必定の兆し




10








 警視庁の食堂入口。
正午5分前に宇佐見はやってくると、人波から少し離れた場所に立っていた。
昨今の不景気は公務員である警察の人間にも及んでいるようで、弁当を持参してくる者や社員食堂を利用する者は最近増え
てきている。
 管理職、職員、現場の人間。様々な人間が出入りするこの場所は、もしかしたら警視庁の中でも一番危険な場所かもしれ
ないが・・・・・ここではないと駄目なことと、基本的に宇佐見は海藤の実力を不本意ながらも認めているので、絶対に見咎められ
ることは無いだろうと思っていた。
 「・・・・・」
 時間は、正午2分前だ。
時間厳守だと言った自分の言葉を破るとは思わないが、1秒でも過ぎたら自分はここを離れるつもりだった。ヤクザの男を警察内
部にまで引き込もうとしている自分も、かなり危ない橋を渡っているのだ。
(・・・・・この時点で、公明正大とは言えないかもしれないな)
 「・・・・・」
 1分前になった。
まだ来ないのだろうか・・・・・昼時になってさらに混み始めた廊下に視線を向けた宇佐見は、ふと違和感を感じて目を眇めた。
(あれ、は・・・・・)
 自分の横を通り過ぎる数多くの人間。自分の課や、管理職といわれる者達以外、全ての人間の顔を覚えているとは言い切れ
ないし、視界の中にいる人物は確かに知った顔のはずだ。それなのに・・・・・。
 「やあ、宇佐見」
 「・・・・・富山」
 「今から昼なら一緒にどうだ?」
 馴染みのある笑み。聞き覚えのある話し方。
ただ・・・・・僅かに、声音が違う。
身長も、少し高い。
 「富山」
 「12時ちょうどだ。約束通りだな」
 「・・・・・っ」
(海藤っ!)
 宇佐見は目の前にいる同期の顔を・・・・・いや、同期に扮して、堂々と警視庁の中を歩いてきた海藤を見て、予期していた以
上の驚きを感じていた。




 宇佐見の同期で、組織犯罪対策第五課に所属する富山。
第五課は銃器や薬物対策を主にしている部署だが、それらを取り扱うということは暴力団との関係も他の部署よりも濃密だとい
えた。
 利口な人間は暴力団と手を組み、美味しい思いをしているが、馬鹿になると自身が薬物に溺れる者もいる。
富山は薬はやっていないが、暴力団の女に手を出していた。どうしたらいいのかと夜の街でふらついていたところを声を掛けたのが
綾辻だった。
 当時は、宇佐見のことなど関係なく、警視庁内部に子飼いは何匹いてもいいというくらいの思いで問題を処理してやったらしい
が、今回の海藤の警視庁への侵入にちょうどいいと、この男の名前と姿を利用することにしたのだ。
 背格好はほぼ一緒だが、富山の方が海藤よりも体格がいいので、それは重ね着で補った。
顔は、これも綾辻の知り合いである特殊メイク専門の人間に富山と似せてメイクをさせた。
 元々、暴力団の内部に潜り込んで麻薬の調査をすることも多いので、この部署の人間は外部にそれほど顔を知られてはいな
い。
後は、話し方を海藤自身が練習して、こうやって堂々と敵方に乗り込んできたのだ。

 「・・・・・」
 「・・・・・」
 食堂の壁際の奥の席に座り、それぞれテーブルの前にはカレーを乗せて黙々と食事をする。
海藤は宇佐見を急かせることはしなかったし、宇佐見も海藤の姿に何も言わなかったが・・・・・一瞬、自分の胸に下げているIDカ
ードに視線を走らせ、
 「・・・・・馬鹿が」
小さくそう呟いていた。
多分、このカードが本物で、だとすれば、富山がこちら側についているということも直ぐに分かったのだろう。潔癖なこの男らしい言葉
だが、利用出来るものを利用することに海藤は躊躇いは無い。
第一、選択してこちら側に来たのは男の意思だ。
 「・・・・・この後、暇か」
 「少しな」
 「じゃあ、俺の部屋に来てくれ。この間頼まれていた資料、渡しておく」
 「・・・・・分かった」
そこまで話した2人は、再び黙って食事を進めた。




 同期に扮した海藤を見た瞬間は衝撃を覚えたが、次に胸を襲ったのは富山への憤りと、悔しさだった。
警察と、ヤクザ。相反する関係だが、言い換えれば直ぐ後ろにその存在があるといってもいい。だからこそ、自分をしっかり持たなけ
ればと思うのに・・・・・富山は自分から下りてしまった。
 宇佐見が告発をすれば、きっと富山はキャリアの道から脱落する。いや、最悪免職ということになるだろうが、宇佐見は自分から
それを言うつもりは無かった。自分で気付かなければ、人は更正出来ないと信じているからだ。
 「行こうか」
 「ああ」
 多少の違和感を感じるのは、宇佐見がこの富山と同期でよく知っているからで、普通ならば全く気付かないかもしれない。
食堂の中でも何人かに声を掛けられていたが、それにも迷うことなく答える様は本当に本人で、宇佐見は自分の方が間違ってい
るのかとさえ思うくらいだが・・・・・。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 何時もの、切れるような気配を見事に隠しているとはいえ、すぐ隣を歩く宇佐見には隠し切れない海藤の圧倒的な雰囲気は
感じ取ることが出来る。
(こいつは海藤だ、間違いが無い)
 宇佐見は軽く目を閉じて、意識を切り替えた。
この男は自分との約束通り、開成会の海藤と分からない格好で自分の前に来ただけだ。後は自分も、海藤に伝えるべきことを伝
えたらいいだけだった。
 「こっちだ」
 宇佐見は自分のオフィスに入ると、そのまま背広の胸元から封書を出した。
数日前、上司宛に届いたものだ。
 「・・・・・」
 黙って受け取った海藤は、その文章を見ている。表情に変化が無いのは、扮装のためかは分からないが、それでと促す声に少し
の動揺の気配も無かった。
 「それはコピーだ。お前に渡しておく」
 「分かった」
 「次はこっちだ」
 オフィスから出た宇佐見は、海藤と並んで歩きながら声を落として言った。
 「今から行くのは喫煙ルームだ。臙脂色のネクタイをした男が居るはずだ。外部にもあまり顔は知られていないが、俺の直属の上
司で、多分・・・・・今回のことに噛んでいると思う」
 「俺に売るのか?」
 「・・・・・真琴の安全を考えてやってくれ」
警察という名前だけで、海藤よりも遥かに優位な上司。しかし、やっていることはそこらのチンピラよりも性質が悪いと思っている。
 いずれは自分が正当な手段で引きずり下ろしてやるつもりだったが、その前に真琴に手出しされでもしたら・・・・・多分、宇佐見
は一生後悔すると思った。
 真琴の安全を考えるためならば、ヤクザに与したと陰口を叩かれても構わない・・・・・それほどの決意をして、宇佐見は海藤をこ
の警視庁に呼んだのだ。




 「課長もいらっしゃったんですか」
 「ああ、君も一休みか」
 喫煙ルームには3人の男がいた。
宇佐見が話しかけたのはその中で一番年配の男で、少し痩せぎすの、狡猾そうな男だった。
(これが宇佐見の・・・・・)
 「ん?彼は・・・・・誰だったかな」
 「私の同期で、五課の富山です」
 「ああ、五課か。しっかりな」
 「ありがとうございます」
 海藤は頭を下げた。よく顔を見ないまま、口だけで挨拶をしているこの男は、きっと自分の利益にならない相手の顔を覚えること
も無いのだろう。
 宇佐見が姿を現したからというわけではないだろうが、中にいた2人が早々に出て行く。それぞれが男に対して頭を下げていると
いうことは、彼らも目の前の男の部下なのかも知れない。
 「ところで、宇佐見」
 男はちらっと海藤を見る。その様子に、海藤は煙草に火をつけながら、さりげなく2人から離れてみせた。それを確認して、男は
声を落として宇佐見に話し掛けている。
 「例のことだが、あれから何もないのか?」
 「・・・・・ご心配をお掛けしましたが、今のところは」
 「本当か?」
 「はい」
 「・・・・・まあ、何かあったら何時でも私のところに来なさい。娘も君の顔が見たいと言っている。いい男っていうのは羨ましいよ」
 まるで、宇佐見が顔しかとりえが無いと言っているような口振りに聞こえたが、海藤はそこに別の卑屈な響きを感じ取っていた。
宇佐見は家柄もよく、姿形もいい。その上、頭も良いとなると、男は憧れというよりも嫉妬の感情の方を覚えるのだろう。目の前の
この男も、宇佐見を自分の支配下に置くことによって、自分が宇佐見よりも上だと見せ付けている。
 「じゃあ、私は先に失礼する」
 自分の言いたいことを言ったのか、男は喫煙ルームを出て行く。
宇佐見と共に頭を下げてその姿を見送った海藤は、再び顔を上げると宇佐見の顔を見た。
 「今のか」
 「・・・・・多分、どこかの組織と繋がっている」
 「・・・・・」
 「今、内定をしている段階で、近いうちにあいつは懲戒免職になるはずだ。証拠隠滅をさせないためにもギリギリまで泳がしておく
つもりだったが・・・・・キレると何をするか分からない」
 宇佐見の言葉は海藤も納得出来るものだった。無駄に地位や権力がある者が、その座から滑り落ちてしまうと何をするかは分
からない。
そして、それは海藤にも降りかかってくる問題かもしれず・・・・・。
 「繋がっている組を探しておこう」
 「・・・・・」
 「・・・・・今回はすまなかったな」
 多分、真琴のために動いてくれたであろう宇佐見に頭を下げると、そんな海藤の行動が意外だったのか宇佐見は一瞬目を見張
る。しかし、直ぐにその表情を消して、早く消えろと言い捨てた。
 「富山を知っている奴がいたら厄介だ」
 「分かった」
 「・・・・・海藤」
 「・・・・・」
 「馬鹿な奴に裏を掛かれないようにしろ」
 言った後、言うのではなかったというように眉根を寄せる宇佐見に、海藤は思わず微苦笑を浮かべてしまう。
こんなことを言うような人間ではない宇佐見がそう言ったのは明らかに真琴の影響で・・・・・自分はそのおこぼれの感情を貰ってい
るだけなのかもしれないが。
 「・・・・・そうしよう」
 海藤は短くそう言って喫煙ルームから出た。
今は一刻も早く宇佐見のくれた情報を整理し、解決しなければならなかった。