必定の兆し




20








 「・・・・・」
 はあと大きな溜め息をつきながら、真琴は休憩室の椅子に深く座り込んだ。
(・・・・・まだ、何かあるのかな)
今日も、帰りが遅いと海藤からメールが届いた。
忙しい彼の帰りが遅いことは珍しいことではなかったし、海藤の声にも態度にも変わった様子は無かったが、真琴の心の中に生ま
れてしまった疑惑は簡単には消えなかった。
 ここ数日の間にあった出来事。
海藤と、自分と、そして宇佐見を交えた関係を揶揄したような写真や電話の件は、綾辻と共にこのバイト先で会った尾高という
男が誤解からだったと頭を下げてくれた。
 綾辻も海藤も、全ての方は付いたと言ってくれたし、その後は特に変わったことは無かったのだが・・・・・。
(でも・・・・・なんか、雰囲気が・・・・・)
 「マコ!」
 「・・・・・あ、はい!」
外から声を掛けられて顔を上げた真琴は、ようやく休憩時間が過ぎたことに気付いて慌てて立ち上がる。気になることはまだまだあ
るが、とにかく今は仕事をしなければと、真琴は急いで店に戻った。




 「・・・・・」
 「・・・・・」
 カウンターで動き回る真琴の姿が見える場所に車を止めた城内は、後部座席に座っている安徳に声を掛けた。
 「来ますかね?」
 「・・・・・分からない」
 「・・・・・」
 「ただ、あまり良くない男らしいし、これだけコケにされて黙っているとは思えない」
 「馬鹿な男なんですね」
安徳と城内は海外に行くことも多く、海藤と高橋の諍いをリアルタイムで知っているわけではない。
綾辻から情報として受け取ったが、聞いた限りでは高橋は自尊心の強い、キレやすい人間に思え、その男が、今回のようなことを
捨て身でやったとしたら、それが全て駄目になった時の反動は大きいような気がしていた。
 「彼には、何も言ってないんですよね?」
 「言う必要は無いだろう。これはこちら側の世界の問題で、一般人の彼には本来関係ないことだ」
 「・・・・・まあ、そうなんですけどね」
 「・・・・・」
 取り付く島も無く黙ってしまった安徳に、城内も苦笑を頬に浮かべたまま黙った。
このまま、真琴のバイトの時間が終わるまでの2時間、車の中でじっと待機しているというのも立派な仕事だが、手持ち無沙汰で
あることも間違いない。
気休めに煙草でも吸いたいところだが、安徳は嫌煙派なので、それに合わせて城内もただじっと、真琴の姿を目で追うことにした。




 何事も無く時間は過ぎ、定時の午後11時少し前に真琴は掃除を始めた。
夏休み中はイートインに入る学生も多く、何時もよりはずっとゴミも多い。それらを掃除して一まとめにすると、
 「ゴミ捨ててきま〜す」
そう言うと裏口に向かった。
 店から10メートルほど離れた場所に、ゴミステーションがある。近隣の飲食店のゴミがいっせいに集まる場所だったが、皆が金を
出し合ってカラスや野良犬対策のための囲いをしている綺麗な場所だ。
 「・・・・・しょっと」
 中にゴミを入れて、ふと大通りの方を見れば、見たことがある車が1台停まっているのが分かった。
(何時から待っててくれてるんだろ)
今だ、海老原ではなく自分についてくれている安徳と城内。彼らがいなければまだ危険なんだろうか・・・・・そんなことを思っていた
時だった。
 「え?」
 いきなり車のドアが開き、2人が飛び出したのが見えた。
 「な、なに?」
距離から言えば30メートルも無いくらいか・・・・・それを自分の方へとやってくる2人の様子を不審に思ったのと、
 「ふむっ?」
背後から口を塞がれたのは、ほとんど同時だった。




 「電話です」
 ノックと共に綾辻が差し出したのは彼の携帯だった。
 「ホスト君から」
 「・・・・・」
(尾高か)
約束の時間にはまだ1日・・・・・いや、半日早いか。それ程男が必死になって自分との約束を守ろうとしたのかと思っても、そこに
同情の思いが生まれることは無い。
元々は、自分が蒔いた種だ。
 「揃ったか」
 ここに電話を掛けてくるというのはその用件しかないだろうと端的に言えば、妙に上ずった声がすみませんと言った。
 『どうしても、高橋が捕まらなくて・・・・・っ』
 「捕まらない?」
 『奴がアジトにしていたホテルも、連絡を取っていた人間も全て調べましたが、今日の昼から全く姿を消してしまってっ』
携帯を握り締める海藤の手が強張った。
小狡い男のことだ、とっくに自分が丸裸にされたことには気付いているはずで、後は地べたに這うほどに頭を下げて許しを乞うか、
あるいは捨て身の方法を取るか・・・・・。
(まさか、な)
 「他は皆揃っているんだな?」
 『は、い、例のことに係わっている奴は、サツの人間以外は・・・・・』
 「場所は綾辻に聞け」
 用件だけを聞いた海藤は、直ぐにその携帯を綾辻に渡すと、自分の携帯から真琴へと電話を掛けた。
時計を見上げれば午後11時少し前、まだ仕事中で、電話に出ることが出来なくてもおかしくは無いのだが・・・・・。
(・・・・・出ない)
無情にコール音が続き、自動的に留守番電話に切り替わったことに眉間の皺を深くすると、チラッと綾辻を見る。
 「・・・・・じゃあ、そこで仲良く待っててね」
 綾辻も早々に尾高との通話を切ると、直ぐにどこかに電話を掛けた。
 「・・・・・出ません」
 「・・・・・」
それが、真琴につけている安徳か城内に掛けているのだろうと考えなくても分かり、その彼らからの返答がないということは何らかの
緊急事態が起こっているはずだ。
海藤は無言のまま部屋を飛び出した。
(真琴っ)




 大きな手が容赦なく鼻と口を塞いだので、真琴は息苦しさに激しく暴れた。
 「ん〜っ、んんっ!」
 「煩いっ」
脅すような声は聞いたことが無い男の声だ。後ろを振り向いてその顔を確認しようにも身体は拘束されて動かず、どうしようと混乱
したままの真琴の目の前には、安徳と城内が駆けつけてきた。
普段、ほとんど表情の無い安徳が、眉を顰めてこちらを見ている。いや、その眼差しは自分の後ろを見ているのだ。
 「離せ」
 安徳の言葉に、
 「引くのはそっちだろう」
 「・・・・・
(さ、さっきと、違う声?)
自分を拘束している男とは違う声が、後ろから聞こえる。
 「彼は一般人だ」
 「ヤクザの女ってだけで、知らぬ顔は通らないだろう。誰にも執着しなかったあの男が、もう何年も一緒に暮らしてるんだからな。ど
んな女も手に入る海藤が執着してるってだけでも、それなりの価値はあるんじゃないか」
 男の言葉は、自分と海藤の関係を揶揄していた。
もちろん、真琴は自分達の関係を恥ずかしいと思っているわけではないが、こんな言葉で言い表せられてしまうと、何だか自分達
の関係があまり良い類のものではないように感じてしまった。
 「んっ」
 息苦しさと、今の言葉への混乱と、真琴は自分の身体を拘束している手に爪を立ててしまい、
 「・・・・・っ」
舌を打った男は、今度は塞いでいた手を下にずらし、真琴の首を掴んできた。
 「暴れるとこのまま絞めるぞ」
 「・・・・・っ」
 「真琴さん、動かないで」
 男の言葉を本気に取ったのかどうか、安徳が真琴を真っ直ぐに見つめながら言う。
恐怖と、心細さに、真琴は顔面蒼白になってしまったが、大丈夫ですと続けて言ってくれた安徳の言葉に縋るように、瞬きをして
答えてみせた。
 普通の感覚ならば、こんな街中で危害を加えられるとは思わないのだが、自分の首に掛かる手の力も、話す男の声も、とても
冗談ですと笑って言うとは思えない。
まだよくわけが分からないままだったが、真琴は安徳と城内の邪魔にならないように、息を殺しながら大人しくしていなければと必死
に自分に言い聞かせた。




(本当にここまでするとは・・・・・)
 どう考えても先が無い男のすることではないと思うが、追い詰められた人間というのは何を考えているのか分からないと、安徳は
目の前にいる2人の男を見た。
1人は、写真で見た高橋に間違いが無い。少し痩せ、表情にも余裕が無いせいか狡猾さがより鮮明に見えるような人相になっ
ていた。
 もう1人は見覚えが無いが、
 「有田、ここで馬鹿な暴走はするな」
 「・・・・・はい」
 「・・・・・」
(有田・・・・・って、元一条会の、高橋派の人間か?)
海藤とのいざこざで破門をされた高橋。その高橋が背負っていた一条会は、元若頭の今井が引き継いだが、高橋派と呼ばれて
いた組員はかなり流れて、その多くは尾高の率いる八塚組にいるらしい。
その中でも特に高橋の片腕とまで言われていた男が、確かそんな名前だった。
 力の無くなった男に今だ付いていくのかと思えば哀れで仕方が無いが、今の状況を考えればとても同情は出来ない。
馬鹿な人間についていったと、後で自分自身が後悔するだけだろう。
 「条件は」
 ここで真琴に手を出してきたというのは、高橋にとっても最後の勝負だろう。その理由を先ずは聞くといった視線に、高橋は痩せ
た頬を動かした。
 「海藤を呼べ」
 「・・・・・」
 「女がいると言えば、急いでくるんじゃないのか?」
 苦々しく言う高橋の言葉に、安徳は無言のまま携帯を取り出す。液晶に並んだ着信の数に、あちらでも異変を感じ取ったのか
と思いながら、慣れた番号を押して相手が出るのを待った。