では素人なので妙な暴走をするとも考えられます」
その言葉は伊崎にも納得がいくもので、どうするかと腕を組んだ。
楓の美貌は大学生になってからも一向に劣ることはなく、むしろ大人っぽくなっていくにつれて艶やかさも加味され、様々
な人間を・・・・・特に同性を弾きつけていた。
楓よりも縦も横もある大学生の男。実力行使に出ようと思う者も今までに何人もいた。その一部は楓自身が、大多
数は津山が退けていたはずだが・・・・・。
「今までの男と違うのか?」
「先ほど、少し調べてみたんですが、少々厄介な繋がりがありました」
「・・・・・」
「越智(おち)弁護士、ご存知ですよね」
訊ねるというよりも、確認するような物言いだ。
「越智・・・・・ああ」
津山が言った名前の主を思い出し、伊崎は苦々しく頷く。
越智和浩(おち かずひろ)。先日、日向組の縄張りの中で騒ぎを起こした他所の組のチンピラの弁護士として姿を現
した男だ。
どうやらそのチンピラは若頭の息子だったらしく、賠償金を提示して示談を要求してきた。
暴れた店の修理代と、怪我をした一般の客の治療費、仲裁に入った日向組の組員の見舞金も添えて慇懃無礼に謝
罪してきたあの男の顔は、1カ月経った今も鮮明に覚えている。
あの時は楓は母親の検査入院に付き添っていて、直接顔は合わせていなかったはずだ。
「あの男とどういう繋がりが?」
「父親の会社の顧問弁護士なんですよ、越智は」
「・・・・・」
「妙な知恵を付けられたり、組のことで楓さんに無理を言ったりする可能性もあるかもしれないので」
伊崎は頷いた。
「分かった。確かにあの弁護士は厄介だからな。多少でも繋がりがあるなら用心した方がいい」
楓も、そしてその問題の同級生も一般人だが、その背景を考えると対処は考えた方が良いだろう。
どこか冷たい眼差しをしたあの弁護士が再び現れるかもしれないと思うと、伊崎は無意識の溜め息をついてしまった。
津山と別れた伊崎は、そのまま母屋に行って楓の部屋に向かった。
今の津山の言葉を、それとなく楓に伝えようと思っていた。もちろん、越智の名前を出すことはなく、あくまでも今日楓の
後を付けていたという同級生の話を持ち出すつもりだった。
「・・・・・」
(組長に知らせた方がいいだろうか・・・・・)
楓のことを溺愛している雅行には一言報告をした方が良いかもしれない。
そう思った伊崎は途中で引き返そうとしたが、
「恭祐?」
その姿を、ちょうど廊下の向こうから歩いてきた楓に見付かった。
「どこ行くんだよ?俺に会いに来たんじゃないのか?」
「そのつもりでしたが、組長への報告を思い出しまして」
「・・・・・」
楓がじっと視線を向けてくる。伊崎は普段と変わらずに笑みを浮かべたままその視線を見返したが、なぜか楓は険しい
表情のまま伊崎に訊ねた。
「兄さんに?」
「ええ」
「・・・・・何かあった?」
その言葉に伊崎は内心驚く。表面上、自分には変化はなかったはずなのに、どうして楓には分かってしまったのだろうか。
「楓さん?」
「馬鹿にするなよ。お前のことは誰よりも見ているんだ、何があったかなんて分からないはずないだろ。俺に秘密にしよう
なんて思うなよ」
そう言い放った楓は、さっさと吐けと伊崎のネクタイを引っ張った。
言動は少々乱暴だが、その楓の真意は自分のことを心配してくれているのだというのはよく分かっている。伊崎は真っ直
ぐな楓の視線に目を細め、そっとネクタイを持つ細い指に自分の手を重ねた。
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