必定の兆し




13








 宇佐見は料亭の門をくぐっていく男の後ろ姿を車の中から見ていた。
 「・・・・・」
しばらくして、耳に付けていた無線から報告する声が聞こえる。
男よりも10分ほど前に入っていたターゲットの座敷に入ったことを確認し、その写真も撮ったという報告に、宇佐見はそのまま待機
と短く答えた。
 もう一方の耳には、予め仕掛けていた盗聴器から、3人の男の声が聞こえて来る。1人はよく聞き覚えのある、もう1人は見知ら
ぬ中年の男、もう1人はそれよりも更に若いような男だった。
 『何?今更手を引くと言うのかね』
 不機嫌そうに、いや、明らかに恫喝するような声を出しているのは、間違いなく自分の上司だ。
 『ええ。うまい具合に、私にもツテが出来まして。そちらの手をお借りする必要がないみたいなんで』
返すのは、若い男だ。
 『こいつ、それが誰なのかを言わないままなんですよ』
中年の男が、吐き捨てるように続ける。
 「・・・・・」
 どうやら、3人の間で仲間割れが起きているらしいということは、この短い会話の中でもよく分かった。
(・・・・・あいつが動いたか)
その発端である男の顔も、料亭の中に入る時に見ている。新興の組の組長で、この世界には大東組の関係者の後押しで入っ
てきたようだが、多分海藤は先にこの男の動向を抑えたのだろう。
 「警視正」
 「このまま録音を続けろ」
 「はい」
 警察官としても、相当な上の地位にいる上司。いくら外でヤクザと繋がっているとしても、表立った処分は出来ないというのが監
査の人間の意見だった。
多分、この上司のことも別の問題で降格させ、そのまま退職へと流れていくのだろう。臭いものに蓋と理論は宇佐見にとっては好ま
しいものではなかったが、組織の中にいれば受け入れざるをえない現実というものもあった。

 会食は一時間も掛からなかった。
いや、一番若い男は早々に出てきたし、残った2人は何やら対応策を話していたようだが・・・・・聞いていた限りでは結論が出ず、
近いうちにまた時間を作るようなことを言っていた。
 「・・・・・」
 耳からイヤホンを外した宇佐見は、無意識のまま溜め息をついた。
 「ご苦労様です」
 「・・・・・いや」
あまり外部には知られてはならないことなので、動いている者も限られている。本来は監査の人間だけが動くのだが、今回は上層
部の地位ある人間が対象なので、一番身近にいる宇佐見も協力を求められていた。
 「後は監査の方が尾行していますが、今夜はこのまま自宅に戻られるでしょうね」
 「・・・・・そうだな」
 「私達も帰りますか?」
 「・・・・・ああ」
 このまま自宅に帰ったとしても、多分自分の頭の中も、心の中も、晴れないままだろうというのは分かる。
こういう時に、誰かが傍にいてくれれば・・・・・そう考えながら頭の中に浮かぶのは、穏やかで優しい面影だが、その背後にいる影を
考えると、更に宇佐見は眉を顰めるしかなかった。








 翌朝、何時もの出勤時間よりも早く目覚めてしまった宇佐見は、このまま迎えの車を待つよりもと家を出ることにした。
 「貴継、大丈夫なの?」
玄関先で靴を履いている宇佐見の背中に声を掛けるのは母だ。宇佐見は視線を靴に向けたまま、大丈夫ですからと淡々と言っ
た。
 実際に生活をしているのは離れだが、朝は必ず母屋で朝食をとる決まりだった。
 「まだ通勤ラッシュという時間ではありませんし」
 「あなたは普通のサラリーマンとは違うのよ?守ってもらう当然の権利がある仕事をしているのに」
 「・・・・・母さん、労働者に格差はありませんよ」
 「・・・・・それは、分かっているわ」
 「・・・・・」
 「あ、貴継」
 玄関の引き戸に手を掛けた宇佐見に、母は厳しい声を掛けた。
 「それでも、あなたは選ばれた人間よ。どこかの誰かのように、底辺の世界で大将になって喜んでいる者とは明らかに違うんです
からね」
 「・・・・・行ってきます」
振り向かずに、宇佐見は玄関を出た。
母が真正面から自分を見たとしたら、きっと唇に浮かんでいる皮肉気な笑みを見つけて、更にまくし立ててきたかもしれない。
(もう、30年以上も昔のことだというのに、まだ向こうに対抗心が残っているのか・・・・・)
 十代だった母が、憧れて、身を委ねた相手。すでにその男には妻がいて、しかも、ヤクザという生業だった。
相手の妻には対抗心があっただろうが、ヤクザの男の妻になるほどの勇気は無かった母。腹に出来た自分を堕胎しなかったことが
今もって不思議だ。上流思考の母ならば、そんな男との関係をいっさい無しにしてしまう方が分かりやすい。
(・・・・・多少は、母性があったということか)
 「・・・・・」
 そこまで考えた宇佐見は、今更かと思った。
母が大切なのは、優秀で真面目な子供だ。今の自分だからこそ、母はその眼差しを向けてきているだけだろう。そんなことで不貞
腐れるという感情は、既に宇佐見には無かった。




 午前7時過ぎ。
 夏休み中なので学生達の登校する姿は見えず、駅に急ぐサラリーマンや若い女の姿しかない。何時もは車の中から見るその光
景を、それでも無感情にただの光景としてバスに乗って見ている。
 田園調布の自宅から警視庁まで、地下鉄や電車を利用しても良かったが、まだ時間が早いということで意図無くバスに乗ること
にしたのだ。
 「・・・・・」
 その時、携帯が鳴ったことに気がついた。礼儀としてバイブ設定にしていたが、掛かってきたのは部下からだ。
 「・・・・・」
もしかしたら、迎えに来たのにいなかったことを何か言われるのかもしれないと思ったが、その反面で夕べのことで何か新しい事実が
分かったのではないかとも思った。
メールを返信してもいいが、記録が残ってしまうことは避けた方がいい。折り返し電話をするかと、宇佐見は丁度次の停留所を案
内する声にボタンを押した。

 「私だ」
 バスから降りて直ぐ電話を掛けると、部下は先ず迎えの車を待っていなかったことを注意してきた。
 「時間が早かったんだ」
それにはその一言だけを言い、後は何かあるのかと先を促す。
どうやら、夕べ上司と会食をしたもう1人の男の身元が判明したという報告だった。
 『とにかく、今もうそちらに向かっています。今どこにいらっしゃいますかっ?』
 停留所を見て現在地を言えば、10分も掛からずに着くからと言われた。
(仕方ない・・・・・待つか)
タクシーを拾っても良かったが、早く報告を聞きたい。それには、ここで動くよりはと車を待つことにした宇佐見は、停留所のベンチに
座り、煙草を取り出そうとして・・・・・止めた。

 午前7時を過ぎた時刻とはいえ、東京の中心部であるこの辺りは既に人通りも多いし、車の数も多い。
行き交う人間は自分の地位を知らないだろうし、ましてや、自分の父の素性など知らない。あくまでもただのサラリーマンの1人とし
て(着ているスーツや容貌から、普通とは見えないだろうが)目の端にも映っていないのかもしれない。
 「・・・・・」
(警察もヤクザも、同じようなものなのかもしれないな)
 溜め息ともつかない吐息をついた時だった。
 「ああぁぁぁー!!」
 「・・・・・」
いきなりの大声と急ブレーキの音に、宇佐見は眉を顰めながら顔を上げた。




 数メートル先に、自転車が1台止まっている。
その自転車には1人の男が跨っていて・・・・・半袖のTシャツにジーパン姿の若いその男が、自分を見て指を指していた。
 「・・・・・」
(誰だ?)
 サラサラの黒髪に、童顔に見せている大きな目。体格や背丈も余り大きな方ではない学生風な男に見覚えは無く、宇佐見はま
すます眉間の皺を深くしてしまったが・・・・・。
 「この間はありがとうございました!」
 「・・・・・この間?」
 「先日、生徒とお、わ、私を助けてもらって・・・・・覚えてないんですか?」
 「・・・・・」
(ああ、あの夜の・・・・・教師か)
 顔を見て、言葉を交わしたのは数分の出来事で、夜、街灯の明かりも暗かったし、服もスーツを着ていた。
全く違う条件なので直ぐには分からなかったが、数日前の出来事なので直ぐに記憶は呼び起こされた。
 「・・・・・」
 男、確か、
 「瑛林高の、紺野?」
 「そうですっ」
宇佐見が名前を言うまで頭を下げたままだった紺野は、名前を呼ばれてガバッと顔を上げる。
賑やかなその言動はとても教師には見えず、スーツではなく、ラフな格好に自転車という姿も、明るい陽の光の下では、どう見ても
学生にしか見えなかった。
 「本当に助かりました」
 「・・・・・いや、特に何もしていない」
 宇佐見の中では、あれは出来事と呼ぶほどのものでもなかった。相手は自分の肩書きを聞いただけで逃げて行ったし、警察を
呼ぶ事態にもなっていない。そんな出来事を頭の片隅にでも残していたのは、目の前のこの男が真琴と似たような響きの名前だっ
たからということだけだ。
 「今は夏休みじゃないのか?」
 相手の顔と職業を思い出せば、宇佐見の口からは自然とそんな言葉が出た。ラフな格好からして学校に行くのではなく遊びに
行くのかとも思ったが、それにしては時間が早過ぎるし、自転車だ。
 「教師には夏休みでも色々することがあるんですよ」
 「そんなものなのか」
 教職に就いている知り合いがいないので、言われて初めて納得した。学生が休みの間は教師も休みかと思っていたが、教師は
それなりにやる仕事があるのだろう。
(・・・・・それにしては、この格好は・・・・・)
 「・・・・・」
 「な、何ですか?」
 じっと宇佐見が見ていると、紺野は居心地が悪そうに聞き返してきた。
休日仕様の格好なのかもしれないが、この容姿では教え子達からもきっと遊ばれているのではないか・・・・・その姿が容易に想像
出来て、宇佐見の頬は無意識のうちに小さく綻んだ。
 「何で笑うんですか!」
タイミングよく紺野が叫び、更に宇佐見はくくっと声を出して笑ってしまった。