必定の兆し
9
翌日の午前中、綾辻は期限より少し早く海藤に報告にやってきた。もちろん、その報告は前回の補足という以上に、新たな事
実を指し示すものだった。
「うさちゃんの周りにうろついている八塚組の尾高組長の後ろ盾は、大東組の幹部の1人です。小物ですし、気にするほどでは
ないとは思いますが、その人物の口利きで組を立ち上げたみたいですよ」
「前身は?ホスト以外に何かしていたのか?」
「い〜え。全く経験無し。だから、この世界の常識とかしきたりとかも分からないことが多いみたいで、古参の組長さん達からは煙
たがられてるみたいですが・・・・・ここまでのし上がってきたんですから、当人の心臓はかなり強いんじゃないですか?」
「・・・・・」
少し前ならば、全くの素人が組を立ち上げるなどとても考えられなかったことだ。昨今の不景気のせいでこの世界も人間が余り
気味で、その引き取り先として新しい組を立ち上げさせたということも考えられるが、そこにはある程度の金が掛かるはずだ。
(それを用意したのは誰だ・・・・・?)
「尾高と高橋の関係は?」
「それはまだはっきりしていなくて・・・・・ここからは私の想像なんですけど」
「言ってみろ」
「尾高のホスト時代、川辺アンナがよく通っていたみたいで」
「・・・・・弘中の妹か」
「女を挟んで仲良くなんて、ありうるかなとは思うんですけどね」
「・・・・・」
アンナが高橋の愛人の1人というだけだったとしても、向上心の強かったあの男は面子を重んじるタイプだ。自分の女が入れあげ
ているホストと手を組むとは普通に考えていたらありえない。
ただし、高橋はきっと海藤に相当な恨みを抱いているはずなので、それを晴らすためにはどんな手段でも講じようとする可能性は
ゼロではないだろう。
(俺だけにならともかく、真琴にまで手を出すのは許せない)
今は何の力も無い高橋が、真琴や、それこそ警察に勤めている宇佐見の携帯ナンバーやアドレスを手に入れることは困難だろ
う。明らかにそこには第三者がいるはずだ。
(それも、俺に含みがある人間・・・・・)
「社長」
「一応、真琴の実家も目を配っていてくれ」
「ええ。夕べの真ちゃんが帰宅する時から付けています。まさかあんな素人さんに手を出すとは思えませんが、馬鹿は馬鹿なこと
を考えますからね」
「・・・・・俺と関係しなかったら、こんな危険など無かっただろうがな」
自嘲の笑みを浮かべてしまう海藤に、綾辻は変な慰めの言葉を言わない。海藤自身、甘やかしてくれる言葉を求めているわけ
ではなかった。
「・・・・・綾辻、例の準備は出来ているか?」
「下で待たせてあります。呼びます?」
「ああ、頼む。もう時間はないからな」
今日の正午、義弟である宇佐見に会いに警視庁にまで行かなければならない。海藤本人が、海藤だとばれないように・・・・・そ
れが宇佐見の出した条件だった。
電話を取って、下の事務所に内線を掛ける綾辻の姿を見ながら、海藤は眼鏡を外し、ネクタイを緩めて、スーツの上着を脱い
だ。
「ありがとうございましたー!」
夏休みなので、今日は開店時から夕方までのシフトに入っている真琴は、たて続けにテイクアウトをしていった最後の客を見送っ
てホッと息をついた。
昼時、これから忙しいのは、厨房と配達の人間であるが、もちろんカウンター担当の真琴も忙しい。それでも、昼から来る同じバ
イトの人間が早めに来てくれて、一休みしろと言ってくれた。
「マコ、休憩に入れよ」
「はい!」
休憩室には自分しかおらず、真琴は店から入れて持ってきたジュースの紙コップをテーブルに置いて椅子に座った。
「・・・・・」
15分ほどの休憩の間、真琴はふと思い出して携帯を取り出してメールを開けた。そこには今朝真哉から届いたメールがある。
シューズを買ってやった真琴への礼と、食事をご馳走してくれた海藤への礼。そして、お盆には帰ってくるようにとの誘いが、真哉ら
しい言葉で書かれてある。
「・・・・・」
真琴は思わず頬を緩めた。自分へはともかく、海藤にきちんと礼を言ったことが嬉しくて、今朝海藤が会社に行く前にそれを見せ
た。海藤も、嬉しそうに笑っていた。
「・・・・・お盆は、海藤さんも一緒に帰りたいな〜」
自分が実家に帰ってしまえば、あの広いマンションの中に海藤は1人になってしまう。子供のように寂しいと言葉や態度で言わな
いだろうが、その姿を想像する自分自身が寂しく感じるのだ。
「あ、綾辻さんとか連れて行ったら、母さんも喜ぶかも」
絶対にそうしようと真琴が携帯を閉じようとした時だった。
「!」
いきなり震えた(バイト中はバイブ機能にしている)携帯に、思わずビクッと手が震える。
「・・・・・」
液晶に出た非通知の番号。
「いいか、分からない電話には出なくていいし、メールも開けるな」
海藤の忠告が頭の中に蘇るものの、なかなか鳴り止まないそれを見ていると、なんだか出ろと急きたてられている気分になってしま
う。
(何かあるわけ・・・・・ない、よな)
ここはバイト先で、ドア1枚隔てた向こうには仲間が大勢いる。ここで電話に出ても何かあるわけではないと、真琴は思い切って
通話ボタンを押した。
「・・・・・はい」
『今日はバイトの日か。何時もより早いんじゃないか?』
「・・・・・っ」
(見られてるっ?)
真琴は思わず顔を上げて周りを見たが、もちろんそこには自分以外の人間はいない。
「だ、誰ですか」
答えてくれないとは思うものの、真琴は電話の向こうの人物に向かって言った。
「俺に、何の用ですかっ?」
『・・・・・今外に出てくれば、会えるかもしれないぞ』
「外?」
『出てこれるか?』
もちろん、駄目だと言わなければならないことは分かっている。自分が勝手な行動をすれば、それだけで海藤の迷惑になることは
十分想像出来たが、真琴はこのまま一方的に脅かされ、怯えていることがいいとも思わなかった。
裏口から外に出た真琴は、そのままキョロキョロと辺りを見回した。
「・・・・・どこですか?」
『表通り』
電話の向こうの声は脅かすこともなく、どちらかといえばからかうような軽い感じの声で、真琴にとっては違和感を感じるものだった。
「・・・・・」
休憩時間は後10分だ。何時もは少し早めに店に戻る真琴が、時間内に姿を現さなければ店の人間はおかしいと思ってくれる
はずだ。
(大丈夫・・・・・ここからは離れないように・・・・・)
夏休みの昼間、車も人通りも多く、中にはバイト先の制服を着ている真琴をチラッと見る者もいた。車道の端には路駐をしてい
る車も多い。まさかその中に・・・・・そう思って覗き込もうとした真琴は、
「!」
いきなり後ろからポンッと肩を叩かれ、反射的に振り返った。
そこにいたのは3人の男だ。
『ヤクザの女をしている割には、男らしいなあ』
電話越しに聞こえてくる声は、目の前の男の口から零れている声だ。電話の主・・・・・3人の中の真ん中に立つ、茶髪にサング
ラス、そして白いスーツという、どう見ても夜の商売をしているような男が、今まで自分を脅かす電話やメールをしてきたのだろうか。
「・・・・・」
昼の陽の下に似合わない男をじっと見ていると、思い掛けなく男は面白そうに笑った。
「写真や話では知っていたけど、開成会の海藤会長が男を情婦にしてるって本当だったんだな。悪いけど、そんなに美人には見
えない」
「お、女の人とは、違いますからっ」
「確かに。俺は男を相手にしたことは無いんだけど、あの海藤会長が嵌ったんならなかなかいいかもな。なあ、一度相手してくれ
ない?」
「・・・・・」
(な、何、言ってるんだろ)
とても本気でそう言っているとは思えないが、返って何を考えているのか分からなくて不安になってしまった。
この男相手に自分が何を言っても話は通じないような気がして、真琴はじりじりとバイト先の玄関へ向かって後ずさる。すると、男
はまだ開いていた携帯を閉じ、背広のポケットに無造作に入れながら言葉を続けた。
「少しだけ時間くれない?海藤会長の話が聞きたいんだ」
「や・・・・・っ」
ですと叫ぼうとする真琴は、その瞬間、目の前にしなやかな背中を見た。
「八塚組の尾高組長、ですね」
「・・・・・誰だ?」
「人の女に手を出すのは、この世界では厳禁ですよ」
淡々とした口調で言う男。長い茶髪の影からキラキラ光るピアスが見えて、真琴は思わず縋るようにその背中のスーツを掴んで
しまった。
「あ、安徳さん」
「逃げてばかりいるのも情けないですが、後先考えずに向かっていくのも呆れるだけですよ」
「す、すみません」
真琴は思わず謝ってしまった。今安徳の言った言葉は本当で、口ごたえをすることは出来ない。
いくら街中で、昼間だとはいえ、相手の出方次第ではどんな危ない場面になったかも分からないし、そうなるとそれは自分1人の
問題ではなくなってしまうのだ。
一番大切だと思う相手を一番困らせる結果になったかもしれないと思った真琴は、何度も同じ間違いをしてしまう自分自身が
情けなくてたまらなかった。これでは、中学生の弟よりも子供だ。
「アンちゃん、マコちゃんをそれ以上苛めないでよ。ちゃんと、分かってくれているわよ、ね?」
「あ・・・・・」
そして、男達の後ろから手を振りながら現れた綾辻。
同じように派手な格好なのに、妙に街の中に調和している綾辻は、そのモデルばりに華やかな容姿のせいで、周りの注目を一身
に集めてしまった。
どうやら綾辻の顔は知っていたらしい男が、なぜか苦笑を浮かべながら言う。
「・・・・・あんた、本当に嫌味なくらい目立ちますね」
「ん?持って生まれた美貌はどうしようもないもの。それよりもどうする?このままここにいたら目立っちゃうわよ?」
綾辻が言うまでもなく、今自分達が目立っているのは真琴も分かった。そして、その視線の怖さを、後ろ暗いものを抱えた方がよ
り感じるのだろう。
考えるように眉を顰めた目の前の男に向かい、綾辻はいきなりにやっと笑ってみせた。
「・・・・・ピザでも食べる?マコちゃんのとこの、美味しいのよねえ」
「え?」
突然何を言い出すのだろうかと、真琴は思わず綾辻の顔を見つめてしまった。
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