外持雨 ほまちあめ
7
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがと」
物静かで上品な仲居が茶を入れてくれ、直ぐに部屋から出て行った。
それまでとにかく何かを言いたかったのだろうが我慢していたらしい倉橋は、玄関の格子戸が僅かに鳴ったのを待ちかねたように
綾辻を睨んで言った。
「いったい、どういうことですか?まだ仕事中なのにこんなところまで連れてきてっ」
「仕事中じゃないって」
「何を言ってるんです、確かに私は・・・・・」
「克己には内緒にしてたけど、私達今日から三日間有給を貰ったのよ?昼間出て仕事をしてたのは休日出勤してたようなも
んなの」
「・・・・・え?」
倉橋が途惑うのは無理も無いだろう。
確かに今日は2人とも普通に会社に出て、昼過ぎまで仕事をしていたのだから。
ただ、それは綾辻が倉橋に余計なことを考えさせない為で、午後三時過ぎ、お茶を飲みに行こうと強引に外へ連れ出し、その
まま車を飛ばしてこの熱海までやってきたのだ。
高速を使っても約二時間の行程で、その間倉橋はどこに行くのかと煩く聞いてきたが、笑みを浮かべたまま何も言わない綾辻
の様子に、もしかしたら仕事関係かもしれないと思ったのか、途中からは大人しく助手席に座っていた。
しかし、着いた場所が山間の静かな旅館で、明らかに自分には不釣合いなほどの立派な離れに案内され、目の前に香りの
いいお茶とお茶菓子を出された瞬間、倉橋はこれがただの温泉旅行じゃないかと気付いたのだろう。
ここまで来なければ分からなかったのかと呆れもしてしまうが、仕事から離れた倉橋の微妙なズレ具合は、普段がきっかりとした
隙の無い雰囲気を持っているだけに、綾辻にとってはとても微笑ましく感じるものだった。
「でも、私達が2人一緒に東京を離れるなんて・・・・・」
あっさりと休暇だと言い切った綾辻に、倉橋はそれでもと言い返した。
それが照れ隠しではなく、本当に東京にいる海藤の身を心配している為だということが分かるので、綾辻は今回の計画が海藤
公認だと倉橋に教えた。
「今回のご褒美だそうよ」
「・・・・・私は聞いていません」
「なんなら、電話する?」
綾辻が携帯を取り出してにっと笑うと、倉橋はしばらくそれを見つめて・・・・・あからさまな溜め息をついて見せた。
「分かりました。そこまで言うのならそうなんでしょう」
「信じてくれた?」
「・・・・・それにしても、どうしてこんなところまで?せっかく休みを頂いたのなら、あなただってゆっくりと休みたいんじゃありません
か?」
「つれないなあ、克己」
綾辻は少し身を乗り出す。
茶に手を伸ばそうとした倉橋がそれに気付いて思わず身を引くのを見て、綾辻はどうにか笑いを押し殺した。
(意識してるのが丸分かりだって)
「お前の為だぞ」
「え?」
「東京じゃ嫌だったんじゃないか?」
「・・・・・」
「日常を過ごす街で、自分が変わる第一歩を踏み出すこと・・・・・違うか?」
生真面目で臆病な倉橋は、変化というものを容易には受け入れることが出来ない。
それは自分がそうしたいと望んでも、潜在的な意識が拒絶してしまうのだろうということも綾辻は気付いていた。
それならば、全く日常から乖離した場所で、新しい一歩を踏み出せば良いんじゃないかと思った。
(俺も、お前も・・・・・もう、待てないだろう?)
「ここには、俺達を知っている人間はいないぞ」
「・・・・・」
「逃げたいか?」
これが最後だというように、綾辻は倉橋から視線を逸らさずに言った。
もちろんこのまま逃すつもりはないが、倉橋の気持ちを確かめておきたかった。
「・・・・・」
しばらく目を伏せていた倉橋は、やがて顔を上げて小さく笑った。
「望むところです」
この後のことを考えると、一緒に風呂に入るのも躊躇うだろう。
綾辻は別々に風呂に入ることを提案してきた倉橋を無理に止めることはなく、それぞれ分かれて風呂に入った後は、豪華な夕
飯の膳を前にした。
「全く、幾らお金を掛けてるんですか。戻ったら折半にしてくださいよ」
仲居を下げ、自ら綾辻に冷酒を注いでやりながら、倉橋は説教じみた言葉を言ってきた。
「別に、普段使うこと無いだろ、金なんて。増えてばっかりだからたまには減らさないとな」
「老後の為に貯金したらどうです、私達には保険もきかないんですから」
「はは、克己らしいなあ、そんな言葉」
「あなたが気楽過ぎるんですよ」
文句を言いながらも、倉橋の箸使いはとても優美で、育ちの良さというものは所作にも表れるものなのだなと綾辻は思った。
家族や親類に法曹界の人間が多いらしい倉橋の家は、世間的には上流階級だといってもいいのだろう。
家族からは堕ちたと絶縁をされているようだが、世間から蔑まれているこの世界にいても倉橋はとても綺麗だった。
人間の本質というものは変わらないのだ。
「綾辻さん、飲んでばかりじゃなくて食事も取ってください」
「酔ったら勃たなくなるから?」
「・・・・・食事中は下品な事は言わないように」
「はいはい」
(お前も、食事中ぐらいは誘わないよーに)
目の前にいる倉橋は、そのきっちりとした性格通りに、旅館の浴衣も崩すことなく身に着けていた。
高級旅館らしく、その浴衣も濃紺の上等な生地のもので、胸元まできっちりと合わせて着ている。
肌の露出など無いのに、物を取る時などに肘近くまで捲れて見える白い肌とか、空いた食器をまとめる時に振り向く首元とか、
綾辻にとっては女の裸体よりも遥かに色っぽく感じるのだ。
「綾辻さん?」
口元まで運んだグラスを止め、そのまま自分の方を見つめる綾辻に、倉橋は少し首を傾げて声を掛けてきた。
「どうしたんです?疲れたんですか?」
ここまで運転してきた綾辻の身体を気遣ってくれているらしいが、騙して連れて来たのは綾辻の方なのだ、そんな風に気を遣っ
てもらう方が申し訳ない。
それに・・・・・もう、良いんじゃないかと思う。
ゆっくりと湯に浸かって、美味いものを食べて。
後はもう、愛しい身体を抱くだけだ。
「克己」
「はい?」
綾辻が何を考えているのか全く分かっていない倉橋は、箸を止めてこちらを向いている。
その顔がどんな風に変化するのか楽しみにしながら、綾辻は出来るだけ普通に言った。
「するか?」
「え?」
「セックス」
「セ・・・・・ッ」
「・・・・・」
(真っ赤。可愛いな)
見事に目元を赤くした倉橋をにんまりしながら眺めていると、倉橋は自分のその動揺を誤魔化すかのように(それでもぎこちなく
なりながら)箸を下に下ろした。
「しょ、食事も大体終えましたし・・・・・あ、連絡して下げてもらわないと」
もっと言葉で苛めてやりたいが、始まる前に激し過ぎる羞恥を感じさせることも無いだろう。
ただ、綾辻ははっきりと倉橋に言っておきたかった。自分が何の為に倉橋をここに連れてきたのか・・・・・それは、愛しい倉橋を可
愛がる為ではない。
骨の髄まで貪り尽くす為だ。
「もう一度湯に浸かって覚悟を決めて来い。今日はお前が泣いても止めないからな」
倉橋は綾辻から目を逸らし・・・・・それでも、
「・・・・・はい」
と、自分も承諾しているのだという返事を返してきた。
その潔さが本当に倉橋らしくて、綾辻は思わず手を伸ばして倉橋の頭を引き寄せると、そのまま深く唇を重ねてしまった。
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