必定の兆し




22








 自分達と、城内の距離は30メートルほど。
その向こうの、真琴と高橋がいる場所までは更に10メートルほど先だ。
(少し遠いわね)
 安徳の心配はしていない。繊細な美貌をしている割に、あの男も一通りの武術は心得ているし、それは城内も同様だ。
それよりも、真琴だ。悪い意味ではなく、何も出来ない真琴の身の安全を完全に確保するには、せめて城内くらいの距離には近
付いた方が良い。
 「社長」
 綾辻は小声で海藤の名を呼んだ。
 「もう少し、向こうを引き付けて欲しいんですけど」
 「分かった」
海藤も、綾辻と同じようなことを考えたのだろう、直ぐに肯定の頷きを返してきた。
多分、今の海藤の頭の中には、開成会の会長という自分の立場というのはすっかり抜け落ちているだろう。今はただ、真琴の安
全しか考えられない・・・・・それも十分分かる綾辻は、黙って海藤の動きを待った。




 真琴を巻き込んだと分かった時から、海藤は高橋を許すつもりは無かった。
以前も真琴を利用して自分に擦り寄ろうとした時、あの時もそんな男を許せずに追い詰めたが、それでもその命を奪おうとは思わ
なかった。それは、そこまでする価値の無い男だと思っていたからだ。
 しかし、そうやって見逃した結果、再び真琴を危険な目に遭わせいる。高橋を許せないと思う以上に、海藤は自分自身の甘さ
が許せなかった。
 「俺に何の話がある」
 今回は、無傷で逃してやる気は無い。
自分に、いや、真琴に手を出したことを後悔させるつもりで、海藤は低く声を出した。
 「あんたのおかげで随分鍛えられたよ、海藤会長。それで俺も、ようやく人並みに欲というものが出てきてね」
 「・・・・・」
 「あんたと、こいつの命を奪おうなんて馬鹿なことは考えてない。どんなに殺してやりたいと思うほどに憎んでいても、殺せば俺はサ
ツからもお前の組織からも一生追われ続ける。風の物音にもビクビクする生活はうんざりだ」
 「・・・・・」
(・・・・・甘い)
 多分、この男の言いたいことは予想がつく。だが、海藤だったらこれからの自分など考えず、目の前の標的だけを追い詰めるため
に動く。
何年も日陰で暮らしてきたくせに、誰かの庇護があったこの男にはそこまでの飢餓感が無かったのだろうう。
それが・・・・・命取りになった。
 「要求は」
 「1億」
 「・・・・・」
 「現金で直ぐに用意出来るものはそんなものだろう。開成会の事務所にはそれくらいあるよな?」
 月に一回の上納金の額や、表の会社の売り上げなどを考えての金額だろうが、海藤は予想外の低い金額に口元を歪めて言
い放った。
 「そんなはした金でいいのか」
 「何?」
 「そんなものでいいのかと聞いている。うちの事務所には現金はもっとあるが」
 海藤の言葉に、真琴の身体を拘束している高橋の身体が揺れたのが見て取れた。男の目的が金だけにあると分かれば、海藤
も選ぶ言葉は一つだ。
 「真琴と、2人の部下の命だ、10億、これでいいか」
 「じゅ・・・・・っ」
 予想外の金額だったのか、今度こそ明らかに高橋の言葉が震えた。
現金で10億、それを持って海外に出ることは事実上困難だと考えれば分かることだろうが、その金額で既に高橋の計算は微妙
にずれてきているはずだ。
その様子を肌で感じて、海藤は一歩足を踏み出した。
 「お前の目的は金だろう。後の交渉は俺と直接すれば良い。真琴を離せ。それと、もう1人連れて行っているだろう。無事かどう
か、その姿を見せろ」
もう一歩、足を踏み出す。
 「それとも、金も命も、同時に失うか?」
更に、一歩。
 「会長っ!」
 海藤の動きを前にいた大柄な男が見咎めて叫ぶ。
しかし、高橋は止めろと声を掛ける前に、自分が降りて来たバンの中へと声を掛けた。
 「おい、その男も出せ」
 「いいんですか?」
 「生きているってことを見せないとな。お前達も貰う金が多い方がいいだろう」
 「・・・・・」
金という言葉に、残っていた危惧も消えてしまったのか、反論する言葉は消え、間もなくバンの中から数人の男達の姿が現れた。
城内と同様に後ろ手に拘束され、その上目隠しまでされた安徳。だが、動けないほどに身体を痛めつけられているというわけでは
ないらしい。
 今のヤクザの形態は、その資金源からも変わってきていると言われているが、組織の中もかなり変化してきている。
呆気なく、誰彼構わず命を奪う馬鹿なチンピラ達がいれば、こんな事態にも動けないほどのリンチを加えないで、のこのこと人質を
連れてくる愚かな男達もいる。
 面子よりも金。それは、もしかしたら下っ端の組員達よりも、ある程度の権力を持った者達の方がその傾向が強いかもしれない
と思う。
 以前、自分に擦り寄ってきたのは大東組内での自分の地位向上のためだったが、そんなかせが無くなった今、高橋の頭の中に
あるのは金だ。それさえ確保出来れば、自分に協力をしてくれた警察の人間も、大東組の理事も、そして元の部下達も、この男
にはきっと関係ないのだろう。
 「見えるか、海藤」
 「・・・・・せめて、その街灯の下に立たせてくれ」
 「・・・・・」
 多少近付いたとはいえ、海藤との距離はそれでも20メートル以上ある。
それに安心しているのか、高橋は真琴と安徳を城内のいる街灯の下まで連れて来た。
 「これで、お前の女の顔が見えるか、海藤」




 目の前に海藤がいる。
その姿に安堵した真琴は、力が抜けそうになる足を必死で踏ん張った。
(綾辻さんと2人、だけ?)
綾辻も海藤も、自分などより遥かに強いことは分かっているが、それでもこちら側には男が6人いる。
(それに、俺だけじゃなくって、安徳さんや城内さんは拘束されているし・・・・・)
 「真琴さん」
 その時、小さな声で城内が自分の名を呼んだ。
男達は海藤と綾辻に注意を向けていて、拘束している城内には注意が行っていないようだった。
 「ゆっくりと10数えて、そのままバンの影に走って隠れて下さい」
 「え?で、でも」
 「今からですよ、はい、10」
 いったい、どういう意味なのかは分からなかったが、真琴は城内に言われた通りに頭の中で数を数え始めた。
拘束をされていないとはいえ、自分の腕は高橋が掴んでいて、言われた通りに逃げることが出来るかどうか分からないが、それでも
指示された通りに動くことが、今の自分の出来ることだと思った。
(・・・・・5)
 「金の受け渡しの相談に移るか」
(・・・・・3)
 「真琴、心配するな」
(・・・・・っ、1!)
海藤の言葉に泣きそうになった瞬間、
 「ぐぁっ!」
男の鈍い声と共に自分の腕を拘束する手が離れ、真琴は必死でさっきまで乗っていたバンの影へと走った。




 「行くぞ」
 海藤がそう言ったと同時に走り出す。
それに反射的に銃を取り出そうとした向こう側の男達が、城内と安徳の蹴りで地面に膝を着いた。
2人共、縄抜けなど容易に出来ることを今まで上手く隠していたようで、パラッと足元に落ちた縄を、男達は驚愕の眼差しで見て
いる。
 「ふふ」
 打ち合わせをしていたのか、安徳達が動くと同時に、真琴は後方の車の方へと走り出した。
その真琴に向かって手を伸ばそうと背中を向けた高橋に向かい、綾辻は笑いながら胸元から銃を取り出して、消音にしているそれ
で躊躇い無く高橋の太股を打ち抜いた。このくらいの距離ならば外すことは無い。
以心伝心というのはこういうものだと思った時、海藤はもう倒れた高橋の胸倉を掴んでいた。
 「社長、殺さないで下さいよ。後片付け大変だから」
 「・・・・・っ」
 「・・・・・」
 安徳達を加勢するために走り寄りながら言った綾辻のその言葉に、明らかに動揺した様子の高橋とは反対に、海藤は無言のま
ま凍えた眼差しを向けている。
(あ〜あ、知らないから)
ここまで怒らせた自分が悪いのよと言いながら、綾辻は落ちた拳銃を拾おうとした男の手を、遠慮なく足で踏み潰した。
 「ぎゃあ!」
 「煩い、近所迷惑よ。骨が砕けたくらいで男が泣かないの」
それとも口をきけなくしてあげましょうかと言うと、涙を流しながら男は口を噤んだ。
 「やれば出来るじゃない」




 怯える男の目に映っている自分の顔は、人形のように表情が無い。全ての感情を消し去ってしまったのだろうと冷静に自分の感
情を考えながら、海藤は真っ白になった男の顔を見下ろした。
 「こうやってお前を見下ろすのは二度目だな」
 「や、やめ・・・・・っ」
 「前も、同じようなことを言った」
その言葉を叶えてやったわけではなかったが・・・・・今となっては自分の判断に後悔をする。
 「か、海藤、治療を、して・・・・・」
 「治療?」
 「足、足を撃たれ・・・・・た!」
 見下ろせば高橋の太股から血が流れていたが、海藤は無言のまま空いている手で撃たれた部分をグッと掴んだ。
 「うぐぁ・・・・・っ!」
痛みに呻いた高橋は額に脂汗を浮かべる。そのまま気を失いそうに白目を剥こうとした男に更に痛みを加えた海藤は、今この場で
楽にしてやろうとは思わなかった。
 「前回は見逃したが、そのせいで真琴を怖がらせることになってしまった。今回は覚悟しろ」
 「もっ、もうっ、二度、と、来ない!」
 「お前の希望は聞いていない」
 海藤は傷付いた足から手を離す。その手には、赤い、汚い男の血が付いていた。
(こんな手じゃ、真琴に触れることが出来ない)
しかし、海藤はこのまま胸の中に湧き上った残虐な思いを消すことは出来ない。
尾高の時もそうだった。綾辻が声を掛けて止めなければ、あのまま尾高の息が止まるまで首を絞めていたはずで・・・・・しかし、今
回は、綾辻が何と言っても手を止めることが出来そうに無い。
 「人を傷付けるのと、自分が死ぬのと、どちらが簡単だと思う?」
 「や、やめ・・・・・」
 「答えは簡単だ。手加減をしなくてもいい方」
そう言うと、海藤は高橋の襟元を突き飛ばして地面に仰向けに倒し、自分の胸元から銃を取り出して、脂汗の滲んだ額に突きつ
けた。