必定の兆し
18
デスクの上の電話が鳴る。
内線ではなく、外線、それも、直接自分のこの番号に掛かってくるのは滅多に無く、宇佐見はそれを取る前から相手が誰かが想
像出来た。
「はい」
電話の向こうでは抑揚の無い声が用件だけを告げてくる。
それはやはり宇佐見の予想通りのもので、しかし、やはり気持ちが暗くなってしまうことでもあった。
「・・・・・わかりました。それでは、30分後に」
電話は切れた。
宇佐見は受話器を置くとしばらく空を見つめて考えていたが、やがて立ち上がった。
この部屋には数え切れないほどやってきた。
仕事上の命令を聞く時もあったが、個人的な愚痴や嫌味を聞かされることも多く、さすがの宇佐見もノックをする時には一度大き
く深呼吸をするくらいだ。
しかし、今日はさすがに今までとは違う。
「・・・・・」
「警視正」
「・・・・・入るぞ」
「はい」
背後には部下が2人。
宇佐見は一度大きく深呼吸をしてからドアをノックし、自分の名前を告げる。直ぐに、入れという声を聞き、失礼しますと断った宇
佐見は、重い事実を告げるために足を踏み出した。
「どうした?報告か?」
デスクに腰を下ろしていた上司はパソコンを見ていたようだ。画面は消しているものの、近付けば本体が熱を持っているのが分か
る。今まで何を見ていたのか訊ねても、きっと捜査資料だと一蹴するだろう。
部下の手柄を簡単に横取りするこの男が、どんな捜査に首を突っ込んでいるかなど調べることも無いが、このパソコンの履歴も
立派な証拠物件となるので、宇佐見はチラッと部下に眼差しを向けた。
「部長、失礼します」
「お、おいっ!」
部下の1人が上司が座っている椅子ごと大きく移動させ、パソコンの画面スイッチを入れる。まさか、自分達がここまでするとはさ
すがに思っていない上司は、まだ電源は落としていなかったらしく、直前まで見ていた画面がパッと浮かび上がった。
「・・・・・薬の内偵に動いている者の情報です。極秘資料ですね」
「おいっ、宇佐見!」
「部長、この資料はどういった理由でご覧になっているんですか?薬は五課の領分ですし、特に、内定に入っている者の顔や氏
名は極秘扱いで、同じ組犯でも簡単には見てはならない情報だと思いますが」
「・・・・・うちの案件にも係わりがある奴なんだ」
「それは、どの案件でしょう?」
少なくとも、目の前の上司よりは自分の課の仕事を把握しているという自負のある宇佐見は、言い逃れは許さないというような
眼差しを向ける。
上司ももちろんそれは分かっているだろうが、自分の方が立場が上だということをまだ信じているようだった。
「お前にもまだ言えない事件だ。用件が無いのなら下がれ」
この状況でも、まだ言い含められると思っているのだろう。
馬鹿な人間だと思う。真面目にしていれば、たとえ無能でもこのまま役職を全う出来、それなりの退職金をもらって意気揚々と退
職出来たのに、自分の力以上の地位に胡坐をかいて、より多くの金を手に入れようと動いてしまった。
「部長」
「・・・・・」
「後15分で、監査の人間がここにやってきます」
「・・・・・っ」
ふてぶてしい笑みを浮かべていた男の頬が引き攣った。
信じられないというような強い眼差しが自分の顔に注がれるが、宇佐見の感情は全く動くことは無い。
「この部屋に呼びますか?それとも、裏口で迎えられますか?」
「う・・・・・さみっ」
「・・・・・」
「お前・・・・・何時から監査の犬になった?」
「ご存じないのですか、部長。我々は取り締まっている暴力団の人間から犬と呼ばれているんですよ」
「・・・・・」
「全ての不正の証拠は集まっています。言い逃れることは皆無でしょう。この後、あなたの身柄は監査に移りますが、その瞬間か
らあなたの権限は一切消滅するとお思いください」
これからの男の運命を淡々と告げる自分を、男は今にも射殺しそうな眼差しで睨みつけてきた。その気持ちは分からないでもな
いが、宇佐見には理解出来ない。
公僕としての自分の地位を顧みなかったゆえのこの結果に、同情は出来ないし、上司が去ることへの悲しみも感じなかった。
「部長」
「・・・・・下に下りる」
さすがにこのフロアーに監査の人間が押しかけてくることはまずいと思ったのだろう、呻くように言う上司の言葉に頷き、宇佐見はドア
を開いてやった。
ゆっくりと歩き始めたと思ったが、ドアの前に立った上司は、不意に宇佐見を振り返った。
「お前、私が嫌いだろう」
「・・・・・」
「私は、お前が嫌いだったよ。自分だけは清廉潔白だとでもいうようなその顔を見ていると、心底反吐が出そうだった。自分の中
に流れている血を考えれば分かるだろう」
「・・・・・お連れしろ」
「後任がお前をどう見るか、見たかったよ、宇佐見」
最後まで謝罪の言葉も労いの言葉も言わないままで、上司だった男は左右を部下に挟まれたまま部屋を出て行った。
「・・・・・」
苦い思いが、宇佐見の心の中にじんわりと広がる。
けしていい上司ではなかったが、それでも、その地位に行くまではそれなりの働きをしていたはずだが、いったい何時から足を踏み外
したのだろうかと思った。
「・・・・・」
数日後には、この部屋には新しい上司が赴任するだろう。
何事も無く新しい日常は始まる・・・・・そう思うと、宇佐見は虚しいという思いを抱かずにはいられなかった。
今回の一件は極々内輪での処理になったはずだが、どこからか噂は漏れるようで、組織犯罪対策部の人間はどの課も落ち着
きが無かった。
中でも、三課はちょっとした動揺に襲われたが、直ぐに副総監からの直々の言葉があり、明日には新任の部長が着任するという
ことで事態は沈静化した。
「警視正」
「どうした」
「お送りします」
今回のことには深く係わった宇佐見は、他言しないようにと厳重に言われ、三日間の休暇を取らされた。
不服に思わないわけでは無かったが、自分がいては浮き足立つ人間もいるかも知れないというのは分かる。上司の息が掛かった
人間は課内にも幾人かいて、その人事異動もあるだろうと、
「悪いが、2、3日大人しくしていてくれ」
そう言った副総監の言葉に従うことにしたのだ。
「いや、お前達は仕事をしろ」
「ですが」
「しばらく、頼むぞ」
ドアを開けられた車の後部座席に乗り込むと、宇佐見はシートに深く背を預けて目を閉じた。
(・・・・・終わった)
とりあえず、自分のテリトリーの中で起こった事件についてはこれで終わった。違う世界の問題は、その世界の人間が決着をつける
だろう。
自分の出生の秘密に関することや真琴のことなど、これから監査の取調べを受ける上司が何と答えるかは予想がつかないが、
たとえ全てが自分の不利なように証言されたとしても、宇佐見は今まで自分がしてきたことに自信を持っているし、上がどちらに対
して優位な判断を下すかは今考えても仕方がないだろう。
それよりも、急に出来たこの時間をどう過ごそうかと考えた。
出来れば真琴の顔が見たかったが、今は会いに行かない方がいいだろうし、何より彼の傍にはあの男がいる。
「・・・・・」
真琴には自分の存在は必要ない・・・・・そう思うと、誰かが自分を必要としてくれることなど無いのではないかと思ってしまった。
時刻は午後4時過ぎ。今帰れば、何時にない早々の帰宅に、きっと母が問い詰めてくるはずだ。関係者以外に話は出来ないと
言っても、あの母をかわすのは一苦労で、このまま帰宅するのはうんざりだと思う。
「い、いってらっしゃい!」
ふと、頭の中に鮮やかに浮かび上がった声。
「今から仕事に行かれるんですよね?頑張ってください!」
そう言って、まだ二回しか会っていない(それも、初対面も数分間だけだ)相手に向かって手を振っていた無防備な青年。
高校の教師だといっていたが、夏休みの今、こんな時間でもまだ学校にいるだろうか?
(それとも、また見回りでもしているか?)
そう思った時、宇佐見は運転手に声を掛けていた。
「寄ってもらいたい場所がある」
「紺野先生、すみません」
「はい?」
紺野は夏休みという長い時間にしか出来ない机の整理をしている手を止めて顔を上げた。
けして片付け下手とは思わないものの、今にも崩れそうな書類の山をどうにかしろと学年主任からの厳命を受けているのだ。
「あの、校門の所に男の人がいるんですが」
「男?」
「なんだか雰囲気が怖くて・・・・・警察を呼んだ方がいいでしょうか?」
紺野より1歳年下の女性教師は不安そうにそう言った。
昨今物騒な事件が学校という枠の中でも起きているので、夏休みといえど部活などで出てくる生徒のためにもきちんと出入り口
は閉めてあるが、不審者を見付ければ直ぐに警察に通報するというマニュアルも出来ている。
ただ、中には父兄が部活の様子を見に来るという例もあるので、よほど怪しい人物で無い限りは、一度声を掛けるようにとも言
われていた。
「じゃあ、俺が見てきますよ」
「大丈夫ですか?」
「危なかったら逃げ出しますから」
不安そうな彼女を安心させるように言うと、紺野は急いで校門へと向かう。シャツにジーパンという軽装でグラウンドを駆け抜ける
と、まだ部活で残っている生徒達から次々と声を掛けられた。
「あ、コンちゃんも一緒にやらねえ?」
「コンちゃん、どこ行くの?」
「紺野先生、だ!」
言っても言っても聞かない生意気な生徒達に、それでも一々言い返しながら校門までやってきた紺野は、
「あ・・・・・れ?」
思い掛けない人物の姿に、目を丸くして声を上げてしまった。
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