必定の兆し













 倉橋は直ぐに自分の部屋に戻ると、そのままパソコンのキーに指を滑らせ始めた。
宇佐見の身辺・・・・・それが普通の会社員ならばともかく、警察関係者、それもキャリアと呼ばれる人間の動向はそう簡単には分
からない。
(前回の報告では変わったことはないとのことだったが・・・・・)
 海藤とは浅からぬ因縁を持つ宇佐見のことを、倉橋は定期的に知らべさせ、報告を受けてきた。
海藤自身は放っておいていいという考えらしいが、宇佐見の仕事柄、きちんとその動向を確認しておきたかった倉橋は、命令され
ないままに自分が行動していた。
 その報告では、特に変化はないとのことだったのだが、今日真琴に会いにやって来たということは、この数週間で宇佐見の周りで
何か変化があったということだろう。
 「・・・・・」
 警視庁内部の機密資料があるデーターベースに入り込んだが(ハッキングだ)、そこにはこれといったことはないようだ。
組犯の三課か・・・・・)
検事時代のコネを使えば、もしかしたら・・・・・しかし、出来るだけこちらが動いているということは知られたくなかった。どうすればいい
のかと考えていた倉橋は、無遠慮に開いたドアの方を向いた。
 「ノックくらいしてください」
 「いいじゃない。ここに勝手に入るのは社長と私くらいなんだし」
 「社長はきちんとノックをしてくれます」
 「そうかも。真面目な人だしね〜」
 笑いながらデスクに近付いてくる男・・・・・綾辻は、そこに手を付くと身を乗り出してきた。
間近になる華やかな容貌・・・・・倉橋は無意識の内に視線だけを逸らしたが、綾辻は笑ったままその態度については何も言わず、
真琴の話は何だったのかと聞いてきた。
 「・・・・・」
 「私に言えないこと?」
 「・・・・・そんなことはありませんが・・・・・」
 「じゃあ、言って」
 「・・・・・」
 倉橋が躊躇うのは綾辻を信頼していないということではない。いや、この男の人脈を使えば、もしかしたら今知りたい情報が手に
入るかもしれない。
ただ・・・・・倉橋は、何に対しても綾辻に頼ってしまうことが嫌だった。自分1人でも十分に動くことが出来るし、結果だって出せる
はずで、それなのに・・・・・。
(結局、最後はこの人に頼ってしまうなんて・・・・・)
 「分かってるから、克己」
 「・・・・・え?」
 「ほんのちょっとだけ、手伝わせて」
 「・・・・・」
(・・・・・全て、分かっているんだろうな・・・・・)
 自分が簡単に頷かない理由を、この敏い男はきっと分かっているのだろうが、強制することもなく、宥めることもなく、かえって自分
が我が儘を言うのだと甘えるように言ってくること自体が自分を気遣っているのが分かって、倉橋は話さない自分の方がよほど子供
だと落ち込んでしまった。
 しかし、もちろん自分の感情だけで今回のことを考えてはならないということは分かっている。全ては海藤のために、彼の良い方に
向かうために動くことが一番大切なので、倉橋は一度目を閉じた後、様々に渦巻く自分の気持ちを全て押し殺して、真っ直ぐに
綾辻に視線を向けた。
 「宇佐見のことです」
 「宇佐見・・・・・って、あの?」
綾辻が聞き返し、倉橋は顎を引いて肯定した。




(海藤さんに迷惑掛けちゃったな・・・・・)
 仕事中の海藤の手を止めさせたことが申し訳なくて、真琴はソファの上で小さくなって座っていた。
ヤクザの仕事・・・・・それは普通の人からすれば怪しいものに思うかもしれないが、海藤の率いる開成会は表の企業としてもきち
んと機能していて、通常の業務ももちろんある。
 国内だけではなく、国外とも取引があるようで、振り分けている仕事も最終的には海藤が全て確認をするので、彼の忙しさはか
なりのものだ。
 何時もは仕事をし過ぎの海藤の身体を心配している自分が、逆に問題を持ってきてどうするのだと後悔しても、もしかして今回
のことが後で問題になったらと思うと、やはり今のうちに言っておいて正解だと思う。
(でも・・・・・)
 「真琴」
 「・・・・・えっ?」
 いきなり名前を呼ばれた真琴が慌てて顔を上げると、仕事をしているとばかり思っていた海藤の視線が自分に向けられていた。
真琴に対しては何時も優しい眼差しが、今は困ったように自分に向けられている。
 「悪いな、退屈だろう」
 「う、ううんっ、全然っ」
 「後1時間・・・・・いや、30分くらいすれば一段落付く。そうしたらマンションまで送ろう」
 「い、いいですよっ、わざわざ仕事を止めてまでなんてっ」
 まだ夕方にもなっていない時間だ。海老原もいてくれるし、このまま帰ることは出来ると真琴は訴えるが、海藤は苦笑しながら言
葉を続けた。
 「俺がそうしたいんだ」
 「海藤さん・・・・・」
 「それとも、下で待っているか?夕食をどこかで・・・・・」
 「あのっ、俺、作ろうと思って!」
 「え?」
 「今日はバイトもないから、夕食作ろうと思ってたんです。だから、俺、先に帰りますね。俺を送ってくれて、また戻ってきたりしたら
時間が掛かるでしょう?その分、早く仕事を終えて帰ってきて下さい」
 真琴の言葉を最後まで聞いていた海藤は、少し頬を綻ばせた。普段が整い過ぎて冷たい容貌の海藤の表情は、こんな僅かの
変化だけでもとてもよく分かる。
それだけ、真琴は海藤を見てきたし、海藤も真琴に素の表情を見せてくれているのだろう。
 「・・・・・分かった。何を作ってくれるか楽しみだな」
 「あ、あんまり、期待しないでくださいね」
 海藤を唸らせるほどの美味しい料理を作る自信はないものの、温かい食事を愛情たっぷりに出すことは出来るだろう。
(急いで、メニュー考えないとっ)
ようやく、真琴の頭の中は、海藤のことだけでいっぱいになった。




 海老原に寄って貰ったスーパーは、海藤お墨付きの新鮮で美味しい物が揃っている店だ。ただ、金額面に関してはやはり真琴
の感覚からすれば高いのだが、そこはもうこちらが折れるしかないだろう。
 そこで、車の中で考えたメニューに必要な材料を買った真琴は、そのままマンションに帰ることにしたが・・・・・。
 「あ!」
 「どうしました?」
いきなり叫んだ真琴に、海老原は訊ねた。
 「ショウガ忘れた!」
 「ショウガ?」
 「今日、餃子にしようと思ったんですよっ。隠し味のショウガ、多分、冷蔵庫にはなかったような・・・・・」
 「引き返しますか?」
 海老原は直ぐにそう言ってくれたが、たかがそれくらいで今の店に戻ってもらうのは申し訳ないと思う。
窓の外に視線を向けた真琴は、ちょうどその辺りが自分のバイト先の近所だということに気がついた。この辺りならばどんな店がある
のか直ぐに分かる。
 「少し、待っててもらっていいですか?」
 「じゃあ、車を停めて俺も一緒に」
 「すぐ近くに小さな商店街があるんですよ。そこに八百屋さんがあるから、10分も掛からないで戻ってきますから」
 「真琴さん」
 「ホントに、直ぐです」
 真琴が重ねて言うと、海老原は溜め息をついた。
 「10分以上経ったら、携帯に連絡しますから」
 「・・・・・はい」
(何だか、兄ちゃん達みたい)
自分を心配してくれる言動が兄のように思えて少しくすぐったく思いながら、真琴は車を停めてくれた海老原に簡単に店の場所を
教えると、そのままドアを開けて外へと出た。




 「あれ、マコちゃん、バイト前?」
 「ううん、今日はお休み。おじさん、ショウガ1つ」
 「はいよっ」
 高級なスーパーとは違い、綺麗に包装されてはいないものの、それでも十分新鮮で美味しいということを知っている。
(一応、国産だし)
愛想の良い八百屋の店主からショウガを受け取った真琴は、直ぐに海老原の待つ車へと急いだ。路上駐車をしているということも
気になったし、後数分で10分が経ってしまう。
(携帯で確認なんて、小学生みたいだよ)
 平日の昼間だが、夏休みなので子供が多い。
行き交う自転車や、買い物中の主婦らしき集団を避けながら小走りに走っていた真琴だが、

 キキーーッ

 「あっ」
 ちょうどやってきた子供の自転車を上手く避けたと思った時、
 「うわっ」
 「え?」
背中が何かにぶつかってしまい、慌てて振り向いた真琴は、自分が尻で突き飛ばしてしまったらしい青年がその場に尻餅をついて
しまったのを見た。
 「ごっ、ごめんなさい!」
 「い、いや」
 ぶつかったのは、真琴よりも少し年上・・・・・らしい男だ。らしいというのは、大学生と言われても頷けるような、いわゆる自分と同
じ童顔の相手だったからだ。
身長もさほど変わらない相手が立つのに手を貸した真琴は、落ちていた眼鏡も拾い上げる。どうやら割れていないことにホッと安堵
して差し出した。
 「ありがとう」
 ぶつかってしまったとはいえ、情けなく尻餅をついてしまったのが恥ずかしかったのか、相手は眼鏡を掛けながら照れたように笑って
いる。
その表情が険悪ではなかったことに安堵した真琴は、改めて相手に頭を下げた。
 「本当にごめんなさい」
 「君のせいじゃないよ。ちょっと生徒を見掛けた気がして、俺もそっちに注意が行ってたから」
 「・・・・・生徒?」
 「こっちこそ悪かった、ごめんな?」
 そう言って、男はじゃあとその場を立ち去っていく。
(生徒って・・・・・先生?)
とても教師には見えないが、そうだとしたら自分よりも年上なのは確かだ。そうすると、今更ながら敬語じゃなかったことに慌ててしま
うが、彼はそんなことは全く気にしない感じだ。
(なんだか、子供と一緒に運動場を走ってそう・・・・・)
きっと、いい小学校の先生なんだろうなと、真琴は何だか微笑ましく思ってしまったが、
 「・・・・・あっ」
 その時、携帯が鳴った。
約束の時間を過ぎてしまっていたことにやっと気付いた真琴は、慌てて電話に出ながら直ぐに戻りますと伝えた。