縁と月日は末を待て
8
「俺は自分の家族を恥だとは思っていない。組長をしている兄も、そんな兄を慕ってきてくれている組員達も皆可愛い
と思っている」
幼い頃は確かに家がヤクザだからといって苛められたが、物心が付き、成長して行くに従って、それを跳ね除ける術を学
んできた。持って生まれた容貌も、負けず嫌いな性格も、全てを武器にして立ち向かった。
(そんなことで俺を手に入れようなんて、甘いんだよ、平井)
それならばまだ、命懸けで組事務所まで乗り込んでくるほどの気概を見せろと言いたい。
「か、楓・・・・・」
「お前がどういうつもりでそんなことを言い出したのかは知らないし、知りたくもないが、俺は絶対に屈しないと覚えておい
たらいい」
それ以上話すのも無駄だと背中を向けかけた楓は、ああと言い残したことを忘れて立ち止まった。
「大学に俺のことを言っても無駄だ。入学する前に家のことは告げているし、今時そんなことで有能な学生を放校する
なんて人権侵害はしないだろう」
平井にいっさい言葉を発する余裕を与えずに話した楓は、そのままその隣を通り過ぎた。視線さえ向ける気力を無くし
たらしい平井は声も掛けてこない。
(これくらいで怖気づくなら、最初から俺に喧嘩を売ってくるな)
怒りを抱いたまま歩き続けた楓だったが、
「楓!」
いきなり大声で名前を呼ばれた。落ち込んでいるとばかり思っていたが、まだ言い足りないことがあるのだろうか。
「・・・・・」
それでも、楓は足を止める気はなかった。
自分の言いたいことは伝えたし、これ以上平井と一緒にいる気にもなれない。立ち止まらない様子の楓に苛立ったのか
バタバタと音をたてながら階段を駆け下りてきた平井が目の前に立ち塞がった。
先ほどまでの青白い顔色から、今は目元を興奮と屈辱で赤く染めている。
「・・・・・いいのか?」
「・・・・・」
「お、俺にそんな態度をとっていいと思ってるのかよ!」
「・・・・・話しただけで、十分優しいと思うけど」
「・・・・・っ」
平井が腕を掴んだ。ギリギリと締め付けてくるそれに、楓はきつい眼差しを向けた。
「離せ」
「俺はっ、お前の家の内情だって分かるんだぞ!表面上は地域に密着したって聞こえがいい事を言ってるけど、裏では
何をやってるんだろうな!」
喚く平井はまるで幼い子供の癇癪のようだ。
(子供はまだ可愛げがあるけど)
こんな、図体がでかい男に喚かれたって煩いだけだ。そう思って楓は上手く護身術を使って平井の手を振り払った。
呆気に取られたような目をしてこちらを見ている平井がおかしい。多分、楓のことを守られるだけのお姫様とでも思ってい
たのかもしれないが、自分は間違いなく男だし、威嚇もすれば、反撃もする。
ただし、それをする価値も無い相手だと判断すれば、視界から抹殺することも簡単だ。
もっとも、
パシッ
こんな軽い平手打ちくらい、不快な思いをさせられた代償としては軽過ぎるだろう。
「煩い」
「・・・・・っ」
呆然と、じわじわと赤くなり始めた頬を押さえた平井に、楓は再び背中を向けると、今度こそいっさい係わりは持たない
と態度で示す。
すると、平井は性懲りもなく叫んだ。
「あ、後で後悔するなよっ、楓!」
「・・・・・するか、バ〜カ」
小さく呟いたその言葉は、きっと平井の耳には届かなかっただろう。
平井の行動には一応の釘をさしたが、あのままで完全に引き下がるとも思えなかった。
幹部や古参の組員達はそんな素人に対する対処も心得ているだろうが、まだ若い者達は喧嘩っ早いので一応兄に注
意を促すようにしてもらった方がいいかもしれない。
(兄さんに余計な仕事させて・・・・・)
そんなことを考えていると講義はあっという間に終わってしまって、それだけでも、また頭にくると思いながら楓は門の外に
出た。
「・・・・・」
何時ものように、少し離れた場所には、いかにも堅気ではない雰囲気を持つ津山が待ってくれている。
(・・・・・もう少し雰囲気を柔らかくすれば、悪い容姿でもないし、きっと女にモテると思うけど・・・・・)
「お疲れ様でした、楓さん」
「待たせて悪い」
「いえ・・・・・」
それに言い返そうとした津山は、ふと動きを止めた。
「失礼します」
断りを入れて取り出したのは携帯だ。もしかしたら組からの連絡だろうか?
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・?」
(津山?)
ほとんど表情は変化していない。それでも楓は気付いた、携帯を握る津山の指先が緊張に強張ったのを。
「津山」
「何でもありません」
自分の言葉を遮って携帯をしまおうとした津山に手を伸ばし、楓は携帯を奪った。
津山ならそれを遮ることも出来ただろうが、楓に掠り傷一つ負わせたくないと思ってくれている津山は自分に対し絶対に
手を出さない。それを分かっているからこその楓の行動だった。
【今楓さんを家に帰すな】
極々短いメール。差出人は伊崎だ。
「・・・・・これ、どういうこと?」
画面から目を離した楓は津山に問うが、津山は分かりませんと端的に答えるだけだ。
「津山」
「本当に、理由は分かりません」
「・・・・・」
確かに、直ぐにメールを見た自分に隠れて一文を削除する時間などなかったはずだ。それならば、メールは最初からこの
短い文で、津山もその理由が分からないような突発的な何かが起こったとしか考えられない。
「帰るぞ」
「楓さん」
「俺ももう二十歳になるんだ。何も知らないで済む歳でもない」
自ら好んで組の事情に首を突っ込むことはしないと、以前から兄や伊崎に約束させられていたが、この歳で目を隠し、
耳を塞いで、何も言わないなんてことが出来るはずも無い。
誰がなんと言おうと、楓は日向組の次男坊だ。その運命から逃れ、1人だけ安全圏にいるなんて、楓ははなから考えた
ことはなかった。
「津山」
そんな楓の決意をどう取ったのか、津山は少しして頷くと歩き始める。
何時もの場所に止められている車を見つけた楓は、少しでも早く家路に着くようにと津山に頼んだ。
それより少し前----------------- 。
事務所の自室にいた伊崎は、慌しくドアをノックする音に眉を顰めながら顔を上げた。
「失礼しますっ」
「どうした?」
入ってきたのはまだ若い組員だ。
「あ、あのっ」
「・・・・・」
「あの、今、べ、弁護士の野郎がっ」
「・・・・・落ち着いて、順序だてて話せ」
気持ちだけが急いて単語を並べる組員を一喝すると、その言葉にビクッと身体を震わせた後大きく深呼吸をしている。
それだけでもかなり落ち着いたのか、次に出てきた言葉は案外冷静になっていた。
「今、事務所に弁護士がやってきました。組長に話があるそうなんですが」
「弁護士?」
「こいつです」
言葉と同時に差し出された名刺を見て、伊崎は表情を険しくさせる。
(越智・・・・・)
つい先日、会話の中に出てきた男の登場に、伊崎は何か大きな意味があるのではないかと考えた。確かに胡散臭い弁
護士だが、それでも好んで自分の担当外のヤクザと係わりを持とうとは思わないはずだ。
いったい、何をしにきたのか・・・・・黙り込んだ伊崎に、組員がおずおずと訊ねてきた。
「ど、どうしましょうか」
「・・・・・通せ」
ここで追い返したとしても、相手の思惑がいっさい分からないままでは返って不安だ。
慌てて部屋から出て行く組員を見送った後、伊崎は引き出しの中に入れていた小さなボイスレコーダーを取り出す。
多分、相手もこちらの言葉尻を掴むために同じようなことをしているだろうが、こちらも用心のために会話はきちんと残し
ておいた方がいい。
スイッチを入れて内ポケットに入れながら立ち上がった伊崎は、ふと気付いて机の上に置いてあった携帯を取る。
時間が無いので短いメールしか打てないが、ニアミスを防ぐためには絶対に必要な連絡だ。
【今楓さんを家に帰すな】
たったこれだけの文面でも、敏い津山なら何かあったのだと気付いてくれるだろう。
(楓さんに気付かれるな)
不快なことは耳に入れたくない。伊崎はそう願いながら、応接室に通されたであろう越智のもとへと向かうことにした。
伊崎が応接室に入った時、越智はソファに悠然と座っていた。
以前初めて会った時も思ったことだが、ヤクザの組に足を踏み入れて、これほど落ち着いている一般人もそう多くはないは
ずだ。
あの時はその組の顧問弁護士でもしていると思っていたが、調べさせるとそうでもないらしい。
金を積めばどんな客でも依頼人とする。なんだかその方が面倒な相手のように思えた。
「・・・・・」
「ああ、伊崎さん」
あえて、若頭と呼ばない越智は、口元に笑みを浮かべながら立ち上がる。
「突然お伺いしまして申し訳ありません」
「いいえ。どうぞお座り下さい」
いまだ茶も出していないのは、歓迎しない証だ。だが、本人は少しも気にした様子を見せない。
「今日は何の用でしょうか?いきなり訪ねていらして、よほどの用件でしょうが」
「ええ、お宅にとってはかなりの大事だと思いますよ」
「・・・・・それで?」
「お宅の次男、楓さんとおっしゃいますか、彼に関してです」
越智の口から出た楓の名前に、伊崎の警戒心はいっきに高まった。越智が何を言おうとしているのか、用心深く、しか
し威嚇するように見据えながら、どういうことですかと訊ねる。
「実は、彼を傷害罪で告訴しようと思っています」
「・・・・・告訴?」
「本日、大学構内で平井亨(ひらい とおる)君が彼に暴行を受けました。全治三週間、これが診断書の写しです」
目の前に、書類が差し出された。
「元々、2人は友人同士でしたが仲違いをして、今は険悪な雰囲気になっているそうです。ですが、それで暴力を振る
われても・・・・・ねえ?家がこんな生業をなさっているからだとはあなたも言われたくないでしょう?」
伊崎は診断書を手に取る。日付は今日の午前中。
「伊崎さん、示談にしたくはありませんか?」
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