必定の兆し
27
海藤が綾辻と共にマンションに戻ってきた時、もう空は明るくなりかけていた。
「お疲れ様でした」
玄関先まで迎えに出てくれた倉橋の顔をじっと見つめた海藤は、無言のままその肩をポンと叩いた。
「ありがとう」
すまなかったと言うよりは、そう礼を言いたいと思った。今回のことではなかなか海藤と共に動けなかった倉橋だが、彼の勤勉な働
きによって、才川の告発がスムーズに行えたのだ。
倉橋本人が思っている以上に、今回の倉橋の仕事は自分に役立った。その思いを込めて海藤が言うと、倉橋の頬にも少しだ
け笑みが浮かんだ。
「真琴は?」
「先程までお待ちになっていたんですが・・・・・」
「寝たのか?」
「無理もありません。今日は様々なことが遭ってお疲れになったんでしょう」
「・・・・・」
(全て、俺のせいだ・・・・・)
本来ならば経験しなくても良かったことを、否応無く突きつけられ、どんなに困惑し、恐怖を感じたか。生まれた時からこの世界
にどっぷりと浸かっている自分とは違い、真琴は本当に普通の生活をしてきた、普通の人間なのだ。
そのままリビングに向かった海藤は、身体にタオルケットを掛けられたままソファで眠っている真琴の姿を見付けた。
「申し訳ありません、寝室まで運ぼうとは思ったんですが、身体に手を掛けると目を覚まされそうになるので・・・・・」
「ああ、構わない」
海藤は身体を屈め、真琴の身体を抱き上げる。
高橋の血で汚れてしまった手や身体は、本家で湯を浴びることが出来、スーツも用意されていた。
これはどうやら江坂の指示だったらしいが、あのままの状態で真琴に会うことはとても出来なかった海藤にとってはありがたいことだっ
た。
「真琴」
「・・・・・」
小さく名前を呼ぶと、小さな声で何事かを言いながら真琴が擦り寄ってくる。目が覚めていないのに自分が誰の手に抱かれてい
るのか分かっているのか、その表情が綻ぶさまが見えた。
真琴を寝室に運んだ海藤は、リビングに待たせていた綾辻と倉橋に言った。
「今日は・・・・・」
「これで解決ですよ、社長」
謝罪と礼を言おうとした海藤の言葉を遮るように、綾辻はニヤニヤと笑いながら口を開く。
「今日は休んで、1日マコちゃんとイチャイチャしててください」
「綾辻」
「ついでに、私と克己もお休みをいただいて、イチャイチャしてもいいですか?」
「綾辻っ」
何を言うのだと倉橋は眉を顰めるが、海藤はそれが綾辻特有の言い回しだということを分かっていた。こんな風に言いながら、この
男は海藤に後ろめたい思いをさせないようにしてくれているのだ。
(・・・・・全く)
こんな言い方をするからこそ、倉橋が嫌がるのだが、綾辻はその反応を楽しんでいる様子さえ伺える。
もちろん、今回の功労者である2人にもゆっくり休んでもらうつもりだった海藤は頷いた。
「ああ、好きにしろ」
「やった!」
「駄目です!」
喜びの声を上げる綾辻とは反対に、倉橋は厳しい表情をして海藤に詰め寄った。
「社長がいらっしゃらない間こそ、私達が会社や組を守らなければなりません。社長は、今日1日ゆっくり休んでください。後のこと
は全て処理をしておきます」
「ちょっと、克己〜。せっかく社長が休んでいいって言ってくれてるのに〜」
「あなたは何時でも自由に休んでいるでしょう。こういう時こそしっかりと働いてもらわないと。では、社長、私達はこれで失礼しま
すので」
「・・・・・ああ」
2人の私生活での関係を詮索するつもりはないが、仕事面に関しては倉橋も綾辻に対して手厳しい。だが、倉橋は分かってい
るのだろうか?顔を逸らした綾辻の口元が緩んでいることを。
どちらにせよ、綾辻にとっては倉橋と共にいるという事実が大事なようだ。
「じゃあ、倉橋、頼むぞ」
「お任せ下さい」
一礼した倉橋はそのまま玄関へと向かう。
「待ってよ、克己っ。じゃあ、社長、ゆっくり休んでくださいね」
「そうさせてもらう」
自分の身体を休めるというよりも、あんなことがあったというのに1人に(倉橋はつけていたが)させてしまった真琴の傍にしばらくつい
ていてやりたい。
・・・・・いや、自分の方こそ真琴の傍で安らぎたいのかもしれないと思いながら、海藤の足は真琴が眠っている寝室へと向かった。
海藤が綾辻と共にマンションに戻ってきたのは、そろそろ夜が明けるかという頃だったらしい。
絶対に起きて海藤を待っていようと思っていた真琴。通常の生活ならばありえない出来事に遭遇したことで、神経が過敏になって
いるから大丈夫だと思っていたのだが、意外にも自分の神経は図太いようで、何時の間にか眠ってしまった。
感じたのは、額に掛かる髪を優しくかき上げてくれる指先の感触。
そして、フワフワと身体が軽くなったかと思うと、柔らかな何かの上に下ろされた。
「・・・・・」
(か・・・・・ど、さ・・・・・?)
目を開けて確かめたいと思うのに、睡魔はなかなか去ってくれず、そうしているうちに暖かなものに包まれる。これは、自分の一番
大切なものだ・・・・・確信のような思いに安心してしまったのか、真琴は更に深い眠りへと落ちてしまったのだ。
「・・・・・あ」
「おはよう」
目が覚めた時、大好きな人の顔がすぐ傍にあった。
真琴はその存在を確かめるように手を伸ばし、恐々と頬に指を触れて・・・・・夢ではなく、確かに海藤がそこにいるのだと分かると、
無意識のうちに顔がふにゃっと崩れた。
「ご・・・・・ごめ・・・・・」
泣くつもりなんか無かった。
全てが終わって、もう海藤も、そして周りの人間も危ない目に遭うことはなくなったというのに、何だか無性に胸がつまって、涙腺が
壊れてしまったかのように涙が溢れ出る。
「真琴」
「ご、ごめ、さ・・・・・」
なかなか言葉が出ない真琴を、海藤はそっと抱き寄せてくれた。
「怖い目に遭わせたな、すまなかった」
「・・・・・っ」
真琴は海藤にしがみ付き、子供のように泣いてしまった。声を出して、鼻を啜りながら、どうして自分がこれほど泣くのだと思いなが
らも、わーわーと泣き続ける。
そんな中でも一番強く自分の心を占めていたのは、ここに、こうして海藤がいてくれたことへの感謝だ。誰に対して言っていいのか
分からないが、ただ、ありがとう、ありがとうと、真琴は何度も心の中で呟いていた。
抱きしめている自分が着ているパジャマが濡れるほどに泣き続けた真琴は、泣き続けて少しずつ落ち着いたのか、声が小さくなっ
てきた。
ずっと真琴の背中を撫でていた海藤は、俯いたままの顔を覗き込もうとする。
「あ、あの」
「ん?」
「へ、変な顔になってるから・・・・・」
どうやら、泣き腫らした目や赤くなった頬、鼻を見られたくないようだが、2人共ベッドに抱き合って横たわっている形なので、真琴
はなかなか身を隠すことが出来ない。
とにかく頑なに俯こうとした真琴の顔がどうしても見たくて、海藤は多少強引とは思いながらもその顎を掴んで顔を上向かせた。
「・・・・・っ、わ、笑わない、で、下さいよ?」
カーテンの隙間から入り込んでくる陽の明かりのせいで、真琴の顔はよく見えた。
腫れた目に、赤い鼻。涙や、少し鼻水の跡もあって、普段でも童顔の顔がますます子供っぽく見えて笑みを誘われる。
「あ・・・・・」
そんな海藤の表情に笑われたと思ったのか、真琴は再び海藤から顔を逸らそうとしたが、海藤はそのまま目元や頬にキスをして
いった。
「か、海藤さ・・・・・」
「可愛い」
「・・・・・」
「真琴」
「あ、あのっ」
「・・・・・真琴」
どんな言葉を伝えていいのか分からなかった。
とにかく、謝罪して、それでも離れていかないように懇願するしかないと思っているのに、こうして真琴に触れることしか出来ない。
「んっ」
唇が、唇に触れた。
舌を絡ませる濃厚なものではなく、ただ重ねるだけのキスの合間に、海藤は真琴に向かって言い続けた。
「すまなかった、真琴」
「・・・・・っ」
「愛している」
「か・・・・・」
だから、自分のこの汚れた手でも、離さないで欲しい。祈りを込めたようなキスを繰り返していた海藤は、
「・・・・・いい、ん、です。海藤さん、俺・・・・・海藤さんなら、全部・・・・・赦せるから」
「・・・・・っ」
真琴の言葉に、一瞬動きが止まってしまう。
「だから、もう謝るの、止めてください」
そう言った真琴が、反対に自分の身体を抱きしめてくれた。自分よりも華奢で、小さな手なのに、抱きしめてくれる手の力はとて
も強くて・・・・・海藤は真琴の肩に顔を埋め、こみ上げる感情を唇を噛んで耐えていた。
(震えて・・・・・る?)
自分の身体に触れている海藤の手が震えているように感じた。
「・・・・・」
(俺の言葉・・・・・間違いじゃない、よね)
海藤ほどの大人の男の人に、まだ学生で、頼りない自分が《赦す》と言うのはとてもおこがましいと思う。
ただ、海藤の全身を覆っている黒い靄のようなものを追い払えるなら、真琴は自分が傲慢になることも仕方がないと感じた。
自分の一言が、誰かの人生を左右するのはとても怖い。しかし、その人とずっと共にいる覚悟を決めているのならば、その重さを自
分も背負えるんじゃないかと思ったのだ。
(ヤクザの海藤さんはやっぱり怖いけど・・・・・それでも、俺は海藤さんが・・・・・好きだから)
「こんなに、不細工な俺の顔、海藤さんは可愛いって言うくらい、目が悪いし。俺も、海藤さんがどんなに怖いことをしても、直ぐ
に忘れちゃうほど、頭悪いし」
「・・・・・」
「お互い様、でしょ」
海藤は、自分がヤクザだということを負い目に思っているのかもしれないが、真琴の方も、あまりにも平凡過ぎる自分を負い目に
感じている。
職業はどうであれ、海藤ほどの男に自分のような人間は相応しくないと、真琴は嫌というほど自覚していた。それでも、海藤の手
を離すことが出来なくて開き直っているのだから、海藤も、開き直ってそのままでいて欲しい。
「ずっと、一緒ですよね?」
「・・・・・ああ」
「・・・・・良かった」
「俺の方こそ・・・・・良かった」
海藤の声も、手も、もう震えてはいない。
やっと、何時もの彼に戻ってくれたようで、真琴は海藤が帰ってきてくれてから初めての笑顔を向けることが出来た。
(あ、でも、顔洗いたい・・・・・っ)
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