爆ぜる感情
13
名前を呼んだその相手が、こうして目の前にいることが信じられなかった。
ただ、抱きしめてくる腕の力は強いし、嗅ぎ慣れたコロンが身体を包んでくる。
「・・・・・ごめん」
それしか言えない楓に、伊崎はもう一度ギュッと抱きしめ返すと、それからゆっくりと身体を離して言った。
「叱るのは無事帰ってからにします。とにかく、無事で良かった」
「恭祐・・・・・」
「もしかしたら、もう船か飛行機に乗せられているかと心配していました」
あっさりと言うが、それは有りえる話だった。いや、もしかしたら地下駐車場での襲撃が無かったら、ウォンの手筈はもっと
素早くスムーズだったかもしれない。
「Lie face downie」
「・・・・・っ」
何時の間にか、廊下には数人の男が2人を囲うように立っていた。
低く呟く言葉が何を言っているのかは楓にも分かる。
「恭祐、どうする?」
「ミスター、ウォン、きちんと話をするのに無粋なものは使いませんよね、あなたなら」
「・・・・・」
ウォンは低く笑うと、銃を構えている部下達に低く命令した。
「Solve it 」
まさか、こんなに早く伊崎がここに来るとは思わなかった。
楓が家から抜け出す時に見つかった可能性はなくもないが、あの時確認した限りでは楓の後を追ってきた者はいなかっ
たはずだ。
いや・・・・・。
(バイクがいたか・・・・・)
途中、不審なバイクが後ろを走っていた。
その正体を確かめる為に速度を落とした瞬間、バイクはその横を通り抜けて姿を消したが、多分あれが伊崎の関係者
だったのだろう。
自分の言う通りに動く楓が面白くて、警戒が散漫になったのかも知れない。
不覚だった。
「ミスター、ウォン、はっきりと言わせて頂きます。今後一切我々には手を出さないで頂きたい。楓さんは人身売買の商
品ではありませんし、何より私にとってはたった1人の愛しい人です。・・・・・これは以前にも申し上げましたね」
「・・・・・」
「あなたの上の方がどんなに望んだとしても、楓さんは日本から・・・・・私の傍からは離しません」
「恭祐・・・・・」
楓の震える声が聞こえ、振り向いた伊崎はうっすらと瞳を濡らしている楓に気付いた。
「楓さん?」
「・・・・・ありがと」
礼を言われるようなことではなかった。
今言った伊崎の心情は常から思っていたことで、これはたとえ周りがどんなに変わろうとも変わらない事実だった。
(だが・・・・・あまり言葉では言ったことが無いか)
恋人同士であるという以前に、楓は自分の組の大事な子息で。
誰からも可愛がられ、愛されている子供で。
とても自分1人だけのものには出来ないと分かっている価値のある存在だった。
幸運にも振り向いてもらって両想いにはなったが、どこか崇めるという気持ちもあったのかもしれない。
「私の気持ちは、何時だって変わりません。愛してますよ、楓さん」
傲慢な女王様と言われている楓は、本当は繊細で臆病な優しい子だ。
口から出る我儘に誤魔化されないでもっときちんと思いを伝えないといけない・・・・・伊崎はそう改めて思った。
「・・・・・言いたいことはそれだけか?」
唐突に口を開いたウォンに、伊崎の意識は直ぐに相手に向けられた。
「ええ、それだけです」
「No farce」
皮肉気に口元を歪め、ウォンはそう吐き捨てた。
(価値の有る無しはこちらが決めることだ)
今にも抱擁を始めそうな2人の雰囲気にウォンは不快感を抱いた。
「龍頭が望まれているものは差し出さなければならない」
「本当に彼が望んでいるんですか?」
「馴れ馴れしく彼などと言わないでもらいたい」
組織の中で神にも等しい存在の龍頭は、一族だけでなく周りの者もそれなりの配慮をしてもらわなければならない。
たかが日本人にその名を口にする権利など無いのだ。
「失礼しました。でも、私も何もしていなかったわけではないんですよ」
「・・・・・」
「確かに日向組は末端の小さな組織ですが、その上にはそちらに匹敵するほどの組織があるんです」
「・・・・・大東組か」
「ええ。あなた、初めて宴席で私達に会った時のことを覚えていますか?その時楓さんを呼び出したのは奥田さんでし
たよね?彼は既に一線から身を引いた方ですが、本部の中にはまだたくさんいるんですよ、楓さんの信奉者が」
伊崎が何を言おうとしているのか、ウォンの中にほんの僅かな懸念が生まれた。
(まさか・・・・・)
元々、今回ウォンが来日した本来の目的は、大東組の真意を探る為だった。
大東組が伍合会を信用し切れていないように、伍合会の方も大東組を信用してはいなかった。
巨大なマーケットである日本での共犯者として大東組という選択は是か非か、それを確かめる為に組織のNo.3であ
るウォンがわざわざ来日をしてきたのだ。
ただ、その前から楓の話は大東組とは別の組織から聞いていたので、忙しく孤独な龍頭の慰めになれるかどうか、つ
いでに確かめようとしたのは・・・・・実はウォンの独断だ。
「伊崎」
「『本意ではない』、と」
「・・・・・」
「あちらの答えはそれだけだそうです」
「・・・・・」
ウォンは眉を顰めた。
(懲罰か)
ウォンと龍頭は幼馴染でもあり、日頃はかなり親しくしている。
しかし、今回のように勝手に動き、日本側から指摘を受けるという屈辱を与えてしまったのだ、懲罰を受けるのは確実
だろう。
「・・・・・」
「帰っても宜しいですね?」
話は終わったとでも言うように、伊崎は楓の肩を抱いて背を向けようとする。
「楓」
「・・・・・」
「楓」
何度名前を呼んでも、楓はその視線さえも向けてこない。
ウォンは唇の端を上げた。
「どうせ罰を受けるのなら、このまま何も無いままというのは悔しいな」
「・・・・・」
「簡単に帰すと思うのか?」
ゆっくりと廊下に続くドアを開きながら、ウォンは廊下に控えている部下達を呼び寄せようとした。
しかし。
「・・・・・」
「ミスター、ウォン。空港までお送りします」
「・・・・・お前は」
「開成会を率いています、海藤と申します」
廊下で待機しているはずの部下は1人残らず拘束された姿で、佇んでいた端正な容貌の男は静かにそう言いながら
頭を下げた。
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