必定の兆し




19








 「あ・・・・・れ?」
 数メートル手前で立ち止まり、目を丸くしている紺野の想像通りの反応に、殺伐としていた宇佐見の感情が少しだけ和らいだ。
たった二度、それも町中で偶然会っただけの男が自分の職場に現れて、今の時代訝んだり、薄気味悪く思ったりしてもおかしくは
無いのだが、どうやら紺野はそんな感情を持ってはいないらしい。
感情が素直に出る表情には、本当に驚いたという色しか見えず、宇佐見は悪かったなと短く言った。
 「あ、いえ」
 「まだ残っていたのか、夏休みなのに」
 「ま、前も言ったでしょ?教師は夏休みだからって休むわけじゃないし、この時じゃないと出来ないこともありますしっ」
 「例えば?」
 「え?」
 「どんなことがある?」
 まさか、宇佐見がそこまで聞いてくると思わなかったのか、紺野は更に戸惑った表情になったが、それでも突き放すことは出来な
いらしく、少し口篭りながらも説明をしてきた。
 「片付けとか、指導の資料とか・・・・・クラブ活動の指導もあるし」
 「大変だな」
 比較的拘束時間も決まっている、型にはまった公務員だと思っていた教師は、宇佐見の想像以上に様々な案件を抱えている
職場のようだ。
 見掛けはまだまだ学生のような紺野も、厳しい顔で生徒達に臨むのかと思えば、どちらが教師か分からないかもなと思ってしま
い、宇佐見は思わず頬を緩めてしまった。




(う・・・・・目に毒な顔・・・・・)
 男前の笑みは凶器だなと思ってしまう。
この顔を見れば、先程自分に不審者の訴えをしてきた女教師も、きっと全く反対の感情を抱いたと思った。着ているスーツも、自
分の量販店で買ったようなものとは違うというのも見て分かる。
しかし、目の前のこの男は異性に対してよく見られたいという思いは無いのか(男前の特権だ)、顰め面をしている印象が強い。
(・・・・・あれ?だいたい、どうしてここに・・・・・?)
 警察官の、それも迎えの車が来るほどに地位のありそうな宇佐見が、たった1人、こんな高校の前に立っていることを改めて考え
ると不思議だった。
いや、
 「あのっ、まさかうちの生徒が何かっ?」
 考えられるのは、ある可能性だった。
警察官である宇佐見がここにいる理由。それは、自分の学校の生徒が犯罪に係わっている可能性だった。そんなことになっている
とすれば、自分だけで対処出来るかどうか・・・・・自然に紺野の顔は強張ってしまった。




 「・・・・・なんだ、それは」
 思い掛けない紺野の反応に、宇佐見は戸惑った。
 「え・・・・・だって、そうじゃないとこんなところに来る理由が・・・・・」
 「ああ」
(そちらか)
紺野が何を心配したのか分かり、宇佐見は苦い思いがした。
部下が付いてきていなければ、自分はただの一般公務員・・・・・そう思う気持ちがあったが、既に宇佐見の仕事を知っている紺
野がこの訪問に理由をつけようとすると、結局は仕事絡みの話になるのだろう。
 「通り掛っただけだ。聞いた高校の名前だと思って見ていたんだが・・・・・かえって迷惑だったか」
 紺野の顔を見れば、今日の後味の悪い出来事が相殺されるかもしれないと思ったのだが、それは単に宇佐見の方の言い分で
あり、教師である紺野の側から見れば、自分の存在が不審に思えても仕方が無い。
 「そちらの都合を考えていなかった」
 「宇、宇佐見さん」
 「・・・・・」
 そのまま、宇佐見は紺野に背を向けた。これ以上ここにいても仕方が無いし、かえって紺野に気を遣わせてしまうだろうと思って
のことだが、
 「待ってください!」
引き止める大きな声と、自分のスーツを掴んだ紺野の手に、宇佐見は自然と足を止めて振り返ってしまった。
 「どうした」
 「あのっ、お、わ、私は、別に、宇佐見さんのことを迷惑だと思ったわけじゃなくって!うちの生徒に何も無かったらそれでいいんで
す、あの、あなたが謝ることなんてないですからっ!」
 「・・・・・」
 「そういうこと、です」
 「・・・・・分かった」
 宇佐見は頷いた。
(不思議だな・・・・・言葉が耳に残る)
上面だけで話しているのとは違うと、言葉の響きだけで感じ取れた。以前、真琴があの男への想いを伝えてきた時・・・・・、

 「・・・・・宇佐見さん、俺は、多分何の力もないし・・・・・何時も怖がって逃げてばかりかもしれないけど、海藤さんの傍にいるって
いう幸せを失いたくはないんです」
 「どんなに、嫌なこととか、怖いことがあったとしても、俺は・・・・・海藤さんから離れません」

聞きたくないと思っていた言葉も、どうしてか脳裏に刻み込まれてしまったが、この紺野の言葉はそれと同じようにするっと心の中に
入り込んでくる。 その性格も、背景も、何も知らない相手にそう思ってしまうのが不思議だったが、確実に分かったことが一つ。
(やはり、来てよかった)
頭の中にこの顔が思い浮かんだのはなぜだろうかと思っていたが、きっと、自分がこういう思いになるだろうと無意識のうちに考えてい
たからだろうと今なら思える。
 「だが、まだ仕事中だろう」
 「え、ええ、まあ」
 「じゃあな」
 また・・・・・とは言わなかった。
再びこの男に会いに来たいと思うか、もう会うことも無いかと思うかは、今の時点では宇佐見自身も分からない。ただ、この出会い
が自分にとってはよい方向に向かうのではないか・・・・・今ではそんな風に思えていた。

 少し離れた場所に待たせてあった車の前まで来ると、運転手が下りてきてドアを開けた。
 「・・・・・」
普段ならばごく当たり前のことだと思ったその光景に、宇佐見はちらっと眼差しを向ける。
 「すまない」
 「・・・・・」
 唐突な言葉に、何時もは物静かな運転手の流れるような仕草が一瞬止まったが、直ぐにいいえと小さな声がして再び時間が
動き出す。
それはたった一言だったが、それでも何かが変わった瞬間だったかもしれなかった。







 「OK、ありがと」
 綾辻が携帯を切った。
それまで話していた会話を止めてそれを見ていた海藤に、綾辻はワンちゃんからの報告ですと切り出した。
 「さっき、監査が入って、例のを連れて行ったそうです。これで少しは犬小屋も綺麗になるんじゃないでしょうか」
 「・・・・・そうか」
(あいつの方は方が付いたのか)
 警察内部にまで手を入れることは自分達には面倒な作業なので、こうして自分達で方をつけてもらうと楽でいい。いや、これもし
ばらくの間だけだろうという予感はあるが。
 「お前の犬は大丈夫だったのか?」
 「お利口な子しか飼っていないですしね。まあ、何かあっても、こっちには関係の無いことですけど」
 この男のことだから、警察内部の情報を漏らした男と自分達の関係が分かるようなヘマはしていないことは確信出来る。海藤も
そのことに懸念は無かった。
 「でも、呆気なかったですね〜、もっと粘るかと思いましたけど」
 「所詮、小物だったんだろう」
 「そんなのが権力を握る立場にいるんですものね、怖〜い」
 「・・・・・それは、こっちの世界も似たようなものだがな」
 本人の実力とは関係なく、先代や周りの力で、のうのうと重要なポストに就いている者は多い。
海藤自身も風通しが悪いと感じることはあり、今の大東組の組長がそんな考えなので、今の理事で最年少の江坂や、羽生会
の上杉、日向組の日向、そして、自分などを上に上げたがっているようだが、それこそ名前が挙がった者達は昔とは違い、地位や
権力というものに固執する人間ではなかった。
 「ねえ、社長」
 考え込んでいた海藤は、名前を呼ばれて顔を上げた。
 「なんだ?」
 「もしかしたら、近々また選挙があるかもしれませんよ」
 「・・・・・」
 「今度は、逃げられないかも」
 「・・・・・そうかもな」
今回私欲で勝手に破門をした者に協力をした才川は、確実に降格をされるか、下手をすれば強制的に引退をさせられるだろう。
そうなれば、再び空く理事の席にと、無言の圧力が掛かることは考えられる。前回は煩わしい縛りに入っていくことを好まず、何と
か奇策で切り抜けたが、今回もその手が通じるかどうか・・・・・。
 「順序で言えば、上杉会長がなるのが順当なんだがな」
 「きっと、向こうも同じようなこと言いますよ」
 「・・・・・」
 「いっそ、2人共なっちゃえば話が早いと思いますけどね〜」
 理事になれば、相応の権力が手に入るが、その分今よりも動きにくくなる。
大東組という大きな組織の中で力を試すのは面白いかもしれないが、そのせいで誰より真琴に不利益が被るようになってはならな
い。
 「・・・・・それは上が決めることだな。今は炙り出す相手への制裁が先だ」
 「・・・・・出てきますかね、高橋」
 「どこかに顔は出すだろう」
(どこに行っても、誰も助けてはくれないだろうがな)
 既に話が組長のところにまで行ってしまえば、簡単に下の人間は動けなくなる。破門された者に手を貸すという危ない橋を渡ろう
とするような根性のある人間はいないはずだ。
 「綾辻」
 「はい」
 「真琴の身辺を厳重に固めろ。自暴自棄になった奴が何をするか分からない」
(馬鹿な人間は、上手くいかないと分かりきったことにも手を出すからな)
以前も、真琴を使って海藤を動かそうとしたことを考えれば、周りを全て切られてしまったあの男が、再び真琴に手を出すことは考
えられないことではなかった。
 そして、その海藤の考えを、綾辻も正確に分かっていた。
 「引き続き、アンちゃんとキーチをつけてます」
 「・・・・・」
海藤は頷く。用心に用心を重ねることは悪くは無いだろうが、今以上のことをして真琴を怖がらせることはしたくない。
そうでなくても、今回のことは真琴には全く関係なく、自分の火の粉が飛んでしまっただけなのだ。自分の背景のことに、これ以上
の恐怖を感じて欲しくなかった。
 「頼むぞ」
 「は〜い」
 「・・・・・」
 笑いながら言う綾辻を信用している海藤は、これ以上はもうこの話題を続ける必要はないと、中途半端に止めていた仕事を再
開した。