海上の絶対君主




第四章 愚図な勝者 〜無法者の大逆転〜


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 かなり疲労困憊している珠生を宥めたいのは山々だったが、まだ下にイアンが残っている。
先程のように何時見回りが回ってくるかも分からず、早くイアンを上に上げなければならない。ラディスラスは先に綱を下に下ろすと
合図の為に二度振った。その途端、綱はピンと張り詰め、イアンが登り始めたのが分かる。
(よし)
 「タマ、大丈夫か?」
 登ってくるイアンのことはラシェルとアズハルに任せると、ラディスラスはバルコニーに崩れるように座り込んでいる珠生の顔を覗き込
んだ。
幸い泣いたりはしていないようだが、ずっと唇を噛み締めていたせいか、小さなそれに痛々しい歯形が付いている。
ラディスラスは眉を顰め、無意識のうちに軽く唇を寄せてしまった。
 「・・・・・っ」
 いきなりの口付けに驚いたのか、それまで放心していたような珠生の表情がみるみる驚きのそれに変わり、続いて大きな目を吊
り上げて顔を真っ赤にする。ラディスラスにはそのつもりは無かったが、どうやら恥ずかしさと驚きと怒りで、珠生の脱力感は一気に
吹き飛んでしまったようだ。
 「ラ・・・・・ッ」
 怒鳴ろうとした珠生の唇を、ラディスラスはとっさに大きな手で塞いだ。
意図してはいなかったが、怒鳴るほどに元気が出たのならば好都合だ。
 「文句は後で聞いてやる。タマ、動けるな?」
 「・・・・・」
子供のように宥められたのが面白くないのだろう、珠生の目はまだ吊り上がったままだが、それでもコクコクと頷き返してくる。
その返事にラディスラスが満足した時、思った以上に早くイアンが上へと辿り着いた。
 「よし、直ぐ次に移るぞ」



(こんなとこでキスなんか・・・・・っ。ラディは時と場合を考えないよなっ)
 キス自体に怒るというよりも、不意を突かれてしまったことが悔しくて、珠生は今だに怒っているんだぞという態度を崩さない。
これでアズハルやラシェルに見られていたらラディスラスは珠生の頭の中で百叩きの刑だが、幸いにして2人はイアンの方へと気を
取られていたので、今のラディスラスの暴挙は目に入っていないようだった。
 「次は下に行くぞ」
 珠生の怒りを知ってか知らずか(多分分かっているだろうが)ラディスラスは早速次の行動に移ると言った。
もちろん、珠生も何時までも子供っぽく反抗は出来ず、ラディスラスの横を陣取って改めての手順に耳を傾ける。
 「この直ぐ下が王妃の部屋だ。部屋の外に衛兵が2人。だが、当然部屋の中にはいない」
 「召使も?」
 「ああ。寝る時は1人がいいんだそうだ」
 アズハルの問いにラディスラスは答えているが、それを聞きながら珠生は思った。
 「・・・・・」
(俺なんか、1人だったら寂しいけどな)
子供であったら、成長すれば自立するということもあるだろうが、好きな人とだったら・・・・・傍にいたいと思うのではないだろうか。
それとも、王や王妃といった立場の人間は、珠生の感覚からは少しずれているのだろうか?



 「ここから下に下りるのはそんなに苦じゃないはずだ。部屋の間取りは覚えているだろう?」
 今、ラディスラス達がいるバルコニーのある部屋は、皇太子ローランの部屋だ。
ユージンの情報では、ローランは毎夜夜遊びをしていて、夜明け近くにしか戻ってこないらしい。その言葉通り、バルコニーから覗く
部屋の中には明かりは無く、きっちりと吊るし布が掛けられていた。
 その下が、ちょうど王妃の部屋になる。
バルコニーに続く部屋は居間で、その奥が寝室になっているらしい。
今の時間は既に眠っているだろう王妃に気付かれること無くバルコニーに下り立つ事は可能だろうが、問題はそこからどうやって室
内に入るかだ。
 窓を割って入ったら、それこそ大きな音が出て部屋の外にいる衛兵に気付かれる可能性が高いし、王妃に騒がれては実力行
使に出なければならなくなる。
自分の母親に近い年齢の王妃には、出来るだけ乱暴な手段は取りたくはなかった。
 「この高さだ、多分窓には鍵は付いていないだろうが、もしも掛かっているならそれを外して中に入ろう」
 「俺から下りる」
 「ラシェル」
 「次に、イアンが下りてくれ。ラディ達は待機、それでいいですね」
 「俺が行くぞ」
 「ラディはもう少しタマについてやっていた方がいい」
 「・・・・・悪いな」
 ラシェルも、珠生がまだ落ち着かない様子が分かっているのだろう。
その申し出を、ラディスラスは素直に受けることにした。
 「よし、じゃあ、綱を切るぞ」
 今、綱はバルコニーの側面に垂れ下がっている。それを今度はバルコニーの手摺り部分に結び直し、直接下に下りるようにしな
ければならない。
ただし、そうすれば幾ら緑に染めたとはいえ綱の存在は目立ち、危険度は増してしまう。たった今見回りが通った後だとはいえ、用
心に用心を重ねなければならないのだ。
 「・・・・・よし」
 携帯していたナイフで綱を切ったラシェルは、バルコニーの手摺に素早くそれを結んだ。船乗りなので絶対に解け難い綱の結び
方を知っている。
それでも何度も用心深く確かめると、一度下を見下ろしてから手摺の向こう側へと身体を移動させた。
 「何かあったら直ぐに知らせますから」
 「頼むぞ」
 地面からここまで登ってくるよりも遥かに短い距離だが、緊張感はその倍以上に大きい。
ラディスラスはゆっくりと面前から消えていくラシェルの姿を目で追うと、直ぐに手摺から身を乗り出してその行くえを追った。
 「ラディ・・・・・」
 「・・・・・大丈夫、今着いた」
 ラシェルの身体は時間を掛けることなく真下の王妃の部屋のバルコニーへと下り立つ。そこから姿が見えなくなったのは、きっと窓
から中の様子を窺っているのだろう。
ユージンの情報通りならば王妃は今眠っているし、部屋の中には他の人間はいないはずだが、変則的なことが絶対に無いとは
限らない。状況を判断するラシェルの役割はかなり重要だった。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 残った4人は息を顰めるようにしてラシェルからの合図を待っている。
珠生が無意識のうちに自分の服の裾を掴んでいるのに気付いたラディスラスは、その手に自分の手を重ねてギュウッと強く握り締
めた。



 「あ・・・・・」
 目の前で綱が揺れた。
 「よし、イアン、行ってくれ」
 「はい」
どうやら王妃の部屋の状況はユージンの情報通りだったらしい。
珠生がほっと安堵の溜め息をつく間にイアンが綱を伝って下に下りていった。
 「次は俺だな」
 「お、俺は?」
 ここまで上るのは、上に引っ張りあげられた状態だったのでほとんど力は必要なかった。ただ綱を放さないように抱きしめるようにし
がみ付いていただけだ。
しかし、下に下りるのにはそういうわけにはいかないだろう。自分で伝って下りて、ほぼ垂直の下にあるバルコニーに下りなければな
らない。
(お、落ちるって、絶対!)
 高さが1メートルや2メートルならばまだいい。精神的にも、落ちたとしてもどれ程の衝撃なのか予想がつくからだ。だが、これ程の
高さだと・・・・・いったい、落ちてしまったらどうなるだろう。
 「下で俺が受け止める」
 「え・・・・・受け止める?」
 「ああ。お前はとにかく、2、3回だけ手を下に動かせ。それが無理ならずり落ちるだけでいい。俺が絶対に受け止めるから」
 「そ、そんなの、俺重いから無理だよっ」
 「大丈夫」
 何を根拠にそう言い切るのか、珠生は更にラディスラスに反論しようとしたが・・・・・開け掛けた口を閉ざした。
ここで駄目だと言っても、出来る方法など限られているし、そもそも立候補までしてラディスラスについてきたのは自分の方なのだ。
(大丈夫・・・・・大丈夫、ラディがそう言うんなら・・・・・絶対っ)
 「わ・・・・・かった、ちゃんと、受け取ってよ」
 顔は、多分強張ったままだったと思う。それでも、何とか言葉を押し出した珠生に向かい、ラディスラスはいきなり珠生の頭を抱
き寄せて再び唇を重ねてきた。
 「ラッ?」
 「ちゃんと下まで来いよ」
そう言ったラディスラスは、珠生に殴る間も与えずにバルコニーの向こう側に身を躍らすと、にっと笑って下に下りていった。