爆ぜる感情











 翌日、楓は一日中甘い脱力感に襲われていた。
日付が変わってからも伊崎の腕の中にいた楓は、本来なら学校も休みたいほどだった。
しかし、もしも楓がそうすると、伊崎は自重してあまり抱いてくれなくなるのは確実だ。
自分が淫乱とは思わないが、伊崎の腕の中を心地いいものとしている楓にとってはそれは避けたいことなので、なんと
か一日を過ごして下校時間になった。
 「楓、疲れたのなら送っていこうか?」
 金持ちの男子校であるこの学校には、当然送り迎えの車も来ている。
そんな同級生の言葉に内心溜め息をつきながらも、楓は全く顔に出さずに申し訳なさそうに眉を下げた。
 「大丈夫、迎えが来てるから」
 「大丈夫なのか?」
 「うん、心配してくれてありがと」
 にっこりと笑って言う楓に、目の前の取り巻き達はいっせいに慌てたように目を逸らした。
今日の楓は朝から気だるげで、伏せた眼差しがとても色っぽかった。
まだまだ純情な高校生の男達には目の毒で、楓はまた今日一日でファンを増やしてしまった形だ。
 「じゃあ、また明日ね」
 校門を出た楓の視線の先には、今の楓の守役、津山勇司(つやま ゆうじ)が静かに佇んでいた。
 「お疲れ様です」
 「ん」
労いの言葉に短く答えた楓だが、その頬に浮かんでいるのは作った笑顔ではなく自然なものだ。それが、楓が気を許し
ている者だけに向けられるものだということを知っている津山は、自身も無表情な顔に僅かな笑みを浮かべて出迎えた。



 「このまま真っ直ぐお帰りになりますか?」
 「うん。眠たい」
 そう言いながら欠伸をする楓を見つめていた津山は、不意に足を止めて楓の腕を掴むと自分の後ろに回した。
 「津山?」
津山の気配がいきなり氷のように冷たく、刃物のように鋭くなったのを感じ、楓はいったい何があったのかとその横顔を
見上げる。
しかし、津山はそれには答えず、じっと前方にきつい視線を向けたままだった。
 「・・・・・誰だ?」
 「え?」
 「Where do you go?」
記憶に新しい甘い声がし、楓の目が見開かれた。
 「!」
 いきなり・・・・・そう、いきなり音もなく現われたのは、昨夜会ったチャイニーズマフィア、香港伍合会のウォンだ。
 「Where do you go?」
 「・・・・・Excuse me,but I'm afraid I don't know you.」
 「・・・・・昨夜会ったばかりだというのに、もう私の顔を忘れましたか?」
もちろん、あれ程印象的で存在感のある男を忘れることはなかったが、楓はなぜ彼がここにいるのか・・・・・たちまち不
安になる気持ちを押し殺してそう言ったのだ。
そんな楓の強がりを見抜くように、ウォンは頬に僅かな笑みを浮かべる。
 「中国語は分からないと思いまして」
 「・・・・・日本語、お上手じゃないですか」
 「そうですか?」
 「・・・・・楓さん、昨夜の方ですか?」
 伊崎から注意は受けていたらしい津山が言うと、楓は頷きながら無意識に津山の服を掴む。
普段そんな態度を取らない楓に、津山の警戒心はますます強くなった。
 「申し訳ありませんが、外部組織の方との接触は遠慮させて頂いていますので」
 言葉は丁寧ながらも、はっきりとした拒絶を口にする津山に、ウォンはチラッと視線を流した。
 「誰にものを言っている」
 「・・・・・」
その言葉が合図かのように、3人の傍には黒のリムジンが横付けになった。
ウォンの後ろに数人、そして殺気には敏感なはずの津山も後ろを取られた形で数人、何時の間にか楓達はあまり表
情の無い男達に周りを囲まれてしまっていた。
 「昨夜はゆっくり話が出来なかったのでね」
 「・・・・・随分、乱暴な招待ですね」
 「楓さん」
 津山は楓がそれ以上直接ウォンと話すことを止めた。
どんな口調でも言葉でも、楓が話す度にウォンの笑みが深くなることに気付いたからだ。
彼は多分、手ごたえのある獲物を好む人種なのだろうととっさに判断したのだが、自分と楓の会話を止めた津山が目
障りなのか、ウォンが視線で合図を送ると、数人の男達が津山との間合いをつめて来た。
幾ら腕に覚えがある津山でも、楓を傍に置いてのこの人数に対する勝算はかなり低い。
その上、男達はただのチンピラなどではなく、かなりの訓練を受けているような隙のない動きで、津山が少しでも反撃し
ようとするのならば、直ぐにでも攻撃を仕掛けてくるだろうということは分かった。
 「・・・・・津山」
 そんな空気を感じたのか、楓は小さくその名を呼ぶ。
その不安を消し去るように、津山は何時もと変わらない口調で答えた。
 「大丈夫ですよ」



 ウォンは、狩人に追い詰められた獲物をじっと見つめていた。
(勝つはずが無いのに・・・・・)
組織の中でもある程度の地位にいるウォンには、かなり訓練を積んだガードが付いている。
彼らにとってはウォンの命令は絶対で、彼が一言言えば、目の前の少年についている男は一瞬の内に命を落とすだろ
う。
 ただ、異国の地であまり目立つことはしたくなかったし、第一それ程のことをしなくても、この少年は動くだろうということ
は予想が付いた。
 「食事を一緒にどうです?」
 「・・・・・中華は嫌い」
 「日本食でも構いませんよ」
 「・・・・・食事の後は?」
 「ご自宅までお送りしましょう」
淀みなく答えるその言葉は嘘ではない。
昨日は隙のない男に邪魔をされて、ほとんど楓と話すことが出来なかった。
本国で聞いた美しい人形の話。
しかし、その人形は想像していた以上に生き生きとした存在感で、素晴らしい美貌の主だった。
話してみたい・・・・・そんな強い思いを抱くほどに目の前の少年は魅力的で、ウォンはこうして自ら足を運んで楓を迎え
に来た。
それは異例なことなのだ。
 「・・・・・分かった」
 選択の余裕はなかったのだろう。
きっぱりと言い切った楓に、部下の男は焦ったような視線を向けた。
 「楓さんっ!」
 「直ぐにその物騒な男達を下がらせて。それと、この男は俺の守役だ。同席させて欲しい」
 「・・・・・仕方ありませんね」
 あからさまにホッとした表情で自分の部下を見つめる楓の横顔を見つめながら、ウォンは楽しい時間が過ごせそうだと
自分の手で車のドアを開けた。
 「どうぞ、小姐」