必定の兆し




16








 美貌の主が怒ると恐ろしい。
そんな言葉が頭の中にあったわけではないだろうが、ふと出てきたその言葉は今の状況にピッタリと合うような気がして、尾高は無
表情を保つ頬が引き攣るような気がした。
 海藤は自分が知っている他のヤクザの上の人物達とは違い、無駄に声を荒げたり、理不尽な恫喝をしたりしない。
それでも、凍えるような冷たい眼差しで見られるだけで、その額には拳銃が付きつけられているような、いや、すでに鋭い日本刀を
その心臓に突き刺されているような恐怖を感じる。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
(誤魔化しはいっさい効かない、な)
 多分、どんなに完璧に取り繕ったとしても、海藤の眼差しはその言葉の細部まで切り裂き、真実と嘘を見抜くだろう。
そこで、嘘が分かってしまえば・・・・・もう、その先は無い。
 「・・・・・大東組にも、あなたを煙たがっている人物がいて、高橋に資金と逃げ場所を与えています」
 「才川(さいかわ)理事だな」
 「・・・・・はい」
 「・・・・・」
 「それと、警察内部にも、協力者が」
 「組犯三課の課長ね?」
 「・・・・・そこまで知ってるんですか」
 綾辻の笑みに、尾高は張り詰めていた緊張を解いた。安心したというよりも、短期間のうちにここまで調べた海藤達相手に虚勢
を張っても仕方がないと諦めたからだ。
(やっぱ、こっち側が得だって)
 どう考えても、自分が頼ろうとした相手よりもこちら側の方がいい。尾高はそう瞬時に判断すると、ガバッと立ち上がり、海藤の足
元に土下座をした。




 「本当に申し訳ありませんでしたっ」
 「・・・・・」
 床に額をつけるようにして謝罪する尾高を、海藤は長い足を組んだまま無言で見た。
土下座という、前時代的なことをされても、絆されるという人間的な感情は自分には無い。自分の感情が動くのは、真琴と、自
分の身の内に入れた人間達が関係する時だけで、全く関係ない相手が、いや、特に、今回のように二枚舌と言われても仕方が
無い立場の相手に向かい、何らかの感情が動くことは無かった。
(この男に制裁を加えたとしても、更にその上がいる。どちらかといえば、そちらの方が問題だからな)
 いわば、小物相手にこれ以上の時間を割くことは無駄な気がした。
 「俺は、お前の言葉を信じていない」
 「海藤会長っ」
 「一度高橋と組んで、足元をすくわれそうになったらこちらに寝返って。そんな男を信じることが、お前には出来るか?」
 「・・・・・っ」
 「前身が何であろうと、高みに上り詰めるためにどんな手段を取ろうと、それは個人の問題で何も言うつもりはない。そういうやり
方をする人間がいるのだなと思うだけだしな。だが、素人に手を出すのは・・・・・」
海藤は少しだけ身を屈め、尾高の見上げてくる眼差しを見返しながら、無言のまま手を伸ばした。
 「ぐ・・・・・っ」
大きな手が、尾高の喉もとから首を絞める。表情は変わらないのに、尾高の首を絞める指先だけには容赦ない力が加わった。
 「大切な者に手を出された礼だけはしないとな」
 「くあっ、あぅっ」
 息苦しさに、尾高は海藤の手を引き離そうと両手を動かしかけたが、その動きを、海藤は眼差しだけで止めた。
 「・・・・・ぅぁ・・・・・っ」
呻く声が小さくなり、顔が真っ白から赤く変色していく。
あと少し力を入れ続ければ、手の中の男の命は途切れるだろう・・・・・そう思っても、海藤の感情は全く波立たなかった。
真琴に恐怖を与えたのだ。誰だか分からない相手に真琴が感じた恐怖と、今目の前にいる相手から与えられるこのくらいの苦しみ
など、どちらが・・・・・。
 「社長」
 「・・・・・」
 「社長、手が汚れちゃいますよ?」
 自分の手の上に、第三者の手が乗せられた。
 「その手でマコちゃんを抱きしめること・・・・・出来ます?」
 「・・・・・」
綾辻の口から出てきた名前を聞いた瞬間、海藤の手からは見る間に力が無くなり、首を絞められる力で膝立ちになっていた尾高
の身体が揺れて倒れた。




 綾辻は尾高の首元に指をあてた。
 「・・・・・しぶとい」
(でも、一応助かったわ)
もちろん、ここで海藤が尾高を殺したとしても内密に処理するつもりだったが、やはり海藤自ら手を汚すことはあまりして欲しくなかっ
た。そのことを万が一真琴が知ったら・・・・・そして、真琴の口から海藤を拒絶するような言葉が出たら、その後、海藤がどうなって
しまうか考えるのも怖い。
 「水」
 「・・・・・・っ」
 カウンターの中にいる女主人に言ったつもりだったが、今の光景に恐怖を感じているせいか、身体が固まってしまって動くことも出
来ないようだ。
 「仕方ないわねえ。ねえ、水を持ってきて、ピッチャーでね」
 代わりに、警備のためにいた組員に言うと、男は少しだけぎこちなく頷いて動き始めた。女ほどではないが、組員も今の光景には
戸惑いと恐怖を感じたのだろう。
(無理も無いか)
 ヤクザとはいえ、経済ヤクザと言われる海藤は、見た目もエリートビジネスマンか、弁護士のように知的で、言動も物静かで大声
で怒鳴ったりもしない。そんな、暴力とは無縁の海藤の今の行動に、彼の本質を垣間見たような気がしたのだろう。
 「どうぞ」
 「ありがと」
 受け取った綾辻は、それを遠慮なく尾高の顔面に掛けた。
失神していたらしい尾高はそれで気がついたようで、激しく咳き込みながら肘だけで起き上がる。高級スーツは水で濡れてしまった
が、それを気にする余裕も無いようだった。
 「あ〜あ、素敵な首輪が出来ちゃった」
 「え・・・・・?」
 「しばらくはハイネックのシャツを着ないとみっともないわよ」
 綾辻の言葉が直ぐに頭に入ってこないようで、尾高は緩慢に首を傾げる。この男が鏡で自分の姿を見た時、その首に残る指の
痕を見てどう思うだろうか・・・・・綾辻は少しだけ同情してしまった。




 綾辻の一連の動きを見ながら、海藤は固く手を握り締めた。
ヤクザという世界にいるくせに、自分が清い存在だとはとても思ってはいないが、先程・・・・・あのまま尾高の命を奪っていたら、真
琴を抱きしめることは出来なくなったかもしれない。
(あいつを汚すような真似だけは・・・・・出来ない)
 何とか身体を起こした尾高に、海藤は口を開いた。
 「お前の誠意を見せてもらおう」
 「せ・・・・・い?」
 「今回の首謀者を俺の前に連れて来い。どんな立場の人間も残らずだ」
 「そ、それは・・・・・」
 「お前なら、舌先三寸で容易だろう?」
大東組の理事である才川も、宇佐見の上司も、自分にとって恐れるほどの相手ではない。出来ることなら大東組本部に乗り込
んで、今の最高権力者である7代目現組長の永友治(ながとも おさむ)の前で、相手を再起不能にしてやりたいほどだが、さす
がにそこまでしたら話が大きくなってしまう。
 自分が上に睨まれるのは構わないが、真琴にまで変な影響が出てはならなかった。
 「時間は・・・・・そうだな、三日後」
 「み、三日、それは・・・・・」
 「二日にするか?」
明らかに無理だろう時間を言えば、尾高は慌てて首を横に振る。
 「いえっ、三日でいいです!」
 「くれぐれも、お前の背後に開成会がいることは知られないように。今回の件が無事終われば、お前の処遇も考えよう」
その言葉に期待を持ったのか、尾高の青白い顔に僅かな赤みが戻った。
もちろん、結果を出した者に対する評価はきちんとするつもりだが、一度負の感情を持った相手に対して気持ちは容易に受け入
れることが出来ないのも確かだ。
 「その時は、自分の持ってるものを全て捨てる覚悟でな」
 「持っている、もの?」
 「組の解散だ」
 「!」
 「話は以上だ。今後の連絡は、綾辻、悪いが」
 「は〜い。携帯の方に掛けるわね」
 言うべきことは全て伝えた。少し暴走しそうになった気持ちも、綾辻のおかげで何とか収まりがついた。
そのまま尾高を振り返ることなく店を出ようとした海藤は、まだカウンターの奥で震えていたここの女主人に向かい、悪かったと言葉
を掛ける。
 「お疲れ様ですっ」
 「お疲れ様ですっ」
 次々と見送る組員達の声に見送られながら、海藤は綾辻と城内と共に階段を下りていたが・・・・・。
 「・・・・・」
ふと、胸元に入れていた携帯が鳴った。




 「俺だ」
 歩きながら海藤が電話に出た。いったい誰からだろうと綾辻は思っていたが、しばらく・・・・・1階の出口に着くまで相手の話を聞
いていた海藤が言った。
 「ご苦労だったな、倉橋」
 「・・・・・」
 その名前を聞いた途端、綾辻は足を止めて海藤を見てしまった。
確か、倉橋に最適の仕事をと言っていたが、何時の間にかそれを実行していたというのだろうか?
(私に何も言わないで・・・・・)
 倉橋が優秀な男だと分かっているものの、それと心配するという気持ちは全く別物だ。
たとえ、倉橋の足元に、踏みつけても全く構わない小さな小石が転がっていても、それをとってやらなければ心配だと思ってしまう自
分がいる。
(社長のこと、言えないかも)
 しばらくして電話を切った海藤に、綾辻は早速聞いた。
 「克己、今どこにいるんです?」
 「・・・・・聞いていなかったのか?」
 「教えてくれませんでした」
 「・・・・・」
正直に言うと、海藤はしばらく綾辻の顔を見つめ、やがて少しだけおかしそうに目を細めた。
 「それじゃあ、報告を聞くまで、俺の口からも言わない方がいいだろうな」
 「社長〜っ」
 「事務所に戻るぞ」
 城内が開けた後部座席に海藤が乗り込むのを見て少しだけ口を尖らせた綾辻だったが、こうして電話報告をしてくるというのは
無事な証拠だと自分に言い聞かせ、海藤に続いて車に乗り込んだ。