必定の兆し




24








 倉橋は海藤の顔を真っ直ぐに見つめてその審判を待った。
自分の直ぐ後ろには、まるで守るように綾辻が立ってくれるのが分かる。しかし、今の倉橋は自分1人で全てを受け入れるつもりで
いた。
 「・・・・・」
 「・・・・・倉橋」
 「はい」
何を言われても頷くつもりで、倉橋は返事を返した。




 廊下の慌しい気配に気付いて倉橋が部屋の外から出た時、丁度エレベーターのドアが閉まって下に下りていくところだった。
(・・・・・社長?)
悪い予感がして、倉橋はその足で海藤の部屋へと向かったがそこには望むの姿はなく、続いて行った綾辻の部屋にも彼の姿はな
かった。
直ぐに1階の事務所に行ったがそこにも2人の姿は見えず、はっと思い当たってパソコンを開いた倉橋は、そこでようやく車が動いて
いるのが分かった。
(1人・・・・・いや、2人だな)
 GPSを確認するまでもなく、倉橋は海藤と綾辻が共に行動していることを確信し、一言も自分に声を掛ける暇も無いほどの緊
急事態が起きたということも察しがついた。
 「倉橋幹部っ」
 「どうしたんですかっ?」
 「幹部っ!」
 「・・・・・」
 組員達の声を聞きながら、倉橋はじっとパソコンの画面を見つめる。
自分が今すべき行動は何か、倉橋は考えていた。通常、海藤の命令には絶対服従し、彼の意図に沿うように行動することを信
条としているが、今ここに海藤がいたとしたら自分にどんな命令を下すだろうか。
携帯に電話を掛けたらその声を聞けるかもしれないが、それは今の海藤にとって邪魔なものではないだろうか。
 「・・・・・倉橋幹部」
 「・・・・・」
 もう一度自分の名前が呼ばれた倉橋は顔を上げ、自分の携帯を取り出して番号を押した。ほとんど掛けることはない相手、そ
れもこんな遅くに電話をするのは非常識だとは分かっていたが、倉橋はこの相手に連絡するのが今一番正しい答えなのではない
かと思った。
 「・・・・・夜分遅く申し訳ありません、開成会の倉橋です。お時間よろしいですか、江坂理事」
倉橋の口から零れた思い掛けない名前に、組員達の間にも緊張が走った。

 時間が無いと、倉橋は電話を掛けながらパソコンでメールを送った。
それには今まで自分が調べてきた大東組の理事の1人才川の、薬と高橋に関係した件が証拠と共に書き連ねている。
どうやら彼は自身の組でやっていた株の取引に失敗したらしく、上納金の一部も横領している疑惑があった。
 「本宮総本部長にも話は通していますが、今はそこで止められているはずです」
 『・・・・・馬鹿が』
 電話の向こうの江坂の口調は淡々としていて、倉橋は彼もこの事実に気付いていたらしいということを確信した。
それだったら話は早いと、倉橋は更に言葉を続ける。
 「関係者の身柄は押さえています。ただ、どうやらアクシデントがあったようで・・・・・今、海藤と綾辻が2人で行動しています」
 『・・・・・』
 「・・・・・力を、貸していただけませんか」
 『自分達で始末が出来ないということか』
 「海藤の手を、汚したくありません」
 組員に掛けさせた真琴、安徳、城内の携帯はいずれも通じない。
連絡がつかない3人と、行く先も告げずにいなくなった海藤と綾辻。それを併せて考えた時、倉橋は拙いと思った。これは、予感で
はなく確信で、海藤は必ず、真琴を危険な目に遭わせた者を許さないだろうと。
 「お願いします」
 『・・・・・私が出れば、海藤の責任問題も問われるかもしれない』
 「それは、全て私の責任です」
 『・・・・・』
 「海藤に適切な助言をしなかった幹部である私の責任です。その点、どうか理事も留意していただきたいと思っています」
 ここで江坂が動いてくれなければ、今度は本宮に連絡をするしかない。しかし、いくら海藤を買ってくれているとはいえ、大東組の
総本部長を動かしたとなれば、問題は更に大きくなるはずで・・・・・。
(お願いします・・・・・っ)
祈るような気持ちで江坂の返事を待った倉橋は、
 『この時間ならばそれほど混んでいないだろう。30分後、直ぐ出れるように待っていろ』
 「ありがとうございますっ」
倉橋は思わずその場で深く頭を下げた。




 そして、迎えに来てくれた江坂の車に乗り込み、海藤達の携帯のGPS機能と車に付けている発信機を併せて居場所を特定し
た倉橋は、どうやらギリギリで・・・・・海藤がその手を汚す前に、現場へと辿り着くことが出来た。
全ては江坂の行動力のおかげだが、きっとこの後は胃が痛くなるほどの後始末が待っているはずだ。もちろん、それを処理するのは
自分の役目だと思っていたが、倉橋はその前に自分の主である海藤の裁決を受けなければならなかった。
 「・・・・・」
 視線の先、真琴を抱きしめている海藤の手は血で汚れている。
彼や真琴が怪我をしている様子は無いので、それが足元に転がっている男のものだということが分かった。
 「・・・・・」
 倉橋はスーツのポケットからハンカチを取り出して汚れた手を拭ったが、既に乾き始めているそれは、なかなか拭いきることが出来
ない。
どうしようかと思う前に顔を近付け、汚い血を舐め取ろうとした倉橋に、海藤はいいと短く言った。
 「お前が汚れる」
 「社長・・・・・」
 「よく判断してくれた」
 ありがとうという言葉は聞こえなくても、海藤の眼差しの中に含まれている温かさに、倉橋は自分も返事が出来なくて首を横に振
る。
本当に、彼が汚れる前に間に合って良かった・・・・・倉橋は心からそう思った。




 「・・・・・」
 江坂は目の前に倒れている血で汚れた男を冷然と見下ろしていた。
倉橋に懇願されたという理由も一端はあるものの、それだけで深夜に動くほど江坂は情に厚い人間ではなかった。
前々から組の規律に反しているという黒い噂のある才川の内偵を組長から直々に命令をされており、この機会に有無を言わせず
才川を引きずり落とすのに丁度いい切っ掛けだと判断した上で、動いた。
 「才川理事はこちらが押さえた」
 「・・・・・っ」
 気を失っているかと思っていた男の背中が僅かに揺れたのが分かる。
 「以前はお前を援助してくれる者がいたようだが、今回は覚悟するといい」
 「ぅ・・・・・」
 「だが、案外お前にとってはいいことかもしれないな。これ以上逃げる必要はないし、頭を使うことも無い」
怯えた眼差しを向けられても江坂は感情を動かすことも無かった。そんな風に今の自分の境遇を後悔するのなら、始めから馬鹿
なことを考えなければいいのだ。
江坂は自分の背後の男達に視線を流さないまま言った。
 「連れて行け」
 この後の処理は、慣れた部下達がする。血痕の一滴も残さず、何事も無かったかのように現状を回復することは、見なくても分
かっていた。
 「はい」
 「・・・・・!」
 嫌だと叫びたいのだろうが、人というものは恐怖を感じ過ぎると声も出せなくなるようだ。金魚のように、パクパクと口を動かす男が
引きずられるように車に乗せられるのを見た江坂は、再び海藤へと視線を返した。




 全く躊躇いのない江坂の言動を見れば、彼の中で今回のことは想定の範囲内だということが分かった。確かに、自分達が数日
調べれば出てきた才川の不正を、あの江坂が気付かなかったということは考えられない。
 きっと時期を見ていたのだろうが、その間に今回のことがあって・・・・・多分、大東組は身内の不始末を薬や横領から、破門した
者への協力ということにすり変えるのだろう。その方が下部の組織に対する面子がまだ立つ。
(厳禁の薬に理事が手を出したとしたら、求心力が崩れかねない)
 強固な結束と、厳しい上下関係を誇る大東組の中に、頂点にいる組長の意志に反する行いをする者がいてはならないというこ
とだ。
 「江坂理事」
 「・・・・・」
 「わざわざこんな所まで足を向かわせてしまうことになって、本当に申し訳ありません」
 真琴を抱きしめたまま頭を下げることになった海藤に、江坂は不満な顔は見せなかった。
 「別に、お前のためだけじゃない」
そうは言うが、昔の江坂だったら部下に命令をしても、自らが動くことは無かったはずだ。真琴に出会って自分が変わったように、江
坂もきっと、今傍にいる者のために変わったように思う。
 「それでも、助かりました」
 「・・・・・」
 そうでなければ・・・・・。
 「・・・・・怪我は無いようだな」
真琴に向かって、江坂がこんな言葉を掛けることなどありえない。
 「・・・・・」
自分の腕の中で身じろぎをした真琴は、恐々とした様子で顔を上げる。涙で濡れた顔が痛々しかったが、汚れた自分の手では
それを拭ってやることは出来なかった。




 「怪我は無いようだな」
 淡々とした口調に、真琴は何とか顔を上げた。
海藤の声が聞こえて、綾辻の声が聞こえて、倉橋の声を聞いた時、どうやら状況がいい方に動いたと分かって、真琴は海藤の胸
に寄り掛かかったまま力が抜けてしまったのだ。
 耳に言葉は聞こえるものの、正確にその意味をとらえているかどうかは自信が無かった。それでも自分を気遣ってくれているような
言葉に、真琴は何とか顔を上げることが出来た。
 「あり・・・・・」
 「礼は無用だ。今回のことはこちらの世界の不手際で、お前には迷惑を掛けた」
 「・・・・・」
(江坂さん・・・・・)
 「・・・・・怖いか?」
 「え?」
 「私達が、怖くないか?」
 江坂は自分に言っている。しかし、真琴は彼が自分の向こう・・・・・江坂にとって大切な人間に向かって言っているような気がし
た。
答えは、決まっている。きっと、江坂の大切な人、真琴も大好きな穏やかな彼も、同じ思いのはずだ。
 「こ・・・・・わい、です」
 「・・・・・」
 「でも・・・・・好きだから・・・・・離れませ、ん、よ?」
笑いたかったが、笑顔が強張る。
すると、江坂は少しだけ口元を緩めた。自分の大切な者以外には滅多に見せない、彼の苦笑だった。
 「今度、遊びに行ってやってくれ。菓子作りを習いたいそうだ」
 「・・・・・じゃ、あ、海藤さんも、一緒で・・・・いいですか?」
 「・・・・・」
 「駄目、ですか?」
 「・・・・・私以外の男は入れたくないんだが」
 真面目にそう言う江坂がおかしくて、真琴はようやく笑えた。きっと、ちゃんと笑えてはいないと思うが、それでも真琴は今ようやく息
がつけたような気がした。