爆ぜる感情
15
パシッ!
「・・・・・っ」
座敷の中に高い音が鳴り響き、その瞬間正座をしていた楓は後ろに倒れ込んでしまった。
「馬鹿野郎が!」
「・・・・・」
「大人しくしてろと言った俺や伊崎の言葉を無視して勝手に家から抜け出して、おめおめと相手に捕まって!その上大
東の力まで借りやがって!」
「・・・・・ごめんなさい」
「謝って済むと思ってんのか!」
ホテルから家に戻ってきた2人は、直ぐに心配していた雅治と雅行に顔を見せた。
ざっと楓の全身に視線を向けた2人は、楓に傷が無いことを確認して見るからに安堵の顔色になったが、母屋の座敷に
席を移し、そこに雅治と雅行以下日向組の主だった幹部達と共に楓と向き合った時、雅行は平手で楓の頬を打ったの
だ。
平手という事だけでも雅行が手加減しているのは分かるが、華奢な楓の身体が飛ぶほどには威力があり、白い頬は見
る間に赤くなっていった。
楓のことを猫可愛がりしている父親の雅治は今にも助けてやりたいというように腰を浮かせかけたが、今は組長でもある
雅行の行動に口を挟むことは出来ない。
居並ぶ幹部達も、楓が幼い頃から可愛がってくれてきた者達ばかりなので、一様に痛ましそうな表情にはなるが、誰も手
を出すことは出来なかった。
「申し訳ありません、組長。全て私の不徳の致すところです」
唯一、伊崎は深く頭を下げ、次に倒れたままの楓の身体を起こしてやった。
「楓さん」
「・・・・・」
今まで、怒鳴られはしても手を出したことのない兄の行動は相当にショックだったのか、楓の顔は青白く青褪め、唇も噛
み締めている。
しかし、涙は流しておらず、その気の強さに楓らしいと伊崎も内心安堵していた。
「伊崎、お前がこいつを甘やかすからだ」
「はい」
「若頭になってお前は楓の世話係から外れただろう。何時まで手を貸すつもりだ」
「・・・・・組長」
伊崎は居ずまいを正し、額を畳に着けるほどに深く礼を取りながら言った。
「確かに私は若頭という地位を頂き、微力ながら組を支える一端を担わして頂いていますが、私がこの世界に入る切っ
掛けとなった楓さんのお世話から完全に手を引くことはどうしても出来ないのです」
「伊崎」
「この私の信念は変えることは出来ません。組のことを疎かにするつもりはありませんが、この私の行動をお許し頂けな
いのなら、降格も甘んじてお受け致します」
「恭祐!」
伊崎の言葉は楓にも衝撃だったらしく、今までの硬い表情は嘘だったかのように伊崎の腕に縋って叫んだ。
「何言ってんだよ!若頭から降格なんて、極道にとったら恥じゃないか!俺の為になんて、そんなことは嬉しくない!」
「・・・・・」
「恭祐!」
生まれた時からこの世界にいる楓には、組の中の序列というものもよく分かっているのだろう。
一度上って、それが堕ちてしまえば、二度と這い上がれない厳しさというものも。
それでも、伊崎は楓から離れることなど考えたくはなかったのだ。
(俺の為になんてっ、なんでそんなこと言うんだよ!)
若頭になった途端、忙しくなってなかなか会えないことに苛立っていた。
常に傍にいて甘やかしてくれないことが不満だった。
ただ、若頭にまでなったのは伊崎の実力が認められたことでもあるので、淋しい気持ちとは裏腹に嬉しくて自慢でもあった
のだ。
そんな、伊崎の上り付いた地位を、自分のせいで台無しにすることなど出来なかった。
「兄さんっ」
楓は直ぐに雅行と向かい合うと、ガバッと頭を下げて言った。
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
「楓」
「今回の事は全部俺が悪い、俺だけの責任ですっ。恭祐も、付いてくれている津山も、皆悪くないっ。ね?皆も恭祐
が若頭を降りるなんて反対だよねっ?」
楓は居並ぶ幹部達を見つめた。
泣き落としをするわけではないが、自然と瞳が濡れてしまうのを感じる。
「・・・・・組長」
そんな楓の様子を見ていた古株の幹部、河本が苦笑しながら口を挟んだ。
「申し訳ないが、私達は坊っちゃんのお願いには弱いんですよ。伊崎は確かにまだ若いが、私らよりはよっぽどこの先の
日向組の為に働いてくれる。その褒美の前渡が坊っちゃんの世話っていうなら安いもんじゃないですかね」
「河本」
「多分、皆同じ意見だと思いますが」
「ありがとうございました」
結局、河本のとりなしで、伊崎と津山の不手際は(主に楓の暴走を止められなかったという事にだが)不問となった。
雅行としても、弟の楓が可愛くて仕方がないのだ。
「・・・・・分かった。ただし、楓、お前は1ヶ月間の夜遊び禁止と、小遣い無しだ。いいな?」
そう告げた瞬間、
「兄さん!!」
途端に抱きついてきた楓を抱きとめた雅行の顔は既に弟に甘い兄の顔になっていて、自分が打って赤くなってしまった頬
に触れながら謝っていた。
父親の雅治も仲間外れにするなと言わんばかりに楓を抱きしめて大丈夫かと顔を覗き込んでいる。
そんな親子の光景をチラッと見ながら、河本は唇の端に笑みを浮かべた。
「まあ、うちは坊っちゃんでもってるようなもんだからな」
「・・・・・」
「オヤジも、組長も、結局は坊っちゃんが可愛くてたまらないんだ。何があっても坊っちゃんを味方にしておけば間違いな
いだろう」
引退した元組長の雅治をオヤジと呼ぶ古くからのたたき上げの幹部である河本の口調は穏やかだ。
昔は武闘派で名を売っていたらしいが、今の河本は白髪交じりの髪を綺麗に撫で付けた紳士にしか見えない。
「伊崎」
「はい」
河本はちょいちょいと自分より背の高い伊崎を手招きして身を屈ませると、その耳元で声を潜めて囁いた。
「坊っちゃんとのこと、もうしばらくはバレないようにしろよ」
「・・・・・っ」
伊崎はハッとして河本の顔を見直した。
「河本さん、あの・・・・・」
「灯台下暗しだ。オヤジや組長は坊っちゃん可愛さに、見えてるもんも見えないと思い込んでる」
「・・・・・」
「知ってるもんは皆見ざる言わざる聞かざるだ。でも、坊っちゃんを泣かすようなことがあったら命は無いと思えよ」
「・・・・・はい」
「あの子を御するのは大変だろうが、手に入れたもんの宿命だ、精進しろ」
笑いながら座敷を出て行く河本の後ろ姿に、伊崎は深々と頭を下げた。
(・・・・・ありがとうございます)
強い味方を得たような気がして、伊崎は内心深く息をつく。
「兄さんからのお小遣いは無しだけど、父さんからのは貰ってもいいんだよね?」
「おお、幾らでもやるぞ」
「親父!楓もっ、小遣いは誰からのも無しだからな!」
3人の親子の言い合いのようなじゃれあいの声が聞こえてくる。
伊崎はようやく全てが終わったのだと確信出来て、知らずに笑みが浮かんでくるのを止める事が出来なかった。
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