海上の絶対君主




第四章 愚図な勝者 〜無法者の大逆転〜


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 「絶対に手を放さないでくださいね」
 「う、うん、絶対落ちないようにお願い」
 珠生は自分の腰に綱を巻きつけているイアンに強張った笑みを向けた。
 まるで、目に見えない力に引っ張られているかのようにするすると上に登っていった3人。とても命綱が無いとは思えないほどのそ
の身軽さが羨ましく、出来れば自分もあんなふうに登りたいとは思ったが・・・・・握力には全く自信がない。
(こ、高所恐怖症じゃないはずなんだけど・・・・・っ)
 忍び込むということに感じていたワクワクとした高揚感は何時の間にか消えていて、今は本当に落ちてしまわないだろうかとそれだ
けが心配だった。
 「はい、ここに足を掛けてください」
 「こ、ここ?」
 「後はお頭達が一気に引き上げてくれますから、とにかく、絶対に手を放さないように。下も向かないでくださいね」
 「わ、分かった」
 いつもならば口煩く感じてしまうような言葉も、今は縋るように聞いてしまう。勝手だとは思うが、とにかく珠生は今目に前のイアン
に絶対に安全だということを保障してもらいたかった。
 「だ、大丈夫?」
 「大丈夫です。じゃあ、合図しますよ?」
 そんな珠生に笑顔で頷くと、イアンは綱を二度引っ張る。
すると、まるで上から機械で綱が巻き取られるように正確に素早く、珠生の身体は上に上がり始めた。
(うわっ、地面から足が離れたっ)



 思った以上に珠生の身体は軽かった。
それを3人の男の力で引き上げているのだから、簡単な作業といえば言えるのだが・・・・・。
 「・・・・・っ」
石壁に珠生の身体がぶつかって怪我などしないように、かといって壁から離し過ぎて綱が不安定に揺れ過ぎないように、神経の
方がかなり疲れてしまう作業だった。
 その時、
 「ラディっ、火だっ」
ラシェルが短く注意を促してきた。
そろそろとは思っていたが、不運にも見回りがやってきてしまったようだ。
 「止めろ、そのまま静かに」
気をつけているとはいえ、このまま珠生を引き上げていたら、綱の揺れに気付かれるかもしれないし、バルコニーに綱が擦れて軋む
音が大きくなるかもしれない。
今珠生の身体は半分程の距離を上がっているところだろうが、あの火の明かりが通り過ぎるまでは現状維持にしておいた方がい
いと思った。
(タマ、じっとしてろ)



 「今夜は冷えるな」
 「珍しいよな、今の時期に」
 「!」
(誰か来た!)
 いきなり闇夜に響いた声に、珠生は反射的に下を向いてしまった。
 「・・・・・っ」
(た、高い・・・・・!)
思わず、珠生は目を硬く瞑ってしまった。
さすがに悲鳴を上げるのは我慢したものの、綱を握る手がますます強張ってしまったのは仕方が無いだろう。自分の身長の何倍
もの高さに目が眩む思いだが、同時に真下にいたはずのイアンのことも気になってしまった。
(し、下、また見ないといけないのか・・・・・)
 怖いが、確かめなければもっと気になる。
珠生は思い切ってそっと下を向いた。
 「・・・・・」
くらっと眩暈がしそうになったが、このまま手を放してしまったらそれこそ自分が落ちてしまう。珠生はぎゅっと綱にしがみ付いたまま、
素早く自分の真下に視線を走らせた。
(・・・・・いない)
 どうやらイアンは見回りの気配を感じて直ぐに身を隠したらしく、その姿は見当たらなかった。
そのことに安堵した珠生は、そのまま2人連れの見回りが立ち去るのを待つ。
(う・・・・・時間が経つのが遅い・・・・・っ)
 「・・・・・」
 「そういえば、さっき正門の方が騒がしくなかったか?」
 「ああ、門番が1人、姿が見えなくなったって言ってたな」
 「サボってるんじゃないか?」
 「でも、ションは真面目な奴だぞ」
 「・・・・・」
(あの人のこと言ってるんだ・・・・・)
 どうやら、正門で珠生が騙した男のことを話しているらしい。騒ぎになっているということは、じきに木陰に寝かせてある男の姿は
見付かるだろう。
(急がないと、俺達が忍び込んだことばれちゃうじゃん!)
急がなければと気持ちは焦るものの、今動くことは出来ない。
 「・・・・・っ」
 思わず、手に力が入ってしまったせいか、綱が僅かに揺れた。
その不安定さに思わず石壁に足をついてしまうと、その石の欠片がパラッとはがれて下に落ちてしまう。

 ジャラ ジャラ

 「ん?」
小さな欠片が落ちてしまう音に、見回り達は顔を上げた。



 ジャラ ジャラ

 「!」
 その石が落ちる音は、バルコニーに潜むラディスラス達の耳にも聞こえた。
静かな闇夜に響くその音は、多分昼間ならば気にも留めないくらいの大きさだろうが、こんな夜更けでは嫌でも響いた。
 「ラディ」
 「しっ」
今は、動けない。
もう少し珠生の身体が上の方まで来ていれば一気に引き上げるのだが、こんな中途半端な高さでは返って危険でしかないだろ
う。それに、まだ下にはイアンがいて、下手な動きをすれば捕まってしまうかもしれない。
 「・・・・・」
3人はしっかりと綱を掴んだまま、僅かな息遣いも押し殺すようにじっとしていた。



(見付かるっ?)
 直ぐに石壁から足を離した珠生は、もう駄目かというような気持ちで身体を硬直させた。
今の自分の服装はラディスラス達と同じ全身黒尽くめで、一見すれば闇夜に紛れるはずなのだが・・・・・下から見てどういう風に
見えるのかはよく分からない。
肌の色が少しでも見えてしまえば、そこに何かがいるということは分かってしまうはずで、珠生は顔を見られないようにと、グッと顔を
上に向けてじっとした。
 「今、石が落ちてこなかったか?」
 「この石壁も古いからなあ。確か、今度石職人が来て手直しをするって言ってたろ?」
 「うわっ、頭の上に落ちないように早く行くぞ」
 「そうだな」
 どうやら、今落ちてきた石の欠片は老朽化のせいだと思ったらしい男達は、自分達が怪我をしないようにと足早にその場から立
ち去る。
持っていた火の明かりがかなり遠くなり・・・・・やがて角を曲がって消えた時、珠生はどっと疲れたように溜め息をついてしまった。
 「た、助かった・・・・・」
 「タマ、引き上げるぞ」
 上から、ラディスラスの声がして、それまでピクッとも動かなかった綱が一気に上に引き上げられ始めた。それは、半分引き上げた
時の倍くらいの速さで、珠生はあっという間に目的のバルコニーの上へと着く。
 「大丈夫かっ?」
珠生の腰から綱を解き、強張って綱から離れない指先を一本一本剥がしてくれながらラディスラスは声を掛けてくれるが、珠生は
直ぐに声が出ない。
(良かったあ・・・・・生きてる・・・・・)
不安定な空中ではなく地に(バルコニーだが)足が付いたことに、珠生は泣きたいくらい安堵していた。