爆ぜる感情











 上杉と海藤の持っている情報は、伊崎が期待していたほどには多くなかった。
しかしそれは2人の収集能力のせいというよりも、香港伍合会自体の実態が今だ日本では広く知られていないからのよ
うだ。
協力関係を結ぼうとしている母体組織大東組も、その得体の知れなさに二の足を踏んでいるらしい。
 「ウォンは多分No.3くらいのはずだな。ボスの龍頭(ロンタウ)は外部の人間にはほとんど顔を知られていないようだし」
 「何かあったのか?」
 年齢的には伊崎よりも年下の海藤だが、組織の中での地位は上なので敬語は使わない。
しかし、その話し方や眼差しには相応の気遣いが感じられて、伊崎も素直に言葉を返すことが出来た。
 「楓さんに接触してきました」
 「・・・・・」
 「あの姫さんにか?」
上杉の表現に苦笑を零しながらも、伊崎は言葉を続けた。
 「奥田さんの座敷に同席してきました。その時楓さんが呼ばれて・・・・・」
 「偶然か?」
 「いえ、来ることは知っていたようです」
 「ん〜」
 上杉は日本酒を一口飲み、感心したように呟いた。
 「美人だからなあ、あの姫さんは」
 「上杉さん」
 「まあ、可愛さからいったらうちのタロの方がダントツだけどな」
 「・・・・・」
 「いや、これは冗談無しで、あっちじゃ人身売買や誘拐は珍しいことじゃない。それがヤクザの息子であっても、あれぐら
いの美人だったらかなりの高値がつくだろうしな」
 「言い過ぎですよ」
 「本当のことだ。それぐらい用心していた方がいい。少なくともウォンが帰国するまではな」
口が悪い上杉の言うことだから・・・・・と、言うわけではないが、伊崎も内心同じようなことを考えていた。
どれ程の金を払っても手に入れたいほどの魅力を楓は持っていると伊崎は思っている。
そんな人間の中で、実際に行動出来る人物は限られるが・・・・・。
(ウォンは・・・・・あいつは出来る)
 「・・・・・なんかあったら言って来いよ、伊崎。1人で突っ走るな」
 「上杉会長」
 「お前にとってはあの姫さんは宝だろうが、俺の大事な奴にとってもいい友達らしいからな」
 「・・・・・」
 「それに、最近戦争がなくて平和ボケしてる組の奴らにとっちゃいい運動になる。なあ、海藤」
 「・・・・・戦争は出来るだけ避けた方がいいとは思いますが・・・・・とにかく、俺達がいることを忘れないでほしい」
 「・・・・・ありがとうございます」
温かな2人の言葉に、伊崎は深々と頭を下げた。



 朝出かけた時よりは随分と気持ちが軽くなって帰ってきた伊崎は、先に戻っていた組長の雅行に上杉と海藤の言葉を
伝えた。
心強いと喜んだ雅行と今日の本部での出来事を話し合い、既に夕刻となっていたのでこのままあがっていいと言われた
伊崎が一端事務所に戻ると、まだ残っていた古株の幹部、河本に呼び止められた。
 「若頭」
 「・・・・・河本さん、その呼び方は止めてください」
 自分よりも何十年も前から日向組と歩んできた河本に敬称で呼ばれるのは今だ慣れない。
しかし、河本は苦笑を零しながら言った。
 「俺が言わなきゃ示しがつかんだろうが」
 「・・・・・」
 「それよりも、坊っちゃんがお前を捜してたぞ」
 「楓さんが?」
 「別に用は無いとは言っていたが、何時も元気な坊っちゃんが珍しく大人しくてな。何かあったのか?」
楓が生まれる前からこの世界に入っている河本は、もちろん楓が生まれた時から傍にいる。
回りから見れば天使のような楓も悪魔のような楓も、河本にすれば楓という個性を持つ大切な存在にかわりがないのだ。
 「・・・・・特に、何かとは」
 「そうか、それならいいが」
 香港伍合会の事は、まだ伊崎と雅行しか知らない。
言葉の足りない情報で組員が後先考えないで暴走するのを避けることもあるが、それ以上にチャイニーズマフィアと聞い
て恐怖を覚えさせない為だ。
 「早く行ってやれ」
 「はい」
自分がいない間になにかあったのか。
伊崎は険しい表情になって楓の部屋に急いだ。



 「入りますよ」
 何時ものように丁寧に一声掛けた伊崎が部屋の中に入ってくる。
それまでベットに無造作に寝転がっていた楓は、慌てて掛け布団の中に潜り込んだ。
 「楓さん?」
 「・・・・・」
 「どうされたんですか?河本も楓さんが元気がないようだと言っていましたが」
 「・・・・・」
 「楓さん」
 楓は拗ねていた。
自分には家から出るなと言ったくせに、自分は自由に出入りしている伊崎が面白くなかった。
もちろん、伊崎のその言葉が自分の事を思って言ってくれているとは分かるものの、感情では・・・・・割り切れないのだ。
 「恭祐」
 「はい」
 「俺は・・・・・何時まで逃げていればいいんだ」
 「・・・・・っ」
 「こんな風に逃げていて、それで全て解決するのか?」
 楓も、ウォンのことを怖いと感じている。日本とは違うあの空気が、ジワジワと少しずつ心臓を冷やされているような感じ
だからだ。
それは、額に銃を押し付けられているような緊張感とも似ているかもしれない。
(でも、だからって、何で俺の方が逃げるんだよっ)
本来、消極的な対応が苦手な楓は、伊崎のとっている対応がじれったくて仕方がない。
(・・・・・っ)
 楓はガバッと掛け布団を跳ね除けた。
そして、直ぐ目の前に立っていた伊崎のネクタイを引っ張ると、自分の目線に合わせて言い放った。
 「俺っ、あいつに会う!」
 「楓さんっ」
 「だって、変だろ?どうして俺が隠れなきゃいけないわけっ?」
 「それは説明したでしょう」
 「恭祐の説明は聞いたし、言っていることも分かってる!兄さんが心配してくれていることも!でも、やっぱり納得出来な
いんだよ!」
 面と向かって言われたのだ。相手が自分を・・・・・と、いうより、自分の顔と身体を欲しがっていることは良く分かった。
(そんなのっ、人形だって構わないじゃん!)
自分の性格がパーフェクトだとは思っていないが、この性格と容姿が一つになって自分という人間だ。
それを否定されたようで、始めは薄気味悪さや得体の知れない怖さで心細かった楓は、伊崎がいない日中ずっと考えて
いるうちに・・・・・やがてそれは怒りに代わっていったのだ。