爆ぜる感情
9
夕飯を済ませた伊崎は、再び事務所に戻ると、溜まっていた雑用を片付け始めた。
ヤクザ家業といっても、人を脅したり、縄張り内で店をしている所から場所代を取ったりと、昔ながらの収入源だけでは
立ち行かなくなっていた。
僅かながら持っている不動産の管理や、最近収入面でかなりの利益率がある株の売買など、組長である雅行のとこ
ろまで上げないような決済のものが多くあるのだ。
「・・・・・」
しかし、伊崎の仕事の能率は少しも上がらなかった。
視線はパソコンの画面に向いているものの、頭の中では全く別のことを考えているからだ。
(・・・・・本当に納得してくれたんだろうか)
夕食の時、楓は普通だった。
朝、学校に出掛ける瞬間まで不機嫌そうにしていたはずの楓が、戻ってくると機嫌が直っていたのだ。
それに、夕食の後部屋を訪ねると言うと、
「いいよ。お前も忙しいんだろ」
にっこりと笑って言った言葉。
あまりに聞きわけがいいだけに、返って不安になってしまった。
津山の報告では学校の行き帰りには特に何も無かったということだが、校舎内でのことはさすがに全てを把握すること
は出来ない。
もしかしたら・・・・・。
「・・・・・」
妙な胸騒ぎを感じた伊崎は、立ち上がって母屋に向かった。
「風呂」
「はい」
それより少し前。
楓は津山にそう言うと、小さな銭湯ほどもある風呂場に入っていった。
家族用にはもう一つ内風呂があるのだが、楓は昔から大きな風呂が好きで、他の組員達が入っていても構わずに入っ
ていた。
最近、やっと伊崎の注進が効いて、人が入っている時は入らないようにしていたが、今日は幸運にも楓が一番最初のよ
うだった。
(・・・・・大丈夫だな)
もちろん、津山が中に入ってくるはずが無いことは分かっている。
楓は服を着たまま洗い場の中に入っていった。
「・・・・・よし」
元々住み込みの組員ではない津山は知らないのだろうが、この風呂場の窓は一見全てはめ込み式のものに見える
が、1つだけ内側から開けられるようになっているのだ。それは急な襲撃を受けた時用にと、楓の祖父に当たる3代目
日向組組長が作ったらしい。
ただ、最近は命の危険を感じるような抗争は無いので、多分・・・・・この仕掛けを覚えているものは少ないかもしれな
いが。
幼い頃からこの風呂が好きだった楓はそのことをよく覚えており、中学生になってからは夜遊びの時の脱出用にとよく
使っていた。
(恭祐だったらばれるかも知れないけど、津山なら大丈夫だよな)
「とにかく、会わないと」
楓は、伊崎との約束を破るつもりは無かった。
確かに理不尽だと感じたものの、それでも大好きな恋人に心配を掛けるわけにはいかないと、ムズムズしながらも気持
ちを抑えていたのだ。
しかし・・・・・。
「・・・・・あ」
学校から帰って、部屋で着替えようとした時に掛かってきた電話。
多分、牧村の遊びの催促だろうと番号も見ずに携帯に出た楓は、思い掛けない声をその耳で聞いた。
『学校は終わったようですね』
「!」
日本人とは少しイントネーションが異なる、それでも十分に綺麗な発音の声。
艶っぽい響きとわざとらしい敬語に、携帯を握り締める楓の指は真っ白になるほど力が入ってしまった。
「・・・・・どうしてこの番号を・・・・・」
『私に分からないものなどないのですよ』
「・・・・・」
『少し、驚かせてしまいましたか』
「別に・・・・・それより、わざわざ番号を調べて電話を掛けてくるなんて何の用?ウォンさん」
『邪魔がいない所で、あなたとゆっくり話がしたい』
いきなり掛かってきたウォンからの電話に、楓は背中がゾクッとするほどの戦慄を覚えた。
確かに、何とか調べれば、楓の携帯の番号は分かるかもしれない。
たた、そこまでしてわざわざ連絡を取ろうとする相手の真意が分からなかった。
(まさか本当に俺を・・・・・まさか・・・・・)
『楓、あなたに会いたいのですけど』
「・・・・・何の為に?」
『・・・・・何も無い為に』
「・・・・・」
(うちに何か仕掛けるつもりか・・・・・?)
たった1人の人間の為に、チャイニーズマフィアがわざわざ出向いてくるとは思えないが、そこまでするほどにウォンは自分
に対して何か思うことがあるのだろう。
楓としても、このまま何時までかも分からない時間を隠れて過ごすなど真っ平だ。
「いいよ」
つい先ほどまでは、伊崎の為に大人しくしていようと思っていた。
しかし、この瞬間に、伊崎の為に何かをしようと思い直す。
「どうすればいい?」
『出られるんですか』
「・・・・・大丈夫だ」
誰にも知られず屋敷から出ることは案外に難しい。
特に今はウォンの存在もあってか、津山の警戒はマックスになっている。
しかし、それでも絶対に無理ではないと思った楓は、最近使っていなかった脱出方法・・・・・風呂場からの脱出を試み
ることにした。
とにかく屋敷の外へ出れば、向こうが車を用意しているらしい。
(もう、後戻り出来ない)
楓は振り返って、脱衣所の向こうを伺う。
物音はしない。
(大人しく・・・・・待ってるよな)
楓はもう一度風呂の中に入ると、一番端の窓の付け根に沿って指を動かしてみた。何回か触っていると、指先に周
りとは違う感触が当たる。
「・・・・・これだ」
はめ込まれた木の釘のようなものを引き抜くと、丁度1メートル四方の窓が少し音をたてながら開いた。
「・・・・・っし」
(ごめん、津山っ)
守ってくれている津山を出し抜く形になってしまうが、相手は楓だけを指名してきている。
子供のように誰かについてきてもらうことなど、楓のプライドが許さなかった。
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