必定の兆し













 「じゃあな、宇佐見君」
 「お疲れ様でした」
 宇佐見は深く頭を下げて走り去る車を見送った。
上司との食事会。これに何の意味があるのかと思うほどに、高い食事をし、高い酒を飲むだけの時間。
 「・・・・・」
 再び頭を上げた宇佐見は思わず口の中で舌をうった。派閥などいっさい関係なく動きたい気持ちはあるものの、どこかに入って
いなければ自分の思うことも出来ない。
(・・・・・情けない)
 「警視正」
 「・・・・・少し歩く」
 「ま、待ってくださいっ」
 呼び止める部下の声を背後に聞きながら、宇佐見は夜の街を歩き始めた。
自分くらいの地位、そして、所属している部署から考えれば、多分に狙われる可能性があるだろう。慌てる部下には申し訳ない
とは思うが、宇佐見は少し頭を冷やしたかった。
 「どちらかに行かれるのなら車に乗ってくださいっ」
 「・・・・・」
 「警・・・・・宇佐見さんっ」
 さすがに役職名を言うのがはばかれたのか、今度は名前を呼んでくる。その変容に思わず微苦笑を浮かべた宇佐見は、
 「・・・・・」
ふと、何か争うような声を聞いたような気がして足を止めた。
(喧嘩か?)
 「いくらガキがしたことでも、やった事には責任を持ってもらわないとな」
 「兄貴」
(兄貴?)
 柄の悪そうな声は、確かにそう言った。夜の繁華街、いい年をした兄弟が一緒に飲んでいるというよりは、ある種の男達がいると
思った方が自然だろう。
(・・・・・だから、あいつらは害虫と言われるんだ)
 おそらく、酔ったサラリーマンか、遊びに来ている学生を狙って因縁をつけているのだろう。
 「た、たまたま、蹴った空き缶がタイヤにあたった、だけ、なのに、いきなり下りてきて、殴られ、て・・・・・」
 「!・・・・・あ、あんた達っ、子供に対して大人げないだろっ!」
 「わざとじゃなくても当たったのは事実だろう?それとも、センセー、あんたが代わりに謝るか?」
・・・・・多分、当たりだ。
震えながら答えている言葉はどう聞いてもまだ若く、加勢する声も勢いはあるものの震えている。
 「私が行きます」
 足を踏み出した宇佐見に部下が言うが、チンピラごときを警戒していては何も出来ない。人数もせいぜい2、3人だろうし、拳銃
さえ持っていなければそう警戒することは無いだろう。
昨今の不景気や厳しい取締りで、チンピラの中で銃を持っているというものはほとんどいないといっていいはずだ。
 ただ、ナイフのような刃物類は持っている可能性があるので、それを警戒すればいいだけだと、宇佐見は部下達の引きとめる声
も聞かずに、声が聞こえてくる路地裏へと足を踏み入れた。




 「何をしている」
 意識していなくても、こういった類の男達に対しては低く冷たい声になる。
(・・・・・3人か)
いきなり現れた宇佐見を驚いたような目で見ているのは10の目だった。
思ったとおり、目付きの良くない、それでいて明らかに下っ端のチンピラ風の男が3人と、地面に座り込んでいる、脅されているよう
な若い男、2人。
 「どこの組だ」
 この辺りをどこの組が仕切っているかなどとうに知っているが、男達の口から直接言わせてやろうと思った。名前を言って、その指
先だけでも自分に触れたら、直ぐに公務執行妨害で検挙してやろうと思う。
どうせ、もう部下が近くの警察に連絡をやっている頃だ、後始末は所轄の人間に任せればいいだろう。
 しかし、低脳な男達は人数だけで自分達が勝てると思ったらしく、宇佐見から見れば負け犬の遠吠えのような無駄な威嚇をし
てきた。
 「お前には関係ないだろーが!さっさと失せろ!」
 「・・・・・低脳な奴は取る行動も同じだな」
(ヤクザは皆、こんなものだろう)
 「何っ?」
 明らかに馬鹿にされたと分かったのか、男の1人が宇佐見の背広を掴んできた。・・・・・浅はかな行動だ。
その手を見下ろした宇佐見は、淡々と男に向かって言った。
 「公務執行妨害」
 「・・・・・っ」
 「サツか?」
 罪状を言われて、男は慌てて宇佐見から離れた。
所轄の暴力団担当者の顔ならばある程度は知っているかもしれないが、この男達からすれば自分は遥か上の人間だろう。
本当に警察の人間なのか、それとも一般人が脅しのために言っているのか、判断がつかないまま探るような眼差しを向けてくる男
達に向かい、宇佐見は内ポケットに入れている身分証明書を見せた。
 「警視庁組織犯罪対策部第三課、警視正、宇佐見貴継だ。三課がどういった部署か、馬鹿な頭でも分かるだろう」




 蜘蛛の子を散らすように逃げていった男達を宇佐見は追わなかった。
本当に手を出してきたのならば話は別だが、ああいうチンピラを一々捕まえていては警察の留置所は直ぐに満員になってしまうだ
ろう。
(逃げるくらいなら、一般市民に手を出さずにいればいいものを・・・・・)
 考えれば分かることを考えない馬鹿な人間のことをこれ以上考えてやることもないかと、宇佐見は視線を脅されていたらしい2人
に向けた。
 「あ、ありがとうございました」
 その視線に、慌てたように男が頭を下げてきた。
 「私、瑛林(えいりん)高校で教師をしています、紺野雅人(こんの まさと)と申します」
 「・・・・・まさと?」
その響きに、宇佐見は思わず男の顔を見直してしまった。
てっきり大学生くらいだと思っていたが、高校の教師といえばどんなに若くても20代半ばだろう。
(・・・・・見えない)
 体格は平均より小さく見えるし、顔も童顔だ。
ただ、自分を真っ直ぐ見つめてくる眼差しに強いものも感じて、生徒を守る教師という姿を想像出来た。
 「・・・・・因縁をつけられたのか?」
 「私の生徒が・・・・・でも、そんなことでって感じなんですよ!」
 「あいつらはそれが商売みたいなものだからな。一般人は関わらないことが一番だ」
 「そ、それは分かってるんですけど」
 「教師なら、二度は言わなくてもいいだろう」
 「あのですねえっ、別にこっちは好きで・・・・・」
 「・・・・・」
 男は頭から注意されたので怒ったらしく、直ぐに食って掛かってきたが、宇佐見には聞こえていなかった。
自分がこれ以上ここにいる意味は無いだろう。自分のあの肩書きを聞いて、なおも仕返しを仕掛けてくるとは思えないし、もしもそ
んなことをしたら、本当にただの馬鹿だとしか言えない。
 そのまま背中を向けて歩き出そうとした宇佐見は、
 「まっ、待てよ!」
自分の腕を掴む男に、宇佐見は僅かに眉を顰めた。
 「なんだ」
 「こ、こっちの話もちゃんと聞いてください!」
 「話?特に無いだろう」
 「なっ・・・・・」
 「もう会うこともないだろうしな」
 そう、こんな夜の繁華街で数分だけ会った相手に、もう一度会う可能性は皆無と言っていいだろう。同じ職業ならまだしも、相
手は高校教師だ。
 「警視正、お車にお乗り下さい」
部下は、これ以上面倒なことがあってはならないと強引に宇佐見の行く手に立ち塞がり、タイミング良く横付けされた車の助手席
からもう1人が出てきてドアを開ける。
 「・・・・・」
 せっかく、面白くなかった食事会の鬱陶しい空気を振り払おうと思ったのだが、馬鹿なチンピラ達のせいでその時間も打ち切りに
なってしまった。
それでも、これ以上部下の胃を痛めるわけにはいかないと、宇佐見はそのまま車に乗り込んだ。




 車に乗り込んだ途端に宇佐見を襲ったのは部下の小言だった。
 「あなたは単なる警官とは違うんですよ?もちろん、警官の職務も大変ですし、大切だとは思いますが、あなたはそれとは比べ物
にならないほどに大切なお身体なんですから。今夜みたいなことは絶対にしないでくださいね?」
 「・・・・・分かった」
 「・・・・・本当に」
 「・・・・・ああ」
何時も自分についていてくれる部下には弱く、宇佐見は苦笑をしながら素直に頷いた。彼らを困らせてまで街を歩きたいと思うよ
うなことも無い。
 シートに深く背を預けて目を閉じた宇佐見は、ふと、今会ったばかりの、そして、今後は会うこともないであろう今時珍しく指導熱
心な高校教師の顔を思い浮かべた。
本来なら、ああいう場面に遭遇すれば警察官を呼ぶのが正しい行動だろうが、放っておけばあの男は確実に殴られて・・・・・それ
でも、多分あの真っ直ぐな目で相手を見据えたような気がする。
 「・・・・・教師か」
今時、生徒の為に身体を張る教師がいるとは思わなかった。それがもの珍しいと思ったが、それと同時に、もう一つ自分の琴線に
触れたのが・・・・・。
(まさ、と)
 その、名前の響き。
心を惹かれている相手に良く似た響きの名前に、自分でも意識しないままにその顔を見直してしまった。若いというよりは、まだ子
供のよう顔。想い人のように柔らかな面差しとは違うが、綺麗な目をした男だった。
 だが、違う。今会った男は、真琴とは全くの別人なのだ。
(名前が似ている人間なんて・・・・・幾らでもいる)
 半分だけ、血の繋がった異母兄の、恋人。社会の屑であるヤクザの男の、情夫。どんなに想っても手に入らない真琴のことを思
い出してしまい、宇佐見の眉間には深い皺が寄ってしまった。
 「警視正?どうかされましたか?」
 「・・・・・いや、なんでもない」
 「・・・・・どちらかに寄って帰られますか?」
 「・・・・・このまま帰っていい」
 「分かりました」
 車はそのまま自宅へと向かっている。実家の離れで暮らしている宇佐見は、このまま帰れば父か母、どちらかと顔を合わせなけ
ればならないだろうと思い、また憂鬱になってしまった。
 父・・・・・戸籍上は実の父だが、自分とは血が繋がっていない人。ここまで育ててくれたことには感謝をしているし、尊敬もしてい
るが、どうしても肉親という近しい目で見ることが出来ない。
そして母は、若い頃の過ちを後悔し、宇佐見にさらに上を目指せとせっついてくる。実夫であるあの男と似ているところなど無いの
だと、過去を無理に消そうとしている様が醜く思えて・・・・・それでも、見捨てることが出来ない。
 「・・・・・」
 自分が学生だった頃、あんな教師がいれば少しは人生が変わっていたかもしれない。宇佐見はまた先程の男のことを思い出し
てしまい、そんな自分に戸惑いを覚えていた。