必定の兆し
17
海藤達が事務所に戻ってきたのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。
途中倉橋からもう一度電話があり、帰社時間を聞いたが、どうやら自分達よりももう少し遅くなるらしい。
尾高との不愉快な対面は、せいぜい15分ほどだっただろう。出来ればこのままマンションに帰り、真琴の顔を見たかったが、倉橋
の報告もきちんと聞いて労いたいとも思ったので、海藤は自分の部屋に入ると、早速メールのチェックをした。
会社を経営している海藤には、当然のように仕事関係の連絡も多く、海外への投資や株も取引しているので、数時間チェック
していないだけでも数十件のメールが届いていた。
「・・・・・」
それらに素早く目を通していた海藤は、ふとあるメールに目を止めた。
それはプライベートアドレスではない方にきていたもので、海藤の会社の存在を知っている者ならば誰でも知っているアドレスだ。中
には迷惑メールもあるが、海藤の目に堂々と止まるようなこの件名は・・・・・。
「男色の会長・・・・・か」
(古臭い言い回しだな)
口元に浮かぶのは皮肉な笑みだけだ。
ウイルスチェックを済ませた海藤は、それを開けた。
「・・・・・」
中には文章は書かれておらず、数枚の写真が添付されている。
全てが真琴の大学やバイト先の盗撮写真で、それはある警告を含んでいることは十分感じ取れた。きっと、何時でも手に掛ける
ことが出来るのだと、海藤に向かって警告をしているのだろう。
無言のまま削除をしようとした海藤だったが、思い直して手を止めた。今の時代、このメールを辿れば発信主を特定出来、それ
が証拠の一つとなる。
わざわざ海藤にまでこんなものを送りつけてきた相手の自信過剰さに、海藤は内心の燃えるような激情を抑えながら、無言のま
ま画面を見つめていた。
それから1時間ほどして倉橋が戻った。
「お待たせしまして申し訳ありません」
既に海藤が戻ってきていることを知った倉橋は、直ぐに部屋にやってきて頭を下げてきた。
当然のようにその後ろには綾辻がついていたが、どうやら倉橋は直ぐに海藤の元へとやってきたらしく、早く理由を聞かせろといった
眼差しをその横顔に注いでいる綾辻の様子に苦笑が漏れる。
「いや、案外に早かった」
「そうですか?」
「あの人相手なら、もっと長く掛かるかと思っていたんだが・・・・・お前を気に入っているしな」
もっと・・・・・もしかしたら、あと1時間くらいは離してもらえないのではないかと思ったのも本当だった。
海藤の言葉に、倉橋は苦笑する。その笑みの中には、海藤の言ったことが少しは当たっていた様子が垣間見えた。
「確かに、もう少しと言っていただいたんですが、社長がお待ちになられていることを伝えましたら、直ぐに解放してくださいましたよ。
あの方は社長を気に入られていますから」
「それは、大変だったな」
「いいえ、美味しい食事もご馳走していただきましたし」
少しだけ倉橋の表情が曇るわけは容易に分かる。
本来、こちらから呼び出した相手をもてなすは当然なのだが、あの人ならば倉橋の申し出を笑いながら却下しただろう。今日の礼
はまた改めてした方が良さそうだ。
「あの」
その時、それまで珍しく黙っていた綾辻が割り込んできた。
「私、全然話が見えないんですけど」
「・・・・・」
「・・・・・」
海藤は倉橋を見、倉橋も海藤に視線を向けた。
「言ってなかったそうだな」
「言う必要は無いと」
「あ〜、酷い〜」
「・・・・・」
「社長とだけ分かり合ってるなんてずるいわよ!ね?誰と会ったの?」
女言葉は柔らかい響きではあるが、綾辻がこの男らしくなく追及するのは珍しい。一緒の行動をすること自体、ほとんどない2人
だが、何時もは余裕で見送っているはずだ。
(・・・・・何も知らないということが嫌なんだろう)
立場を自分と真琴に置き換えても、海藤も同じようなことを考えるかもしれない。
その行動を予め知っていれば心配はするものの、男としての相手の立場を考え、黙って待つということもするかもしれないが、自分
が何も知らないことで相手が動くのは・・・・・やはり、心配で仕方が無いだろう。
「綾辻」
そして、もちろん秘密にすることでもないので、海藤は早々に自分が倉橋に命じたことを説明することにした。
「倉橋には、本宮(もとみや)さんに連絡を取ってもらった」
「本宮って・・・・・総本部長の?」
「そうだ」
60を過ぎて、大東組の中枢にいる人物。
本人はスキンヘッドで体格のいい、少々強面の人物であるが、その歳にしては思考が柔軟で、やり手で、現組長の信頼も厚い。
海藤の伯父である菱沼とは旧知の仲で、海藤も幼い頃から可愛がってもらっていた。
総本部長は、組織の中でも重要な位置の人間だ。その彼に会うということは・・・・・。
「才川の件で?」
直ぐにその名前が出るところが綾辻の敏いところだと、海藤はそう思いながら頷いた。
(でも、確かあの時・・・・・)
自分達が出掛ける前、海藤が倉橋に言ったのは、
「大東組系列ではないからな。対応は慎重にしなければならないが、相手はどうやらインテリ好きらしい」
と、いう言葉だった。それは、本宮を指してはいない。
「あの人に繋ぎをとってもらったんだ」
「繋ぎ、ですか?」
「東京紅陣会。あの人はそこの若頭と昵懇なんだ。・・・・・会えたか?」
「はい。幸運にも時間が空いていたようで。総本部長のとりなしで、赤坂の料亭でお会いさせていただきました」
「へえ・・・・・」
東京紅陣会。
大東組より組織力は劣るものの、それでも十分勢力のある組織だ。関西地方に強く、血の気が多いとも言われていた組織だっ
た。
しかし、最近は世の中の流れを踏まえ、資金力をアップするため、経済面に関してかなり大きな改革をしているらしく、綾辻も何
人かに直接引抜を掛けられたこともあった。それだけ、優秀な人材が欲しいのだろうと、自分の能力を自覚している綾辻は考えて
いる。
そこまで考えた時、ようやく綾辻は思い出した。自分の報告書にも書いてあったはずなのだ。
(高橋の妹が、東京紅陣会の幹部と結婚していたんだっけ)
以前、高橋が真琴を攫った時、海藤は警察に、高橋の薬のルートを漏らした。そのせいで高橋は大東組から破門されたが、それ
以上の厳しい制裁(本来ならば命さえ危ういはずだった)を与えられなかったのは、東京紅陣会の口添えがあったからだという噂を
聞いた。
その時は、どんな馬鹿でも自分の組織の幹部の身内を見殺しには出来なかったのだろうと、その甘さを笑うだけだったが。
だが・・・・・。
「今回は、その幹部の力も及ばないようです。私達とは犬猿の仲である警察と手を組んだこともありますし、元々、お荷物だとも
思っていたんじゃないでしょうか」
「重たい荷物よねえ」
(おまけに、何の利用価値もないし)」
「・・・・・切り捨てるのか?」
「高橋については、一切東京紅陣会と係わりはない。本部長の前でそう言っていただきました」
大東組の本部長の前で、東京紅陣会の若頭が言った。そのこと自体に、大きな意味があるのだ。そんな大きな使命を持ち、そ
れを見事に成し遂げた倉橋を、綾辻は誇らしい思いで見つめた。
(カッコイイ、克己)
東京紅陣会の若頭は、実直な本宮と昵懇だということからも分かるように、規律や取り決めに厳しい人間らしい。
そんな男相手には、綾辻のような見た目の男より、見るからに真面目な倉橋に好感が行くのではないかと思った。実際、菱沼が
可愛がっているのは(都内に来た時は一緒に遊んでもいるらしい)綾辻で、本宮が気に入っているのは海藤や倉橋だというところか
らも、その傾向は十分感じ取れた。
結果的に、本宮に連絡をしたのは倉橋だし、現れた東京紅陣会の若頭を説得したのも、倉橋だ。海藤は立派に仕事を成し
遂げた倉橋に労いの言葉を言った。
「ご苦労だった」
「いえ・・・・・お役に立てたでしょうか?」
「今夜が、一番のヤマだった。無事、乗り越えられたのはお前達のおかげだ」
「・・・・・」
倉橋は嬉しそうに頬を緩めている。それは、他人から見れば僅かに頬が動いたという認識かもしれないが、倉橋のことをよく知っ
ている海藤の目には、置いてきぼりは嫌だという心許無い顔をしていた夕方からは、とても想像出来ないほどの晴れ晴れとした表
情だった。
「本宮さんに礼を言っておこう」
早速携帯を取り出そうとした海藤だが、倉橋はあっと言葉を付け加える。
「今からお2人で銀座に行かれるそうです」
「誘われなかったか?」
「丁重にお断りしました」
「そうか。それなら、明日にした方がいいな」
「それがよろしいかと」
これで、全ての準備は整った。後は尾高が今回の関係者を自分の前に連れてくるだけだが、もしもそれが叶わなくても、海藤は
構わないと思った。向こうが逃げて姿を現さないのなら、こちらが追いかけて捕らえるだけだ。
海藤は時計を見上げる。
(9時半か・・・・・)
マンションに帰るのは10時を軽く過ぎてしまいそうだが、きっと真琴は起きて待っているだろう。
「今日はご苦労だった」
「いえ、社長の方こそお疲れ様でした。あの・・・・・」
「ん?」
「尾高の方は・・・・・」
倉橋の控えめな言葉に、そういえばこちらの結果をまだ言っていなかったことに気がついた。
直ぐに倉橋に伝えようと口を開き掛けた海藤だったが、
「それは、私から話してあげる」
「綾辻?」
「・・・・・」
「ほら、社長は早くマコちゃんのところに帰ってあげてください」
「ちょっ」
海藤の目の前で、当然のように倉橋の身体を背中から抱きしめる綾辻。さすがに倉橋はその手を振り払おうとするものの、まる
で鎖で拘束したように離すことが出来ないらしい。
その綾辻の顔を見た海藤は、自分も早く真琴に会いたくなってしまった。
「後は、任せるぞ、綾辻」
「は〜い」
「お、お疲れ様でした」
普段冷静な倉橋の何時にない狼狽振りに笑いながら、海藤はそのまま自分の部屋を出る。何だか久し振りに頭の中がすっき
りしたような気分だ。
(後三日で終わる)
既に意識を切り替えた海藤の脳裏からは、尾高のことも高橋のことも欠片も無く消え去っていた。
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