縁と月日は末を待て












 「多分、私は心配性なんですよ、あなたのことに関しては」
 「え?」
 どんな些細な障害でも、例えば足元に石が転がっているだけだとしても、それを取り除いてやりたいと思う。
楓が見かけのたよやかさとは反対にとても気概がある、男らしい性格をしていると分かっていても、どうしても過保護になっ
てしまうのはもう昔からの習慣のようなものだ。
 「少し、気懸かりなことが出来ました」
 だからこそ、楓に全てを言うことは出来ない。楓のことが心配だということはもちろんあるが、それ以上に楓が自分以外の
男のことを考えること自体が嫌だった。
 「俺に関係あることだな?」
 ある程度の情報は与えた方がいいと、伊崎はその部分は隠すことはせずに頷いた。
 「今日、学校で何かありませんでしたか?」
 「学校で?」
 「・・・・・」
伊崎はじっと楓の反応を窺うが、楓は不思議そうにその顔を見返してくるだけだ。
楓にとって今日のようなことは日常茶飯事にあることの一つだろうし、それほど気に止めてもいなかったのかもしれないと伊
崎は苦笑を浮かべる。
 「・・・・・分からない」
 「ほら、あなたにとってはほんの些細なことでしょうが、私は・・・・・いえ、あなたの側にいる者はどうしても大袈裟に捉えて
しまうんです」
 楓はどうやら今日あったことを頭の中から完全に消しているらしい。本来ならそれ以上何も言うこともないが、越智という
男が絡んでくる可能性がある限りは用心していてもらわなくてはならない。
 「平井という同級生がいると思いますが」
 「・・・・・」
 その名前を出して一瞬間があった後、楓の眉が顰められた。
 「津山から聞いた?」
 「ええ」
 「別に、たいしたことじゃないと思うけど」
 「まあ、その大学生だけなら問題はないんですが」
 「・・・・・平井のバックに誰かいるのか?」
勘の良い楓のその言葉に、伊崎は苦笑を深める。
 「バックと言うほどのことではありません」
 「・・・・・」
 「ただ、少し粘着質かもしれないと」
 大学では楓の実家がヤクザだということを知らない者も多い。だからこそ、高校時代よりも声を掛けられる機会が多い
が、楓は変わらず一歩引いた態度をとっている。
そこで、相手が余計に熱をおびた行動を取ってしまうのだろうが・・・・・その辺りを多分楓は理解出来ないだろう。
(想われる側の傲慢さ・・・・・か)
 しかし、それさえも凌駕するほどの存在感が楓にはある。
モテ過ぎる恋人というのも困りものだと、伊崎は真っ直ぐな楓の視線を静かに見返した。




 兄の所に行ってくると言った伊崎の背中を見送りながら、楓の胸の中に沸々と湧き上ってきたのは怒りだ。
 「平井の奴・・・・・っ」
人に好かれることは悪いことではないが、その全員に同じような愛情を注ぐというのはとても難しい。
楓の中では伊崎が一番で、続いて家族、そして友人や日向組の組員と続く。
ただし、友人といっても自分の素を見せることが出来る相手と表面上の付き合いしかしない相手は当然違っていて、楓
の中で平井という男の位置は単に同級生というものでしかなかった。
 それなのに、その男のせいで伊崎が余計な懸念を抱えることになってしまった。そうさせてしまった平井もだが、自分自身
も許せない。
 「・・・・・」
 本当はもっと伊崎を問い詰めたかったが、困った顔をする彼にそれ以上は何も言えず、楓はただ気をつけると言うしかな
かった。
 「・・・・・っ」
しばらくその場に佇んでいた楓は、やがてそのまま部屋には戻らずに事務所へと向かった。

 楓が事務所に顔を見せた時、中には数人の組員がいた。
 「坊ちゃん」
 「楓さん?」
どうしたのだという視線を向けてくる組員には何も答えず、楓は周りを見回して目当ての人物を見つける。
 「津山」
 家にいる時は楓の側に付いていない津山は直ぐに立ち上がってやってきた。
 「時間、いい?」
 「はい」
用件は言わなかったが、多分伊崎と話したはずの津山は楓の用件に気付いているはずだ。
ここで下手に平井の名前を出して他の組員が暴走してはまずいと思う気持ちもあったので、楓は怪訝そうな幾つもの視
線に見送られながら津山と事務所を出た。
 静かに話せる場所は自室しか思い当たらなかったのでそのまま黙って歩いたが、部屋のドアを開けて中に入っても津山
はなかなか足を動かさなかった。
 「津山」
 「・・・・・」
 「話があるから入って」
 「・・・・・ここで、ですか?」
 「誰にも聞かれない場所ってここしかないだろ」
 母屋の他の部屋では何時兄や父が現われるか分からない。問題はないだろうと重ねて言えば、津山はそれでも一歩
だけ中に入り、ドアも5センチほど開けてその場に立ち止まった。
(女じゃないんだけどな)
 ここまで気遣ってくれるのが申し訳ないほどだが、嬉しくないわけではないい。
楓はフッと笑みを浮かべると、コクンと首を傾げて津山に言った。




 「お前のことは信用している。だから、こんな配慮は要らない」
 楓の言葉は深い信頼を滲ませたものので、日向組の人間としてはとても嬉しい言葉だ。
しかし、その一方で・・・・・いや、それ以上に楓のことを恋愛感情で愛しいと思っている津山にとっては胸が潰れるほどに
きつい言葉でもあった。
 楓にとって唯一の存在が伊崎だと知っているし、その伊崎も心から楓を大切にしていることを知っている。
2人の歴史はとても長く、自分などが入り込む余地がないということも分かっているが、男として見ることはないという意味
と同等の言葉をぶつけられるのは辛かった。
 「津山」
 ただ、そんな自分の感情は楓には関係ない。津山は申し訳ありませんと言ってから静かにドアを閉めた。
 「用件は何でしょうか」
 「平井のことだけど」
 「・・・・・」
その名前に、津山の頭の中に即座に男の顔が浮かぶ。
 「俺にとってはどうでもいい存在だけど」
 「・・・・・」
 「何か起こしそうなのか?」
 「・・・・・」
(若頭はどこまで説明したんだろうか)
 自分が報告したこと全てを楓に言ったとは思えない。
それをさりげなく読み取ろうと、津山は慎重に口を開いた。
 「楓さんは、何か感じませんでしたか?」
 「・・・・・しつこいとは思ったけど」
 「・・・・・」
 「でも、そんな奴なんて今までだっていたし。俺は特に気にしなくてもいいと思ったんだけど」
 越智と平井の関係を知らない、いや、元々越智と言う弁護士のことを知らない楓の危機感が薄くても仕方が無いと、
津山は確かにと言葉に同意するように頷く。
 「ただ、今は素人でも何をしでかすか分かりませんから、若頭は用心のために動こうとされているのではないでしょうか」
 「・・・・・心配性」
 「仕方ありません」
(あなたを大切に想っているのならなおさら・・・・・)
 楓は津山の説明で納得したのかどうか、それ以上の追求はしてこなかった。ただし、楓が大人しくするほどその後の行
動を用心しなければならないと今までの経験でも分かっているつもりだ。
津山は頭を下げて楓の部屋を出ると、もう一度伊崎と打ち合わせをした方がいいかもしれないと思った。




 結局、あの後一度部屋に顔を出した伊崎は、長居することなく再び事務所に戻っていった。
楓も強く引きとめることは出来ず、頭の片隅では平井のことが気になってしまい、翌日予定よりも少し早めに大学へと向
かった。
 「じゃあ、2時に」
 「・・・・・」
 門の手前で振り向いて言うと、津山はもの言いたげな視線を向けてくる。
当初の予定とは違う自分の行動に不信感を抱いているのかもしれないが、それをはっきりと口に出して訊ねることはしな
かった。
 「2時ですね」
 「うん」

 構内に入った楓は早速平井を捜した。
全て同じ講義をとっているわけではなく、気付いたら側にいたという感じなので改めて捜すとなると結構難しい。
それでも、有名人である楓が尋ねると、そこかしこから情報はもたらされた。

 「あいつならさっき東門で見掛けたけど」
 「学食の前で電話してたわよ」
 「今2階のトイレの前にいたけど」

 次々ともたらされる情報のまま動くと、ちょうど3階に向かう階段の踊り場で平井を見つけることが出来た。
 「平井」
 「楓っ?」
携帯を弄っていた平井は声を掛けた瞬間に顔を上げ、楓と目が合うと嬉しそうに笑いながら駆け寄ってくる。
昨日、自分がどんなふうな態度をとったのかもう忘れているのかもしれないが、それならそれでと楓はにっこりと笑い掛け
た。
 「・・・・・っ」
 自分の笑みがどれ程効果的か十分分かっている楓は、たちまち顔を赤くする平井に向かってさりげなく訊ねる。
 「なあ、もしかして俺のこと何か調べた?」
 「え?」
 「俺の家のこととか・・・・・どう?」
すると、平井のにやけた顔が歪んだ笑みに変化する。楓の言った意味を自分なりに考えたらしい。
 「大丈夫だって、楓。楓の家がヤクザだってことは誰にも言うつもりはない。大体、楓は何もタッチしていないんだし、俺
のことを信用してよ」
 「・・・・・」
 そんなふうに脅すようなことを言う男のどこを信用しろというのか。
楓は特に自身の家のことを周りに言っていないが、別に隠しているつもりはない。父も兄も、そして伊崎以下組員のこと
も大切に思っているので、聞かれたら堂々と答えることが出来る。
 「そんなことよりさ、楓」
 「平井」
 階段を一歩上がって、ようやく平井を少しだけ見下ろす位置に来た。
 「・・・・・」
 「楓?」
何を期待しているのか、目元を赤くした平井に、楓は笑みの形をしたままの口で毒づく。
 「今後いっさい、俺には近付くな」
 「・・・・・え?」
いったい、今何を言われたのだろうか。そんな表情のまま自分を見る平井に、楓はますます艶やかな笑みを浮かべた。
(どんな理由があっても、俺の周りに害をもたらすつもりなら許さない)