必定の兆し




23








(ゆ・・・・・めじゃ、ない・・・・・)
 必死に、今自分が乗せられてきたバンの影まで走って隠れた真琴は、今目の前で繰り広げられている光景に息をのんだ。
肌がささくれ立つほどの恐怖を海藤に対して感じているなどとは信じたくないが・・・・・真琴は声を掛けることさえ出来ない自分が
いることに愕然とした。
 今までも、何度か危ない目に遭った。
そのたびに海藤が助けてくれたし、相手に対して彼が怒りを向けた姿も何度も見た。
 去年の暮れに、突然出会った中国マフィア、香港伍合会(ほんこんごごうかい)のロンタウ(龍頭))、ジュウの時も。
それ以前、九州にいる海藤の実父の見舞いに行った先でも。
その、もっと前、今目の前にいる男が、女を利用して真琴に近付いた時も。
 いずれの時も、海藤は真琴のために怒ってくれたが、そのどの時も、彼は理性というものをきっちりと持っていて、怖いと思ったもの
の、それ以上の恐怖までは感じなかった。
なにより、海藤がそれ程怒りを感じたのは、自分の為だということが分かっているからだ。
 しかし、今目の前にいる海藤は・・・・・血に濡れた手で銃を握り締めている彼の目には、目の前の男しか見えていない。真琴の
ことも、他のことも、いっさいその目には映っていなくて、真琴はどうしていいのか全く分からなかった。
 「社長!」
 「・・・・・」
 硬直してしまった真琴の耳に、不意に綾辻の声が届いた。
 「ここじゃ駄目ですって!」
 「・・・・・」
 「社長!」
何時の間にか、海藤が向き合っている男達以外の者は地面に倒れていた。拘束されていたはずの安徳と城内も、縛られていた
縄を解いて綾辻に加勢したようだ。
 その綾辻が、海藤の銃を握っている手を押さえようと手を伸ばすのが見えたが、
 「・・・・・黙っていろ」
 「社長」
 「一度逃がしてこの様だ。二度を許すつもりはない」
綾辻の制止に耳を貸そうとしない海藤は、男の額に押しあてた銃を下そうとしない。
人差し指を動かせば、男の命は直ぐに終わる。そんなギリギリの緊張感に、真琴は無意識のうちに涙が零れた。




 真琴を苦しめた相手を、一瞬で楽にしてやるつもりは無い。
海藤は、既に恐怖を超えて虚ろになってしまった眼差しを自分に向ける高橋に向かって、ピクリとも銃を動かそうとはしなかった。
 「怖いか?」
 「・・・・・」
 「落ちるなよ。正気のまま、死んで行け」
 「・・・・・」
 この男の命くらいで手を汚すのは情けないが、もう二度と生きて空気を吸わすつもりはない。
この後のことは、この男を殺して考える・・・・・海藤はグリップを強く握り締めた。
 「・・・・・」
安全装置は始めから外している。もう、十分高橋は恐怖を感じただろうと、海藤が引き金を引こうとした瞬間だった。
 「・・・・・っ!」
 いきなり、銃をもった自分の腕にしがみ付く者がいた。
 「・・・・・真琴」
何も言わず、銃ごと自分の腕に抱きつく真琴は泣いている。その時になって、ようやく海藤は真琴の様子に気付き、離れろと出来
るだけ優しく言ったつもりだった。
自分の手は、この汚い男の血で汚れている。綺麗な真琴を汚すことなどしたくなくて、海藤は綾辻を振り返って言う。
 「真琴を連れて行け」
 「社長」
 「車の中に・・・・・」
 「やだ!」
 ようやく、真琴が叫んだ。
 「止めてくださいっ!」
 「真琴」
 「止めて・・・・・っ」
 「・・・・・」
声を詰まらせ、泣きながらそう訴えてくる真琴を、海藤は困惑しながら見つめることしか出来ない。
その身体を言葉で突き放すことも、血で汚れた手で引き離すことも出来ず、どうしようかと海藤は当惑してしまったが、それでも高
橋の額から銃口を外すことはしなかった。




 無意識のうちに身体が動いていた。
怖くて、大好きな人のはずなのに、その凍えた無感情な目を見るだけで身体は震えそうになってしまったが、それでも自分の目の
前で海藤に人殺しをさせられなかった。
 海藤の生業が何か、真琴だってよく分かっているつもりだ。誰も傷付けないで欲しいというのは、自分の甘い考えだということも十
分分かっている。
それでも・・・・・自分を抱きしめてくれる優しい手を汚して欲しくなくて、真琴はその思いだけで海藤の傍へと駆け寄った。
 「・・・・・っ」
 声は、出なかった。
ただ、銃を持った手にしがみ付いているしか出来ない。
 「真琴を連れて行け」
 海藤が誰かに言っている。しかし、真琴はこの手を離すつもりは無かった。
 「やだ!」
何とか、それだけを叫んだ。
 「止めてくださいっ!」
どうしたら、海藤が思い留まってくれるのかは分からない。それでもこのまま自分がしがみ付いていれば、海藤は銃を撃たないので
はないかと思った。
 「真琴、この男は生かしておけない。お前の優しさを踏みにじることは分かっているが・・・・・」
 「俺はっ、この人を助けたいんじゃないんです!」
 「・・・・・」
 「海藤さんにっ、人を殺して欲しくないから・・・・・っ」
 その手で誰かを殺してしまったら、海藤はもう自分のことを抱きしめてくれないような気がする。汚したくないからと、自分なんかを
気遣って・・・・・優しい彼は、きっと・・・・・。
それだけは嫌だ。どんなに海藤のことを怖いと思っても、真琴はこの手を離したくなかった。
このまま、手を噛んででも銃を放すようにしなければとまで思い込んだ時、
 「!」
いきなり海藤の胸に抱きこまれたかと思うと、眩しいヘッドライトが自分達に向かって当てられた。
(な、何っ?)




 真琴をどう自分から引き離そうかと考えていた海藤の耳に、何台もの車の音が聞こえた。
(通報されたか)
いくら人気のない真夜中とはいえ、空港に出入りする人間は皆無ではない。その誰かが自分達の様子を見て警察に通報したの
かもしれないと思った海藤は、とっさに真琴を抱きしめてしまった。
 そうでなくとも全く関係のない真琴の顔を警察に見せたくないと思ったのが先だが、次にはどうやったら真琴をこのまま逃がすことが
出来るかと考えた。
 気は進まないが、この銃を真琴に向け、ヤクザの抗争に巻き込まれた被害者という立場にするのが一番良いかもしれない。
後の処理は、宇佐見に一任するか・・・・・そこまで考えた海藤だったが。

 キキーッ・・・・・・・・・・ガチャ

車の急ブレーキの音と共にドアが開く音がして、
 「そこまでにしたらどうだ、海藤」
この状況を見ても全く変わらない、聞き覚えのある冷静な声に、海藤は張り詰めていた気配を解いた。

 海藤は顔を上げ、自分の背後を見た。
数台の車から降りた十数人の男達。スーツ姿で強面の男達を背後に従えたその人は、海藤の姿を見下ろして言う。
 「お前らしくないな」
 「・・・・・」
 「もっと、スマートに解決出来なかったか」
 「・・・・・すみません」
 「まあ、いい。少し遅いかもしれないが、今回の件については、薬に関係する内部の者を炙り出すのには役に立った。その男の
身柄は大東組本部で預かる、いいな?海藤」
 「江坂理事・・・・・」
 開成会の上部組織である大東組の最年少理事、江坂凌二(えさか りょうじ)は、僅かに口角を上げた。
 「心配するな。もう二度と、この男がお前の前に現れることはない」
 「・・・・・」
どうしてここに江坂がいるのかという大きな疑問が残るものの、海藤はしっかりと頷いた。江坂は出来ないことを口にする男ではな
いと分かっていたからだ。




 いきなり現れた黒塗りの車の列。
綾辻は向かってきた男達を足蹴にしたまま、その動きを見ていた。背中を向けている海藤は気付かなかったと思うが、綾辻はそれ
が直ぐに自分達と同類の人間だということが分かったからだ。
すると、
 「あ」
 車から出てきた江坂の姿に思わず声を上げたが、その後ろから現れた姿に更に目を丸くしてしまう。
(克己?)
夜目にも、緊張した表情が分かる倉橋は、真琴を抱きしめている海藤の姿にホッと安堵したように表情を緩めた。自分よりも先
ず海藤の安全を確認する彼には後で言いたいことはあるものの、今はとりあえず安堵したという気持ちが大きい。あのまま海藤を
止めることが出来るかどうか微妙だったからだ。

 「今回の件については、薬に関係する内部の者を炙り出すのには役に立った。その男の身柄は大東組本部で預かる、いいな?
海藤」

(あ・・・・・そういうこと)
 今の江坂の言葉で、綾辻は全て分かったような気がした。
何も告げずにこの場所に来た自分達を探したのは倉橋だ。自分と海藤の携帯にはGPS機能が付いてあるし、車にも居場所が
特定出来る機能が付いている。
 それを追いながら、倉橋は江坂に連絡を取った。きっと、こういう事態になるかも知れないという危惧を抱いたために江坂に助け
を求めたのだろうが、結果的にそれは正解だったということだ。
 「申し訳ありません、勝手なことをしました」
 倉橋は海藤のすぐ傍に膝をついて頭を下げる。
幾ら私的に付き合いがある江坂で、今回のことが大東組の理事を巻き込んだものとはいえ、勝手に動いた海藤の進退を憂う事
態になる可能性もあるはずだった。その上で、自分の独断で江坂をこの場に呼んでしまったことに、倉橋は申し訳ないと思っている
のだろう。
 「しかし、どうしても社長の手を汚すことは出来ません」
 「倉橋・・・・・」
 「どうしてもこの男の息の根を止めたいと思われるなら、その役目は私に任せてください」
 「・・・・・」
(あらあら、それは私の役目よ、克己)
 実際に高橋の足を撃ち抜いたのは自分だし、汚れ役は慣れている。人を傷付けることに慣れていない、いや、出来ない倉橋に
その任は重いはずだ。
 「理事〜、悪いことなら私が全部しちゃうから」
ね、と、ウインクしながら言っても、江坂は眉一つ動かさなかった。
 「出来ることを言っても冗談には聞こえないぞ、綾辻」
 「・・・・・は〜い」
(反応少ないと面白くな〜い。静(しずか)ちゃんが絡んでないと、本当につれないんだから、この人)
それでも、ここに本部の人間が出てくるということは、今回の件は自分達の手から離れたということで、綾辻は内心ホッとして海藤
を見つめた。