海上の絶対君主




第四章 愚図な勝者 〜無法者の大逆転〜


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 珠生の目に映ったのは、石壁に模様のように垂れ下がっている緑色の紐のようなものだ。
 「・・・・・クキ?」
 「ビエという植物の蔓だ。人間1人くらいぶら下がってもびくともしないくらい強いんだぞ」
 「ぶ、ぶら下がるって・・・・・」
(これで壁をよじ登るってこと?)
珠生は声が出なかった。
テレビでは見たこともある岩登り・・・・・ロッククライミングというと思うが・・・・・それをこんな植物の蔓を使ってしようとしているのだろう
か?
(切れたら、落ちて死んじゃうじゃん!)
 「ムリムリムリムリムリ〜ッ」
 思わず珠生は叫んでしまった。いや、もちろんさすがに今の状況を考えて声は潜めていたが、必死になって首を横に振り、これだ
けは止めた方がいいとラディスラスに訴える。
 「ラディ、他のほーほー考えようよ、ね?ぜったい落ちちゃうってっ」
 「タマ、良く見たか?」
 「だから、見たから言ってるんだろっ」
 「これ、ほら、触ってみろ」
 「え・・・・・チクチクしてそうで嫌だ」
 「いいから」
 嫌がっている珠生の手を取り、ラディスラスは蔓の一つを珠生の手に握らせる。
植物の茎独特の感触を想像していた珠生だったが、その瞬間へっととぼけた声を漏らしてしまった。
 「・・・・・これ、綱?」
 「緑の染料で染めた綱を、予めユージンに垂らしてもらっていたんだ。これなら昼間見ても蔓と見分けがつかないと思ってな。さす
がにこの高さを蔓で登るほど俺は命知らずじゃないって」



 王宮の中を通るよりは、直接壁をよじ登って部屋に行った方が見付かりにくい。そう考えたラディスラスだったが、その方法をどう
するかはかなり悩んでしまった。
さすがに長い梯子を持ち込むことは不可能だし、王妃の部屋の周りにはよじ登れそうな高い木もない。
後は、比較的登りやすい石壁を登ることだが、それにしても高過ぎるその場所へ行くには、命綱が無いと無理だろう。
 それをユージンに言った時、彼は今の時期、石壁には無数の蔓が伸びているということを教えてくれた。草花の好きな王妃は、
定期的に庭師は入れるものの、基本は自然のままの状況を愛しているという。
 さすがに、王妃の部屋までの高さを植物の蔓だけで登るのは無謀にも思えたが、ふと、発想の転換をしてみた。
植物の蔓で登ることは無理かもしれないが、綱なら身体を支えることは十分に出来る。
城壁に蔓が伸びていても誰も気に留めないのならば、同じような色の綱がそこにあっても、不思議と思う者はいないのではないだ
ろうか?

 思い付いたラディスラスは直ぐに市場を探し回り、持ちやすく丈夫な綱を乗組員に言って草の汁で染めさせ、それをユージンに
渡していたのだ。
 「これは上でしっかりと留めてあるからな。途中で切れることは絶対にない」
 「・・・・・で、でも、登れる?」
 「最初は俺が登る。次にラシェルで、アズハル」
 「俺は?」
 「タマはその次。お前くらい軽かったら、3人もいれば容易に引き上げられるしな。イアン、俺達がいない間、タマを頼むぞ」
 石壁を登ることに何の不安も無かったが、自分達が離れている間の珠生のことが心配で仕方が無かった。
自分1人、いや、せいぜい2人もいれば、珠生はただ綱にしがみ付いているだけでも引き上げることは出来ると思う。
だが、2人で珠生を引き上げてから、その後残る2人が登ってくる場合と、3人が素早く登り、珠生を一気に引き上げてから、残
り1人が登る場合と、どちらがより短時間で出来るかと思えば後者の方ではないかと思った。
自分が側にいない間の珠生のことが心配だが、それならば出来るだけ早く行動したらいいのだ。



 「・・・・・」
 ラディスラスがたった1本の綱だけを頼りに石壁を登り始めた。

 「・・・・・落っこちないでよ」
 「その時は受け止めてくれ」

全身黒ずくめ、頭も顔もマフラーのようなもので巻いているので、1階部分を登ってしまえば闇夜に紛れてその姿はほとんど見えな
くなっていた。
 「・・・・・大丈夫かな、ラディ」
 じっと上を見上げていた珠生が呟くように言うと、その肩を抱き寄せてくれたアズハルが力強く肯定してくれる。
 「大丈夫ですよ。ラディは力と反射神経はありますし、それに」
 「それに?」
 「悪運が強いですから」
 「・・・・・」
(・・・・・そんな感じかも)
スケベで、しょっちゅう軽口をたたいて珠生をからかうラディスラスだが、ここぞという時は絶対に信頼してもいいという様な雰囲気を
持っている。
それを悪運という言葉だけで片付けるのも変かもしれないが、結局はそういうことのような気がした。
 「ラシェル」
 珠生は、続いて綱に手を掛けたラシェルに声を掛ける。
 「気をつけてね」
 「ああ」
ラシェルは頷くと、ラディスラスと同様身軽に石壁を登っていく。
(2人共凄いなあ)
考えれば、船と海の高さは、この城の2、いや、3階くらいの高さがあるはずだ。そこを、飛び込んだり、簡単に縄梯子を上がったり
もしている彼らにとっては、珠生が考えるほどにこれが大変なことではないのかもしれない。
それでも心配は消えなくて、続いて立ち上がろうとするアズハルの腕を珠生はとっさに掴んでしまった。
 「タマ?」
 「ア、アズハル・・・・・」
 「・・・・・心配要りませんよ、これでも私も海賊ですからね」



 「・・・・・っ」
 下から伸びてきた手がバルコニーに掛かる。
それを見たラディスラスとラシェルは下を覗き込み、手を伸ばして腰の部分の服を掴むと、左右から一気にアズハルの身体を持ち
上げた。
王妃の上の部屋、皇太子であるローランの部屋のバルコニーはかなり広く、大の男が3人いても全く手狭ではなかった。
 「すみません」
無事に登れたことにさすがにほっと息をついたアズハルに、ラディスラスはからかうように言った。
 「なんだ、久し振りの体力仕事に疲れたか?」
 「少し」
苦笑を浮かべているアズハルの額にはうっすらと汗が滲み、息も僅かだが弾んでいる。それでも、普通の人間と比べればかなり早
く石壁を登ってきた。
 海賊でなくても、海の男というものは体力勝負であるし、度胸もそれなりにある。
船医としてエイバル号に乗っているアズハルも、繊細な容貌からはとても想像出来ないほどに逞しいのだ。
(きっと、タマは心配していただろうがな)
 その容貌のせいで、どうやら珠生はアズハルを非力だと思い込んでいるらしいところがあり、今も多分気遣う言葉を投げかけた
であろうことは想像出来た。
 「ラディ」
 「ああ」
少し、理不尽さを感じないでもないが、今はそんな余裕など無い。早く珠生を引き上げてその顔を見なければ安心出来ない。
 「そろそろ見張りが回ってくる時間だ、急ごう」
 そう言って、ラディスラスは綱を二回ほど揺らした。
これを合図に、残っているイアンが珠生の身体に綱を回し、下に輪を作って足を掛けさせるはずだ。
とてもあの細い腕でこの綱を登れるとは思えないので、そのまま引き上げる方が早くて安全だった。
 「出来るだけ石壁から離さないと怪我をするかもしれません」
 「でも、離し過ぎると揺れが激しくなって返って危ないだろ」
 「ラディ」
 アズハルと話していたラディスラスに、ラシェルが声を掛けてきた。見れば、綱がピンと張っている。
 「2回揺れましたよ」
 「準備は出来たってことか。じゃあ、行くぞ」
下での用意が出来たという合図を受け、ラディスラス達3人は綱をしっかりと掴んだ。衝撃を与えずに、速やかに。
 「引けっ」
一瞬、腕にずしんとした衝撃があったが、直ぐに一気にそれを引き上げ始めた。
(綱を放すなよっ、タマ!)