必定の兆し




25








 そのまま自分達のマンションに帰ると思った真琴だったが、海藤は座り込んでいる真琴の身体を支えるように立ち上がり、そのま
ま倉橋へとその身体を預けた。
 「かいど、さ?」
 「先に帰っていろ」
 「え・・・・・」
 「どうしても、最後まで見届けたいんだ。真琴、すまない」
 嫌だと、言いたかった。こんな時に、どうしてずっと傍にいてくれないのかと、その胸に縋って文句を言いたかった。
しかし、その一方では、あれ程の激情を押し殺してくれた海藤が今回のことを最後まで見届けたいと思うのも分かる気がして、真
琴は伸ばしかけた手を引いてしまった。
 「真琴」
 「・・・・・大丈夫、です」
 「・・・・・」
 「帰ってくるの、待ってますから」
 「・・・・・ああ」
 海藤は一瞬目を細め、しっかりと頷いてくれた。
(心配することはないよ、な。もう・・・・・全部、終わったし)
海藤が危ない目に遭うことも、彼があの優しい手を汚してしまうことも無いはずだ。それでも、まだ胸の奥にくすぶる不安を何とか誤
魔化そうと、真琴は海藤が今まで抱きしめてくれていた腕を自分で掴んだ。
 服は、彼の手についてしまった血で少し汚れていたが、今の真琴は怖いという感覚も麻痺しているようで、ここに確かに海藤が触
れたのだという証にさえ見えていた。
 「倉橋、真琴を頼む」
 「・・・・・」
 「お前に頼むのが最善だ」
 「・・・・・分かりました」
 海藤の言葉に頷いて、倉橋は真琴の身体を支えるように腰を抱く。
 「大丈夫ですか?」
何時もと変わらないような口調なのに、その中でも彼がとても自分を気遣ってくれていることが感じ取れる。
はいと頷いた真琴は、一度だけ海藤を振り返ったが・・・・・直ぐに倉橋に促され、1台の車の後部座席に乗り込んだ。




 真琴の傍にいたい。
海藤の心はそう叫んでいたが、自分が係わった今回の件を、江坂に丸無げして逃げることはとても出来なかった。
 それに、自分の中に確かに息づいている獰猛な殺意。これを払拭しない限り、今真琴の傍にいたとしても、荒れ狂う感情のまま
に、真琴の身体を苛んでしまうかもしれない。それだけは、絶対にしたくなかった。
 「・・・・・」
 江坂は、ちらっと海藤に視線を向けるものの、そのことを非難する眼差しではない。彼にとって、海藤の行動は予期出来るもの
で、それ程不可思議なものではないのだろう。
 「このまま千葉の本家へ向かう。そろそろ、揃っている頃だしな」
 「皆さん、ですか」
 「組長も、いい機会だと思われているんだろう」
 「・・・・・」
 組長と、若頭、総本部長。そして、江坂を含めた5人の理事。
大東組の中枢を担う実力者達が、こんな深夜に集まるということからも、大東組の上層部が今回の件を重く見ているということが
分かる。
海藤はその生き証人という形になるはずだ。
 「海藤、そろそろ覚悟をした方がいいかもしれないな」
 「・・・・・」
 「お前や上杉は、面倒なことに係わり合いになりたくないと思っているのかもしれないが、この地位も、慣れると悪くないものかもし
れないぞ」
 「江坂理事・・・・・」
 「それに、うちの組もデキる人間を何時までも遊ばせている余裕は無い」
 「・・・・・」
そう言った江坂は、そのまま今自分が降りて来た車へと向かった。




(そろそろ、年貢の納め時なのかもねえ)
 海藤と江坂の会話を聞いていた綾辻はそう感じた。
前回の理事選は、いわば禁じ手で切り抜けたのだが、海藤の実力からすればやはりある程度の地位に上がるのは仕方のないこ
とだろう。
 いや、海藤だけではなく、今回のことはのらりくらりと逃げている羽生会の上杉にも飛び火しそうだ。何しろ、その度胸や手腕を買
われた形で、大東組本部の隠し玉だった小田切が差し向けられたくらいだ。
 今は小田切もその居心地の良さにすっかりと猫のように(中身は猛獣だが)寛いでいるようだが、そろそろ周りが騒がしくなってくる
だろう。
(今度愚痴を言われそう)
 苦笑混じりの溜め息をついた綾辻は、少し離れた場所に立っている安徳と城内に歩み寄った。
 「ごくろ・・・・・」
様と言おうとした綾辻の言葉は、
 「申し訳ありません」
と、いう、安徳の謝罪で打ち消されてしまった。
 「アンちゃん」
 「せっかく、あなたが私達を信頼してくださって真琴さんの警備を任せて下さったのに、結果的に彼をこんなにも危険な目に遭わ
せてしまいました。本当に・・・・・合わせる顔がありません・・・・・っ」
 「・・・・・」
 「どんなペナルティーも受けるつもりでいます。ですが、どうかっ、このままあなたの下で働くことを許してくださいっ」
 「・・・・・」
 綾辻は深く頭を下げてそう言う安徳をじっと見つめていた。
しかし、それは怒っているからではない。むしろ、生真面目にこうして言葉を連ねてくる安徳を可愛いと思っているくらいだ。
(あの男が小狡いだけで、アンちゃん達が不手際を犯したってわけじゃないと思うけど)
 詳細な事情を聞かなくても、彼らがどう考え、行動したかは、実際に今まで2人を使ってきた綾辻には、目に見えるように分かって
いるつもりだ。その中で、2人は真琴の安全を第一に考え、行動してくれたと思う。
(・・・・・もう少し、意地悪しちゃおうかしら)
 可愛がっている安徳の、無表情な顔が沈痛な面持ちになっている様をもう少し堪能しようかと意地悪な思いが生まれたが、横
顔に注がれる眼差しに、綾辻はあ〜あと溜め息をつきたい気分になった。
(分かったってば)




 「今回のことは、社長も良くやったって思ってくれているはずよ。私の下から外すことなんて考えてないから、そんな顔しないの。せっ
かくの可愛い顔が台無し」
 「・・・・・」
 綾辻の笑みを含んだ声に、安徳の緊張していた全身から力が抜けてしまったのを見て、城内は眉間に僅かな皺を寄せた。
安徳が綾辻を妄信的に慕っていることは分かっていたつもりだったが、こんなにも鮮やかな変化を目の前で見せられてしまうのは少
しだけ面白くない。
 「キーチ」
 黙っていると、綾辻が自分に声を掛けてきた。その目が笑っているように見え、城内は自分の心中を見透かされているような気が
してしまう。
 「ご苦労様、よくやったわね」
 「・・・・・いえ」
 「後もう少し、働いてもらうわよ」
 「はい」
 首謀者を捕まえて、全てが終わりというわけではない。
この世界にはこの世界なりのルールがあることは城内も知っていて、今からあの男達がどんな処罰を受けるのかを想像し、馬鹿な
ことをしたなと今更ながら思った。








 千葉の大東組本家に着いた時、深夜だというのに周りの明かりは煌々と付けられ、車が停まったと同時に大きな木の門が左右
に開かれた。
 「・・・・・」
 そのまま敷地内を走った車は、玄関前の車止めに車を寄せる。
ずらりと並んだ何人もの男達のうちの1人が後部座席を開き、海藤が先ず下りて、続いて江坂が下り立った。
 「組長は」
 「お待ちです」
 「他の方々も?」
 「皆さん揃っておいでです」
 男の返事に頷いた江坂は、海藤に視線を向けてから躊躇い無く中へと入る。
理事として何度もここに通っている江坂はもう慣れているのだろうが、海藤はまだ両手で数えられるほどしか本家には来たことがな
い。
肌に突き刺すような冷たく張り詰めた空気に否応無く緊張はするものの、海藤は萎縮はしていなかった。
 今回、組内部のゴタゴタが出てきて、話は広がってしまったが、根本を突き詰めれば、海藤が真琴に手を出してきた高橋を許せ
なかったということから話は始まる。
たかがオンナのことで・・・・・もしかしたらそんな風に思われる可能性もあったが、それならばそれで海藤は胸を張って頷くつもりだっ
た。幾ら組を背負っている立場とはいえ、一番愛する者に手を出されれば、全力を持って潰す。
今も、海藤のその気持ちには変わりなく、出来れば高橋を組の預かりにするのではなく、自身の手で始末をつけたかったくらいだ。
 「こちらへ」
 古い日本家屋の長い廊下を、江坂の後ろに続いて歩く。
やがて、ある襖の前に来ると、案内していた男が膝をついて中へ声を掛けた。
 「江坂理事、開成会会長、両名お越しです」
 「通せ」
 帰ってきた低い声は組長のものだ。
男は一礼して、音も無く襖を開けた。

 ずらりと並んだ男達。
上座に座っている男が、こちらにピッタリと視線を向けながら言った。
 「御苦労だった、中に入れ」
 「失礼します」
 「・・・・・失礼します」
 関東随一、そして、日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の最高権力者、7代目現組長の永友治(ながとも おさむ)。
50台も後半の彼だが、その顔付きも身体も年齢以上に若々しく、精力的で、その地位についてからは様々な古い体質を変えて
きた。
 それには、傍から見る以上の激しい抵抗や重圧があったと思うが、そうやって永友が動いてくれたからこそ、経済ヤクザといわれる
自分や上杉の発言力が強くなったのだ。
 何時も堂々とし、鷹揚な態度を見せていた永友だが、さすがに今回の件は頭が痛いのか、眉間には皺が寄っている。
 「・・・・・」
その左右には、若頭と総本部長、そして理事達が居並んでいるが、1人数が足りないということに海藤は気付いた。他の人間は
それをどう思っているのかは、その表情を見ても、さすがに海藤にも分からない。
 その時、まず江坂が口を開いた。
 「高橋他、今回の件に係わった者は全て押さえました」
 「ああ」
 「・・・・・あの方も」
 「・・・・・」
苦々しい表情で頷いた永友が、そのまま視線だけを動かす。
すると、傍に控えていた男が、今海藤達が入ってきたのとは別の襖を無言で開いた。
 「!」
 その場の空気が揺れ、幾人かの目には確かな動揺が表れる。
そこには、影で高橋に様々な援助をしてきたといわれる理事の1人、才川が、羽織袴という正装をし、真っ白な表情の無い顔を
して座っていた。