春の歓楽



13







 何かが当たっている音がする・・・・・真琴は夢の中で何の音だろうと考え・・・・・やがてゆっくりと目を開いた。
 「・・・・・あれ?」
ぼんやりとした視界に映るのは木の天井。視線を動かせば懐かしい本棚や机があって・・・・・。
 「・・・・・そっか、家に帰ってたんだった」
大学に進学してからも何度か実家には帰ってきていたが、その時はこんな風に意識が混合することはなかった。
多分、今回は海藤達も一緒で、昨夜も寝る前までその顔を見ていたからこんな風に思ってしまったのだろう。
 「・・・・・変なの」
自分にとっての海藤の存在の大きさを改めて感じて照れ臭くなった真琴は、そんな気持ちを誤魔化すようにぱっとベットから起き
上がると机の上の時計に視線を向けた。
 「なんだ、まだ6時か・・・・・」
(まだ起きてないかな)
 窓のカーテンを開けば、空がうっすらと光を射してきたのが分かる。
ふと流れるように離れに視線を向けた真琴は、
 「なっ?」
そこに、思いもよらなかった光景を見た。



 「おじい様、まだやるの?」
 「まだまだ!」
 多少息は上がっているもののその気迫はまだまだ十分なもので、綾辻は感心したように真介を見つめた。
手合わせを申し込まれ、さすがに歳を考えて手加減しようと思ったが、綾辻の想像以上に真介の太刀筋はしっかりとしており、
のんびりと構えているだけというわけにはいかなかった。
(さすがにヤンチャな奴らを相手にしているだけのことはあるわね)
保護司という仕事が楽ではないという事を知っている綾辻は、これならまだ当分大丈夫なようだと笑みを漏らした。
 「お前、何段だ?」
 そんな綾辻の余裕を感じ取ったのか、真介が難しい顔をしながら問い掛ける。
綾辻は首を傾げた。
 「さあ」
改めてそう言われるとよく分からなかった。
 「さあ?」
 「段は持っていないんですよ。見よう見真似だから」
 「何だと?」
 「わざわざ試験を受けるのも面倒くさかったし」
 自慢ではないが昔から勘と運動神経はいいようで、面白そうだと思って教えてもらった武道はことごとく身に付いた。
しかし、改めてきちんとした段階を踏んで段を取れといわれると、面白さを追求したい綾辻はそこで熱が冷めてしまうのだ。
あっけらかんとして言う綾辻に、真介はううむと唸った。



 「じいちゃん!」
 パジャマのまま駆けつけた真琴は、竹刀を構えている2人をハラハラと見つめた。
綾辻が強いことは知っているが、祖父はこの歳でもまだ地域の試合に参加しているほどで、簡単に負かすという事は出来ないは
ずだ。
 「海藤さん!」
 「ああ、おはよう」
 「おはようございま・・・・・っ、あ、あの!何時の間にこんなことにっ?」
 真琴が慌てて尋ねると、海藤は唇に笑みを浮かべてちらっと真哉を見た。
 「朝、試合に誘われてな」
 「こんな朝に?真ちゃん、真ちゃんもこんなに朝早くから来たの?」
 「う、うん」
 「じいちゃん、ちゃんと手加減してる?綾辻さんに怪我なんてさせてない?」
 「・・・・・反対」
 「・・・・・反対?」
 「じいちゃんの方が手加減してもらってる」
 「え?」
ぶすっとした表情の真哉の足元には、地面に木の枝で書いた正の字が幾つもあった。
立ち位置から考えると、ほとんどの正の字は綾辻の方側についていて・・・・・。
 「・・・・・綾辻さんの方が勝ってる?」
 「・・・・・」
コクンと頷く真哉の表情はなぜか冴えないが、真琴はそれよりもと側に立つ海藤を振り返って聞いた。
 「綾辻さん、段を持ってるんですか?」
 「いや、あいつは元々型にはまったことが嫌いらしい。武道はほとんど齧ってるようだが、きちんとした段というものは持っていない
ようだ」
 「・・・・・なんか、凄い」
 持っている雰囲気は柔らかく、言動も見た目がああなので、一見綾辻は軟弱者だと思われがちだが、よく見ればその腕も身体
もしなやかな筋肉が付いており、とても弱々しいとはいえないものだ。
綾辻自身が意図して周りにそう思われるようにしているのか、それとも勝手に周りがそう思っているだけなのかは分からないが、真
琴もまさか真介がここまで綾辻に敵わないとは思ってもみなかった。
 「・・・・・じいちゃん、落ち込むかも」
 真琴は地面に書かれた正の字の前にしゃがみ込んでポツリと呟く。
 「・・・・・詐欺だよ」
真哉の呟きに、真琴は苦笑を漏らすしかなかった。



 早朝の手合わせは結局綾辻の圧勝だった。
それでも最後真琴が止めるまで参ったと言わなかった真介は相当な負けず嫌いなのだろう。
 「朝からすみません」
 「ううん、私も楽しかったから。それに、克己にもかっこいい所見せれたし、ね〜?」
 「・・・・・ご老人相手に勝っても自慢にはなりませんよ」
 「海藤さんも倉橋さんも、朝早くからすみませんでした」
 「気にするな」
 海藤は笑いながらクシャッと真琴の髪を撫でた。
昨夜、真琴の父親と遅くまで話した。
いや、元々言葉数の少ない海藤はそんなに会話をしたというわけではないが、聞き上手な和真は東京での真琴の暮らしを上
手に聞き出し、楽しそうに笑っていた。
そんな気持ちの良いまま眠りに付き、早朝、人の気配に気付いて起き上がれば、そこにはまるで悪戯を仕掛けようとする真琴の
家族がいた。
 綾辻が笑いながら対応する姿を見て、海藤も思わず笑みを浮かべた。
なぜだか自分達も真琴の家族の一員になれた様な気がして、頑固な祖父も、小生意気な弟も、自分にとっても切り離すことが
出来ない大切な存在になったのだと自覚した。
(新しい家族・・・・・か)
 けして人には自慢出来ない自分の立場。きっとこの先も真琴の家族に話すことはしないと思う。
それでも新たに守るべきものが出来たのは事実だ。
 「なんだ、朝から。面白いことでもしてた?」
 「父さんっ」
 母屋から出てきた和真は、難しい顔をしている自分の父親の顔を見て苦笑した。
 「上には上がいるものでしょう?」
 「・・・・・」
 「井の中の蛙って・・・・・父さんが一番嫌いな言葉じゃなかったですか?」
 「分かってる!おい、朝飯を食ったらもう一番だ!今は腹が減ってるから力が出ん!」
 「何度でもお付き合いしますよ、おじい様」
 綾辻にとっても、この手合わせは楽しかったのだろう。心底楽しそうに笑いながらそう言うが、真介はますます顔を顰めて綾辻を
睨んだ。
 「・・・・・その気持ち悪い呼び方やめろっ。じいさんで十分だ!」
 「え〜、それじゃ楽しくないわ」
 「・・・・・こんな奴に負けるなんて・・・・・っ」
悔しそうに唸りながら母屋に戻っていく真介を、海藤は自分でも自覚しないまま穏やかな視線で見つめていた。