必定の兆し
21
カチャ
小さな音がしてドアが開き、先程出て行った真琴が戻ってきた。
5分も掛からずに戻ってくるゴミ捨てに10分も掛かったことに少し不思議に思ったチーフが声を掛ける。
「マコ、どうかしたのか?」
「あ・・・・・え、っと」
真琴は少し口篭っていたが、直ぐにすみませんと言ってきた。
「あの、ちょっと気分悪くて・・・・・まだ片付けが残ってるんですけど、帰ってもいいですか?」
「大丈夫か?」
確かに、先程までは何時もと変わらず(少し元気は無かったが)に働いていたが、今の顔色は随分悪い。チーフは後は任せて早く
帰れと真琴の背中を押した。
「すみません」
「いいから、真っ直ぐ帰るんだぞ」
真琴には迎えの車が来ていることは分かっているので、この後はかなり過保護らしい保護者に任せておけば良いだろう。
それでも、この店の看板息子で、皆の癒しの存在である真琴の身体のことが心配で、チーフは何度も頭を下げる真琴に向かい、
くれぐれも大事になと言った。
狡賢いなと思う。
いきなりバイト先から真琴の姿が消えてしまえば、警察沙汰になってしまうかも知れないからと、男は不審を抱かれないように出て
来いと言った。
「下手な真似をしたり、逃げようとしたら、こいつらがどうなるか分かっているな?」
拘束された安徳と城内を見れば、彼らは一様に首を横に振った。
戻ってくるな・・・・・言葉ではなく態度でそう言われているようだったが、真琴は彼らを置いて自分だけが逃げることは出来なかった。
元々男達の目的は自分で、安徳達は自分を守る為に傍にいて巻き込まれた形だ。いくらそれが彼らの仕事だとはいえ、自分の
行動次第で誰かが傷付くのは嫌だ。
「・・・・・」
急いで着替え、ロッカーを閉めた真琴は一度大きな深呼吸をした。
早く店を出なければ男達が妙な誤解をするかもしれないと分かっていたが、どうしても一度気持ちを落ち着かせるために深呼吸を
したかった。
「・・・・・大丈夫」
(自分の出来ることだけ、ちゃんとやろう)
分不相応に、安徳達を助けようと動く方が、彼らを余計に危険に晒すことになってしまうだろう。それならば、彼らの邪魔にならな
いように、自由に動けるようにしておこう。
真琴は改めてそう決意をすると、鞄を持ってドアを開けた。
綾辻の携帯に連絡が入ったのは、海藤が乗ったエレベーターが地下駐車場に着いた時だった。
「社長!」
自分の携帯が鳴ったことに気付いた綾辻は、今まさに車に乗り込もうとした海藤を鋭い声で呼び止め、そのまま液晶の名前を確
認して出る。
「どうしたの~、アンちゃん」
何時もの調子で電話に出ると、すみませんと向こうも常と変わらない調子で答えてきた。
『社長にお会いしたいとおっしゃる方がいらっしゃいまして』
「誰?知ってる人?」
『・・・・・社長の、旧知の方だそうです』
既に海藤は綾辻の傍にいて、同じように携帯の声に耳を澄ませている。ちらっと視線を向けると、海藤が頷いて見せた。
「アンちゃんも知ってるでしょうけど、社長は忙しい人なのよー?よっぽど親しい人じゃないと、なかなか時間空けられないけど」
『・・・・・真琴さんも、いらっしゃいますから』
「・・・・・マコちゃんも?」
『時間、割いていただけますよね?』
安徳がこんな言い方をするのには理由があるはずだ。
(意外に素早かったわね)
尾高が動き回る前に、既にあの狡猾な男・・・・・高橋は、自分の生き残りのために動き回ったようだ。
電話ではっきり名前を出すということは、今の時点で真琴の身柄も押さえられていると思ってもいい。そこまで考えた綾辻は分かっ
たわと答えた。
「場所は?」
そして、今、綾辻は車を走らせている。
後部座席に座っている海藤は腕を組んで目を閉じているが、その感情が爆発寸前に荒ぶっていることはヒシヒシと感じられた。
(克己に何も言ってこれなかったけど・・・・・)
あれから直ぐに車を走らせたので、まだ事務所に残っていた倉橋に連絡する暇も無かった。
「・・・・・」
車が向かっているのは、成田空港だ。多分、海藤と話を着けた後、高橋は海外にそのまま逃亡するつもりなのだろう。さすがに、
このままもとの地位に戻れるという甘い考えは無いようだ。
(アンちゃん、キーチ、頼むわよ・・・・・)
今、一番に優先するべきことは真琴の身の安全だ。
ヤクザではない彼が擦り傷さえ負わないよう、その身体を守ること。綾辻は自分の胸元に潜ませている物が熱く存在を示している
ことに苦い思いを抱いていた。
(これを使う事態にならなかったらいいんだけど・・・・・)
目隠しされず、身体も拘束はされなかった。
8人の乗りのバンタイプの車に、自分と、安徳が乗せられ、運転手の他に3人の男が乗り込んでいた。
城内は別の乗用車に乗せられ、どうやらこの車の後ろをついてきているようだが、それを確かめるために振り向くことは許されていな
い。
「・・・・・」
自分がどうして拘束されないか・・・・・それは、自分の代わりのように後ろ手に手を縛られ、目隠しをされている安徳の存在のせ
いだ。
自分が何か不審なことをすれば、安徳に危害が加えられると言われた真琴は、見た目は何もされていないものの、身体中を雁字
搦めにされている気持ちだった。
「・・・・・まさか、まだお前と暮らしていたとはねえ」
その時、男・・・・・高橋が、皮肉気に口を歪めながら言った。
「あの時も、男相手にと思ったが、まさかそのまま一緒に暮らしているとはな。そんなに男が良いのか?」
「・・・・・っ」
男のねっとりとした視線が全身に走るような気がして、真琴は背筋に冷や汗が滲んだ気がする。誰も彼もが男相手に、それも自
分のように平凡な容姿の男に手を出そうと考えるとは思わないが、海藤相手に恨みを持っているのならば、もしかして・・・・・そんな
危機感があった。
「おい、自分ではどう思う?」
「・・・・・わ、分かりません」
「・・・・・頭のいい奴は何を考えてるのか分からんな」
吐き捨てるように言った高橋は、運転手に向かって急げという。
どうやら自分にはあまり関心が無いらしいと分かり、真琴は思わず安堵の息をついた。
「ここです」
どのくらい車が走ったのかは分からなかったが、車の停まった振動と綾辻の言葉に、海藤は閉じていた目を開いた。
そこは、空港の滑走路が見える市道だ。昼間ならばまだ車が行き交う場所だろうが、深夜の今の時間帯にはその数は全くといって
いいほど無く、当然人影も無い。
「相手は車か」
「多分そうでしょうね・・・・・あ」
指定された場所から少し離れた場所に、バンタイプの車がやってきて停まった。
その後ろには1台の乗用車も停まって、その後部座席が無造作に開けられ、中から2つの人影が出てくるのが分かった。街灯も離
れているので、なかなかそれが誰なのかは分からなかったが・・・・・。
「キーチ」
その姿が街灯の下にやってきた時、自分の前に立っていた綾辻が呟いた。
その通り、人影のうちの1人は城内だった。目隠しと猿轡をされ、両手は後ろ手に拘束されたその姿に綾辻は眉を顰めているが、
海藤はじっと2台の車の方に視線を向けたままでいる。
「・・・・・」
(真琴・・・・・)
拘束された城内の姿はもちろん視界に入っているが、海藤は先ず真琴の姿を確認したかった。それは、城内の存在を軽んじて
いるというわけではなく、自分が信頼する綾辻の下で働いている彼らのことは無条件で信頼しているからだ。
どんなにギリギリの状態になっていたとしても、それを切り抜ける才覚がある・・・・・そう信じているからこそ、海藤はそんな耐性の無
い、本当に普通の生活を送っている真琴の方が気になった。
「・・・・・」
城内の手を拘束している物を持って傍に立っているのは高橋ではないようだ。崖っぷちの高橋に付いている大柄なこの男は、多
分尾高の組にいると言っていた高橋サイドの人間だろう。
(こんな男に付いて、自分の未来も消えると思わなかったのか)
「・・・・・高橋」
海藤は口を開いた。
「真琴はどこだ」
「社長」
「いい」
前へ出た海藤を庇うように綾辻が動き掛けたが、海藤はそれを制した。
今ここで銃で狙われていたとしても、海藤は自分が死ぬとは思わなかった。無事な真琴をこの腕に抱くまで、自分が倒れるはずが
無い。
「呼び出したのはそちらだろう。それとも、この期に及んで話すことは無いとでも言うのか」
静まり返ったその場に、海藤の低い声が響く。
すると、ガラッとバンのドアが開く音がした。
「いいえ、わざわざ来ていただいたんだ、話したいことはたくさんありますよ」
「・・・・・」
忘れたと思っていた声。しかし、どこか皮肉と媚が混ざったようなその声を聞いた途端、海藤の脳裏には以前真琴を盾に自分に
取引を持ちかけてきた男の顔と声が一瞬で蘇った。
(まだ・・・・・チャンスがあると思っているのか)
自分と対面するなり、その命を奪おうとどんな手段を講じてくるのかと思ったが、高橋はまだ自分が助かる道を探り、その上で自
分を呼び出したらしい。
その方法はかなり場違いだし、その考えもあまりにも愚かだった。
「真琴は」
「早速女の心配ですか?開成会の会長ともあろう男が・・・・・」
「真琴はどこだ」
高橋に次を話させることもなく、海藤はそう続けた。暗闇のせいでその表情の変化は分からなかったが、肌に感じる気配は剣呑
なものになり、
「生きてますよ、今は」
そう言いながら、高橋は後部座席から誰かを引きずり出す。
「・・・・・っ」
小さな痛みを訴える声に、海藤の緊張感が一瞬緩んだ。殺すはずは無い・・・・・そう思いながらも、本当に無事かどうかを確認
するまで、少しも安心することが出来なかったのだ。
(生きていた・・・・・)
今はその事実が本当に嬉しくて、海藤は安堵の息が漏れそうになるのを拳を握り締めて抑えた。
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