必定の兆し
15
「分かりました」
今夜遅くなると真琴に連絡をした時、真琴は少しだけ気落ちしたように、それでもそれを海藤に感じさせないように精一杯明る
い声で頑張ってくださいと言ってくれた。
今日は真琴のバイトが早番の日で、海藤も仕事を早めに切り上げるつもりでいたが、僅かといえど懸念になることは出来るだけ
早く解決しておいた方がいいと、綾辻に尾高との会見をセッティングさせたのだ。
もちろん、食事はおろか、酒も口にするつもりはないし、長い時間を掛けて話すこともないが、その間自分の帰りを真琴に待たせて
いるのが可哀想で、一応の連絡をつけたのだ。
「ラブコールですか?ラブラブですね」
隣に座っている綾辻が笑って言った。
今日の運転手は城内がしているので、綾辻はのんびりと後部座席に座っている。
「お前の方はいいのか?」
今から会う尾高は、海藤や綾辻にとっては小物と言ってもいいので、自然に海藤の態度や雰囲気も張り詰めたものにはならな
かった。
「こ〜んないい男の顔を打つなんて、克己じゃなきゃ半殺しですよ」
「お前がからかったんだろう?」
「あー!社長は何時も克己の味方するんだからっ」
「しかたがない。倉橋は俺がこの世界に引きずり込んだ堅気で・・・・・特別な存在だからな」
自分と再会しなかったら、きっと倉橋は輝かしい表舞台を歩いていただろう。けしてそれが、彼にとって生きていく渇望の少ない場
所であっても、真面目な彼は歩き続けていたに違いない。
「あなたに出会うまで、私は呼吸をしていませんでした」
そんなことを言っていた倉橋が今、見違えるほどに生き生きと感情豊かになった(見た目は変わらないが)のは、明らかに隣にいる
男の影響だろう。
海藤自身、男である真琴を最良の伴侶としている以上、2人の関係に異を唱えるつもりはなかったが、それは全て倉橋にとって
良ければという前提付きで、もしも倉橋がこの男と別れたいと言えば・・・・・多分、協力するだろう。
そういった意味では、海藤は倉橋の味方であった。
「お前は心配いらないしな」
「え?」
「どんな状況になっても生き抜くし、欲しいものは手に入れるだろう?」
「・・・・・やだあ、可愛い部下をそんな化け物みたいに言わないでくださいよ〜」
海藤は笑う。
この男だからこそ、自分とどこか似ている・・・・・何時でも生きることを放棄する男が、意欲的に生きようと思うのだろう。
(俺が、真琴と生きたいと思うようにな)
指定した六本木のバーに着いたのは、午後7時丁度だった。
5階建て雑居ビルの5階。入口には開成会の組員が見張りのように立っていた。
「あっ」
まだ若い組員は、会長である海藤と幹部である綾辻の姿を見た途端に身体を硬直させ、ぎこちなく頭を下げてきた。
「お、お疲れ様ですっ」
「お疲れ様。来てる?」
「は、はいっ、15分ほど前に1人できましたっ」
「ふ〜ん、護衛も運転手もなし、ね」
何もないとは思うが、綾辻はこのビルに入っている店は今夜全て休業にさせ、その店に2人ずつ組員を置いている。この雑居ビルの
半径50メートルには、かなりの数の開成会の組員が警戒しているのだ。
(一応、用心のためだけど)
何があるわけではないが、もしもという場合を常に想定しておかなければならず、繁華街という不特定多数の人間が行き来する
場所は用心に用心を重ねて悪いことはない。
それよりも、こちらの条件どおり、律儀に一人で顔を出した尾高は、度胸がいいのか、よほど海藤に会いたいのか、それとも単に
馬鹿なのか。
(どっちにしても、社長が決めることだし)
海藤が尾高の処遇をどうするのか、一つの組を背負っている者同士とはいえ、あまりにも規模が違うので、どうしても海藤の方が
優位だが・・・・・綾辻は出来るだけ自分は中立な立場でいようと思った。
自分まで苛めたら、きっと尾高は再起不能になるだろう。
「行きましょうか?」
「・・・・・」
綾辻の言葉に海藤は頷き、そのまま階段を上っていく。その後ろを綾辻と城内も付いていった。
(エレベーターくらいつけときなさいよ〜)
「ここです」
綾辻が示したのは、海藤は一度も来たことはないが、自分の組が係わっているはずの(名前だけは書類で見た)店だ。
先ず、綾辻がドアを叩くと、さっと中からドアが開けられた。
「ご苦労様です」
「みんな、楽しんで飲んでた?今日は私の奢りなんだから、遠慮しなくってもいいのよ?」
「・・・・・飲めませんよ」
店の警備と尾高の見張りのために中にいたのは、3人の組員達だ。
どうやら綾辻は勝手に飲み食いをしてもいいと伝えていたようだが、こんな状況でそんなことが出来る者など綾辻本人くらいしかい
ないだろう。
組員達はそんな綾辻の言葉に困惑したような表情をしていたが、その後に続く海藤の姿を見て、ピシッと背筋を伸ばし、頭を下
げて言った。
「ご苦労様ですっ」
「すまなかったな」
海藤が声を掛けると、組員の緊張感が少し取れたようだ。
それを見た海藤は、そのまま店の中へと入っていった。
「・・・・・」
店の中は、せいぜい20人くらいで満員になりそうな広さで、カウンターの中には店の責任者らしい年増の女が緊張した面持ちで
立っていた。
今夜は女は要らないと伝えていたので、店の中には華やかな色は全く無く、見渡すほども無い狭い店内の一番奥の席に、海藤
が見たことの無い男が1人、座っていた。
(あいつか)
見た目は、30にもなっていないくらい、若く見えるが、その眼差しの中に気弱さの欠片もない。幾らこちら側が1人でと指定したと
はいえ、その通りにやってくるということは相当に度胸のある男なのだろう。
(ホストをしていたというが、その時代にかなり鍛えられたか)
水商売の女達の世界は、見た目に反してかなり生々しく、厳しいものだが、ホストの世界も、限られた世界なのでかなり競争は
激しいはずだ。
その中でトップで居続けた男なのだと、海藤は改めて気を引き締めると、ゆっくりと男のもとへと歩み寄った。
扉が叩かれた瞬間、尾高はグラスを持っていた手に力が入った。
「うちの会長が会いたいんですって」
いきなり綾辻から来たコンタクトに、尾高は一も二も無く頷いた。死に体である大東組のジジイや、何時自分を裏切るかも分から
ない追われている身の高橋なんかよりも、はるかに高みに上れる男。
(絶対に、こっちに付いた方がいい)
「ご苦労様です」
「みんな、楽しんで飲んでた?今日は私のおごりなんだから、遠慮しなくってもいいのよ?」
能天気な、この女言葉の男が、侮れない人物だというのはもう分かっている。その背景にはかなり大きなものがあるらしく、人脈
も幅広い。
そして、海藤はそんな男を使っている立場なのだ。
「・・・・・」
じっと視線を向けていると、男・・・・・綾辻が身体をずらし、その後ろから1人の人物が姿を現した。
(・・・・・っ、すげえっ)
写真では見たことがあった。随分いい男だなと思っていたが、実物はそれ以上、いや、その全身を覆っているオーラを感じ取ること
が出来るだけに、尾高の背筋に冷や汗が伝った。
「・・・・・」
「・・・・・」
尾高もホストをしていただけに、整形している者や、化粧に気を遣う男達を見てきたが、海藤はそんな男達とは全く違う、硬質
な美貌の主だ。
身長は高く、きっとブランド物であろうスリーピースのスーツを着こなしている姿は、モデルといっても否定する者はいないだろう。
眼鏡の奥の切れ長の目も、鼻筋の通った鼻も、少し薄めの唇も、一歩間違えれば酷薄そうな美貌にみえるのにそう感じないの
は、男の持っている知性と、代々流れているヤクザの熱い血のせいなのか。
「・・・・・っ」
その凍えるように冴えた眼差しが、真っ直ぐに自分を捕らえてくる。
叔父や父親も組のトップにいたという、この世界のサラブレッド。38になる自分よりも年下の相手の迫力を、これほど間近に感じた
尾高は、無意識のうちに喉を鳴らしてしまった。
海藤がすぐ傍まで行った時、尾高は立ち上がり、頭を下げてきた。
「わざわざ時間を取っていただいて、ありがとうございます」
「・・・・・いや、こちらも急な時間を指定した」
そう言って海藤が向かいのソファに腰を下ろすと、尾高も再び座り、改めてというように自分の名前を言った。
「八塚組を仕切らせてもらってます、尾高宏昌(おだか ひろまさ)といいます」
「開成会の海藤だ」
自分よりも年上の相手であるが、大東組での立場は海藤の方が上だ。その相手に頭を下げる方がおかしいので、海藤はその
ままの姿勢で真っ直ぐに尾高を見た。
「早速聞くが、そちらはどういうつもりで真琴に近付いた?あれが俺の連れだと知らなかったとは思わないが」
「それは・・・・・」
尾高の視線が、カウンターに座っている綾辻に向けられた。その辺の話は綾辻から報告を受けていないのかという意味だろうが、
わざわざ本人を呼び出したのは、その裏づけを取るためだ。少しでも自己弁護をすればそれだけ相手の価値が下がるということだ
けだった。
「直接聞きたい」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・一条会の高橋を、ご存知ですね?」
「元、一条会だな」
わざわざ言い換えたのは、あの男と大東組が全く関係ないと尾高に伝えるためだ。その海藤の意図は尾高も分かったらしく、直
ぐに言葉が足りませんでしたと謝罪した。
「あの高橋が接触をはかってきました。今は大東組とは無縁という形になっていますが、俺の組には高橋派だった組員が何人か
いて、それ経由でセッティングされまして」
「理由は、俺への復讐か」
「・・・・・戯言とは思いましたが、これを切っ掛けに、うちが開成会と絡むことが出来るかもって・・・・・甘いことを考えました」
「・・・・・」
「申し訳ありません」
ここまでの言葉は綾辻の報告どおり、尾高も嘘は言っていない。
(全て吐くか、どうか)
海藤は尾高から視線を逸らすことなく、その口がこの後何を語るかを冷静に判断するつもりだった。
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