必定の兆し
14
常に緊張しなければならない職場にいるという状況とは別に、それまで自分の周りで感情を動かすようなことが無かった自分がこ
んな風に声を出して笑うのは本当に稀だ。
真琴といる時も、温かく、穏やかな気分になって笑みが浮かぶが、その状況と今とでは少し事情が違うだろう。
(・・・・・怒っているな)
目の前の男・・・・・紺野は、ムッとした顔で自分を睨んでいる。
部下からも怖がられている自分をこうして見返すだけでも相当な度胸だなと思いながら、宇佐見はまだ口元を笑みの形にしたまま
すまないと言った。
「別に、君を笑ったわけじゃない」
「・・・・・そうとしか見えませんでしたが」
「それは、すまなかった」
意外にもすんなりと謝罪の言葉が口から出た自分に驚いたが、言われた紺野も意外だったのか少し目を見張っている。
(子供っぽい)
こんな風に、ことごとく感情が顔に表れてしまって、今時の学生が制御出来るのかと思うが、自分が庁舎に入れば一切感情を消
すように、紺野も校舎に入れば教師の顔に変わるのだろう・・・・・そう思った。
「あ」
「・・・・・」
黙ってお互いを見ていたのは、多分1分も無かったと思う。
告げてきた時間よりも早く、自分に追いついてきた部下の車が直ぐ傍に止まったのを目の端で確認した宇佐見は、もう一度、目の
前にいる紺野に視線を向けた。
「気をつけて」
うんざりするほどの多い人間がいる中で、二度目の偶然はさすがに滅多にあることではないと宇佐見も感じた。
だからこそ、何時もなら一瞥も残さずに立ち去るのだが、今は短い一言でも残そうと思ったのだ。
「警視正っ」
「分かっている」
きっと、車の中で小言を言われるのだろうと、ドアが開けられた後部座席に乗り込もうとした宇佐見は、
「い、いってらっしゃい!」
「・・・・・」
唐突に背中に掛かってきた声に、さすがに驚いて動きを止め、振り返ってしまった。
(彼が、言ったのか?)
自転車を支えたままその場に立っている紺野が、じっと自分を見ている。
「今から仕事に行かれるんですよね?頑張ってください!」
「・・・・・ああ」
それ以上何も言えず、宇佐見は車に乗り込んだ。
「お知り合いですか?」
車が走り出して間もなく、部下が聞いてきた。今の自分の反応は、何時も身近にいる部下の目から見ても、知り合いに対する
ものとしか思えなかったのだろう。
「・・・・・いや」
「違うんですか?」
「ああ」
ただの警察官であったのなら、知り合いにいて良かったという軽い気持ちでいられるだろうが、安穏とした部署ではない自分とは
安易に知り合いだと思われない方がいいだろう。
「単に、通り掛っただけだ」
「え?そうなんですか?」
「ああ」
それ以上言うことは無い。自分はあの男のことを、名前と職業しか知らず、きっとこの後も知る機会なども無いだろう。
宇佐見は意識を切り替え、報告をと続けた。今は上司の不正の証拠を集め、監査に報告して、それなりの処罰を与える。警察
官にあるまじき行動を取る相手に引導を渡すことが、今の自分の最優先事項だった。
「今夜、いいですか?」
綾辻の言葉に顔を上げた海藤は、即座に構わないと頷いた。
今夜、午後7時、六本木のバー。
それが、海藤側が尾高に告げた条件だったが、向こうもそれでいいと即答したらしい。元々、海藤と繋がりを持ちたいと言っていた
だけに腰が軽いなと思う反面、こういう男は裏切りも安易に出来るだろうとも思う。
「同行者は私でいいですよね?」
「そうだな」
「待ってください」
まとまり掛けた話に口を挟んできたのは倉橋だった。
「私が同行します」
「倉橋」
「お願いします」
頭を下げた倉橋をじっと見ていた海藤は、どうして倉橋がそう切り出したのかを考えた。
自分に対して絶対的な服従を誓ってくれている倉橋(綾辻は服従というよりは協力といった感じだ)は、何時もならば海藤の決定
に口を挟むことなどしない。それなのに、そう言ってくるというのならば、それなりに強い思いがあるのだろう。
「同行者は、綾辻だ」
「・・・・・」
その瞬間に見せた倉橋の表情に動揺は見えなかったが、白い肌がますます血の気がなくなったように見えた。
「・・・・・分かりました」
「お前には、別にしてもらいたいことがある」
「・・・・・」
顔を上げた倉橋に、海藤は走り書きのメモを見せた。そこには、ある人物の名前が書かれてある。
「これは・・・・・」
「大東組系列ではないからな。対応は慎重にしなければならないが、相手はどうやらインテリ好きらしい」
「ちょ、社長っ?」
海藤の言葉を別の意味で取ったのか、普段どんな時も余裕たっぷりな男が慌てたように口を挟んできた。
しかし、海藤が真っ直ぐに視線を向けている倉橋は、その言葉の意味をちゃんと理解したらしい。しばらくはその名前に黙って視線
を落としていたが、再び顔を上げた時は静かな笑みを浮かべていた。
「お任せ下さい」
「克己っ?」
「頼むぞ」
肩書きを好む相手には、元検事という倉橋の存在というのはそれだけで意味がある。その上、その容姿も、話し方も、きっと相
手は気に入るだろう。
「先方と連絡を取ってみてくれ。処理は、お前に一任する」
「はい」
早速、海藤の部屋を辞した倉橋は、直ぐに後を追い掛けてきた綾辻に腕を掴まれた。
予期していた行動ではあるものの、こんな廊下で変なことを言われては困ると、倉橋は腕を掴まれたまま自分の部屋まで歩く。
その間、綾辻も黙って後をついてきたが、部屋に入ってドアを閉めた瞬間、
「・・・・・っ」
無言のまま、ドアに身体を押し当てられた。
「何ですか」
「今の、どういうつもり?」
「どういうつもりとは?」
綾辻の顔は無表情になっている。彼がどうしてこんな顔をしているのか・・・・・倉橋は見極めるように見た。
「まさか、身体で黙らせるなんてことはしないでしょうね?」
「・・・・・綾辻さん」
「何?今から一緒に社長の所に戻る?今の話は無かったことにして欲しいって」
「・・・・・かなことを」
「え?」
自分の呟きははっきり聞こえなかったようで、更に顔を近づけてくる。間近に迫る華やかな顔に、倉橋は無言のまま容赦ない一
発を食らわした。
部屋を出た倉橋の後を慌てて追って行った綾辻。
これからあの2人がどんなやり取りをするのだろうかと一瞬考えたが、仕事に私情を持ち込まない倉橋ならば何とか上手く綾辻を
宥めてくれるだろう。
尾高と会う席に綾辻の方を同席させようと思ったのは、尾高の略歴と、人伝に聞く言動から、綾辻の方が上手くあしらえるから
と思っただけだ。真琴に手を出され掛けたということで、もしかしたら感情的になるかもしれない自分を抑えるのには綾辻の方が適
任だ。
そして、今しがた倉橋に対応を頼んだ人物は、綾辻が危惧するような心配はない相手だった。
「・・・・・」
海藤は携帯を取り出し、暗記した番号に掛けた。
「・・・・・」
『何だ』
数コールで出た相手は、番号で誰だか分かったのだろう。あからさまに不機嫌ではなかったが、少しも感情のこもらない声に、海
藤も淡々と事実だけを告げた。
「先日送ってもらった相手は、今日話をつけることにした」
『・・・・・そうか』
「向こうも自分の身が可愛いだろう、多分直ぐにそちらから手を引く。周りがそれだけ動けば、狡猾な奴ならば異変に気付くだろ
うな。こっちに厄介ごとを回すなよ」
吐息のような溜め息が微かに聞こえた。頭の痛いことだろうが、後は向こうで処理をしてもらわなければならないことだ。
「結果はまた報告する」
『分かった』
「・・・・・思ったよりは、ダメージを受けていないようだな」
重たい息をついてはいるものの、その声は想像していたほどには暗くは無い。自分の上司の不祥事が確定している今、あの男なら
ばもっと・・・・・いや。
(案外、なんとも思っていないのかもしれない)
他人を信じないあの男は、元から上司と距離を置いていたに違いない。それならばこの反応もおかしなことではないだろうと、海
藤はそれ以上追求することはしなかった。
男・・・・・宇佐見への電話が終わった海藤が自分でコーヒーを入れようと部屋の外に出た時、いきなり倉橋の部屋のドアが開い
たかと思うと、まるで押し出されるように綾辻が出てきた。
「ごめんなさいってば!」
綾辻の言葉を断ち切るようにドアは直ぐに閉められ、カチャッと鍵も掛ける音がする。
(何時も上手くやる男が・・・・・珍しい)
らしくない姿に思わず笑みを浮かべていると、綾辻は直ぐに海藤の存在に気付き、何時もの笑みを浮かべて見せるものの・・・・・
真正面から見た頬は赤くなっていた。
「お前らしくない」
「克己の前だけですよ」
「・・・・・コーヒーでも飲むか?」
「・・・・・口の中に沁みそうですけど・・・・・社長が入れてくれるコーヒー、美味しいですものね」
「部屋で待っていろ」
それが返事だと受け取った海藤はそう言うと、2杯分のコーヒーを入れるために歩き始めた。
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