外持雨 ほまちあめ











 海藤が大東組の理事候補になった時、倉橋克己(くらはし かつみ)はそれほど有能な相手に仕えていることへの誇らしさ
と、変わってしまうかもしれない今の日常を憂える思いを同時に感じていた。
去年の今頃ならば、多分海藤は躊躇うこともなく全力でその席を取りに行っただろうし、自分も命令されるまでも無く動いたこと
は確実だった。
 しかし・・・・今は事情が違う。
誰をも愛さないはずの冷徹な男だった海藤には、西原真琴(にしはら まこと)という愛する存在が出来た。
自分達とは違い、ごく普通の世界に生きている真琴と、これ以上生きる世界を違いたくない海藤は、本来ならば光栄だと喜ぶ
はずの今回の推薦にただ黙って頭を下げるだけだった。

 倉橋も、真琴を大切に思っている。
倉橋の命を預けるべき相手がこれほどに愛しく思っている相手なのだ。素直な真琴の性格も倉橋にとっては好ましく、彼を悲し
ませたくはないという思いは倉橋も同様だった。
そして、そんな海藤が決めた結論に倉橋も納得し、それを無事遂行する為に倉橋も動くことにしたのだが・・・・・。



 『あ、あの、バイト先に・・・・・火を、つけられたみたいで・・・・・』

 事務所に掛かってきた真琴からの電話の内容に、さすがの倉橋も一瞬言葉が出なかった。
反対に真琴の方が神経が麻痺してしまっているのか冷静な口調で、淡々と今の状況を倉橋に伝えてくれた。
最後に、出来れば海藤には話さないで欲しいと言われたが、それはとても無理な話だった。
 来客があったが、海藤は倉橋からの報告に直ぐに真琴の元へ行くと決め、来客である・・・・・今回の理事選の対立候補で
ある藤永もなぜか一緒に来ることになった。
 どこか、羽生会の幹部である小田切に似た雰囲気の藤永を倉橋は苦手に思っていたが、今はそんなことなど言っていられな
かった。

 真琴は、無事だった。
犯人と遭遇したらしいが、怪我は掠り傷もない。
だが、相当なショックを受けただろうということは、青褪めて笑顔のない表情を見ても良く分かった。
 そして、既に先に来ていた綾辻の表情も、何時もの笑みが全く浮かんでいない様子からかなり余裕が無いことが分かった。
それは今回の真琴のことでは無く、多分に今一緒にいる藤永のせいだということも倉橋は気付いていた。
だからこそ、藤永を送る役を自ら買って出たのだが・・・・・。

 「俺はな、倉橋、死ぬのは全然怖くないんだ。怖いのは、自分がこの世に何の興味も無くなった時。意味無く生きることが何
より怖い。だから・・・・・俺は綾辻が欲しいんだ。あいつは俺を退屈させないからな」

 その言葉を聞いた時、倉橋は背中に冷水を浴びせかけられたような気がした。
綾辻が望むと望まざるとも関係なく、この男は綾辻を手に入れる為ならばどんな手段を取るのか・・・・・想像するだけで怖いと
思ってしまった。
 自分が知らない綾辻の過去に存在している藤永。
綾辻にとってはかなり大きな存在らしいということも感じている。
だが・・・・・。

 「一匹じゃ淋しくないか?」
 「二匹ならどうだ?」
 「惚れた弱みだ。克己、俺も覚悟はついてるぞ」

 誰にも見せたことがない背中の龍を、唯一見せた相手。
倉橋にとっても、もはや綾辻は簡単に手放せる相手ではなかった。



 瞬く間に中間発表があり、その直後に海老原が撃たれた。海藤が仮の居住の為に借りたマンションの駐車場でだ。
それでも、以前は似たような抗争もあり、その処理は倉橋も慣れていたはずなのだが、何時もは必ず隣にいてくれるはずの存在
がそこにないことが不安だった。
 海藤も、こんな緊急の事態なのに、綾辻に連絡を入れろとは言わない。
携帯は・・・・・繋がらない。
こんな大事な時に全く連絡が取れないのはどういうことなのか・・・・・倉橋は・・・・・想像がついていた。
 今、自分が出来る事を、倉橋は全力でやっている。
そして綾辻も・・・・・多分自分が出来る事をやっているのだろう。
それがたとえ、自分の意に反することだとしても。



 夕方になって、ようやく綾辻が姿を現せた。
その顔を見ただけで、倉橋は分かった気がした。
(あの人と・・・・・)
そして、綾辻も、倉橋が何を感じ取ったのか気付いたのだろう、何時もはにこやかな微笑を浮かべている頬を緊張に強張らせて
言った。

 「何か、俺に聞くことあるか?」
 「・・・・・なにも」

(聞きたいわけが・・・・・ない)
 多分、何も隠さずに言おうとしている綾辻の覚悟を感じる。だが、倉橋はその事実を綾辻の口から聞くのは怖かった。
事実を、事実として認識したいと思わなかった。

 「あなたが開成会の為を思ってすることに、私は何の異存もありません」

自分がそう言った時の、傷付いたような綾辻の目。
だが、倉橋は視線を合わせようとはしなかった。
 電話を掛けたいからと逃げるように言うと、綾辻は直ぐに出て行ってくれた。
しかし、倉橋はドアが閉まる音がするまで振り向くことが出来なかった。

 パタン

 「・・・・・そつきっ」
 思わず、そんな言葉が口から漏れてしまった。

 「俺はお前を抱きたい。お前は抱かれた後の変化が怖い。だったら、お前自身は何も変わらなくていい。俺との事も、犬に噛
まれたと思うぐらいでいい。克己、一歩でいい、そこから踏み出してくれ」

倉橋は一歩を踏み出した。
最後まで抱かれることはなかったが、それでも今の自分が出来る精一杯の誠実を綾辻に見せたつもりだった。
それは、綾辻が真剣に自分のことを思ってくれているという前提があったから・・・・・彼だけは信じてもいいのだと、甘えていいのだ
という思いがあったから、倉橋は怖くて仕方がない自分の心を叱咤して綾辻に身を晒したのだ。
 「私が・・・・・悪いのか?」
(これも全て・・・・・許さなければいけないのか?)
 「・・・・・っ」
 急に吐き気を感じた倉橋は両手で口を覆った。
 「・・・・・ぐっ」
こみ上げるものを何とか抑えようと、口を塞いだまま何度も荒く呼吸を整える。
 「・・・・・」
涙が、目じりに滲んできた。悲しいはずではないのに、心が叫んでいるような気がした。



 どのくらい経ったか・・・・・倉橋は顔を上げた。
その表情は真っ白く血の気のないものだったが・・・・・目には怒りや悲しみの色はない。
そのまま電話を取り、倉橋は口実にしてしまったはずの案件を次々と片付け始めた。
 「・・・・・倉橋です、ええ、今日は先日お願いしたことで」
(これが、現実だ)
 倉橋は無理やり自分の心を納得させた。こういったことは、この世界ではあることなのだ。
(心を渡すわけじゃない・・・・・身体だけだ・・・・・)
自分も、愛してもいない女を抱いていたことがあるのだ、綾辻だけに誠実を求めるのは間違ったことだろう。
それでも、自分の心が疲弊していくのを感じるが、もはやそれを癒す方法は倉橋には思いつかなかった。