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翌朝、出来るだけ何時もの行動を乱さない方がいいと思った亘は、朝食の準備をしている聖を手伝うために1階に下り、キッチ
ンへ向かった。
「おはよう・・・・・聖君?」
キッチンの中には誰もおらず、それはリビングも同様だ。
視線を巡らした亘は、直ぐにテーブルの上に朝食の準備がされていることに気付いた。そして、そこには1枚のメモが置いてある。
「・・・・・律儀な子だな」
「どうした」
「あ、おはよう」
何時もは聖が起こしに行くまで起きて来ない父親だが、今日ばかりは聖の様子が気になったのだろう、上半身裸のまま、下だ
けはパジャマ姿というだらしない格好で現れた。
亘は直ぐに、自分が持っていたメモを差し出す。それに目を通し、テーブルの上の料理を見た父は、やれやれというような苦笑を
口元に浮かべた。
「全く、飯のことなんか気にしなくていいのにな」
「それが聖君らしいけど」
《今日は早く学校に行きます。申し訳ありませんが、朝食は温めて食べてください》
いったい、どんな気持ちでこの手紙を書いたのだろうと亘は考えたが、父はどうやら文章の別の部分に気を止めたようだ。
「学校に行きます、か。じゃあ、戻ってくるな」
「え?」
「律儀なあの子のことだ、もしも本気で嫌がって逃げるなら、こんな書き方はしないだろう?」
「・・・・・そうだね」
さすがに年の功と言うべきか、父の言葉は亘にも納得出来るものだった。確かにあの聖の性格ならば、《今までありがとうござい
ました》や、《生活費は必ずお返しします》とか、そう言った文章が出てきてもおかしくない。
「戻ってくるんだ」
「言ったろ」
「父さんの言葉じゃねえ」
「俺も今日は早く帰るからな。お前、抜け駆けするんじゃないぞ」
「父さんに言われたくないよ」
どちらかといえば、父の方がより危ないのだと思うが、今それを言ってもこの男が素直に聞き入れるとは思わない。
亘も今日午後に2つ、絶対に抜けられない講義があるので出なければならなかったが、それが終わったら今日は直ぐに家に帰っ
てこようと思った。
(聖君の花嫁姿、きっと可愛いだろうな)
何時もより一時間以上も早く学校に来たが、時間はあっという間に過ぎてしまった。
「聖、まだ帰らないのか?」
ホームルームが終わり、一斉に教室内がざわつく。
早々に帰宅する者やクラブ活動に行く者がいなくなると、途端に広い教室の中は静まり返ってしまう。
普段、夕食の買い物やその他の家事のために、聖は授業が終わると直ぐに帰宅していたが、今日はなかなかイスから立ち上
がることが出来なかった。
「気分悪い?」
「ううん、大丈夫、ありがとう、下野」
そんな聖を気遣って声を掛けてくれる同級生に辛うじて笑みを返すものの、その直ぐ後には、聖の口からは溜め息が漏れてし
まう。それは、このまま帰った後何が自分を待っているのか・・・・・想像したくなかったからだ。
(0時を、回ったら・・・・・)
自分の誕生日の日付に変わったら抱くと、はっきりと言われてしまった。それはきっと、今までの悪戯以上のものになることは間
違いないだろう。
拒めるのか、それとも諦めて受け入れてしまうのか、夕べからずっと考え続けるものの、今この瞬間もまだ決まってはいなかった。
(でも、何時もみたいに帰るのは・・・・・)
まるで、自分が彼らの申し出をOKを出したみたいに思われるかも知れないという心配と、かといって、全てを拒絶しているわけで
はないと思っている自分と、どちらにせよ、聖はまだ学校から高須賀家へ帰ることは出来なかった。
「・・・・・帰りたくないのか?」
「え?」
「何時も家のことばっかりしてたら鬱憤も溜まるだろ?俺と遊ばないか?カラオケとか、ボーリングとか」
「遊びに・・・・・」
「な、そうしよう?」
「・・・・・」
(そう言えば、最近全然遊んでないよな・・・・・)
元々母子家庭で、働いている母親の代わりに家事一切をしていた聖は、友人とゆっくり遊ぶということは無かったし、今回、母
が失踪してからは、それこそ学校と家の行き帰りしかしていない。
「聖」
何時も優しく自分に接してくれている下野と一緒に遊べば、きっと楽しいだろうと思うし、今夜のことも忘れてしまえるかもしれな
いだろう。
聖はどうしようと、下野を真っ直ぐに見つめた。
自分で運転して高須賀が自宅に帰ったのは、まだ午後6時前、何時もより2時間近く早かった。
秘書には散々文句を言われてしまったが、高須賀にとっては今は聖が最優先事項だ。聖をしっかりと自分のものにしない限り、
おちおち仕事もしていられない。
「・・・・・」
玄関の鍵は閉まっていた。家人がいたとしても用心のために個人個人自分で鍵を開けることにしているので、これで聖が不在
かどうかは判断がつかなかった。
(・・・・・どうだろうな)
帰ってくるつもりがあるとしてももっと遅いか、それとも友人の家に逃げ込むか。朝は亘に対して強気の言葉を言ったが、いざとな
ると高須賀も聖の気持ちを完璧に読むことは出来ない。
これは仕事ではなく個人の心の問題で、その相手はまだ高校に進学したばかりの子供なのだ。
(俺が焦っているのかもな)
どうしても逃したくなくて、聖の気持ちが育つのを待つ前に身体へと手を伸ばしたが・・・・・やり方を間違えてしまっただろうか。
「・・・・・」
溜め息を噛み殺しながら高須賀は鍵を開け、玄関の扉を開いた。
亘はバイクのエンジンを止め、ヘルメットを脱いだ。
(6時10分か)
何時もならば聖はもう帰ってきている時間だが、今朝父が言ったように、聖は再び帰ってくるつもりはあるのだろうか。
「・・・・・父さんの言うことが、全て事実ってことはないだろうけどね」
それなりの容姿で、学生なのに自分で会社を経営している亘の周りには常に人がいる。ただ、親が親だけに、亘はそんな状況
に浮かれることは無く、出来るだけ冷静な目で状況を見るようになった。
そんな慎重な自分が、どうしても欲しいと理性よりも欲望が先に立ったのが聖だ。
(最初は、いい兄貴になるつもりだったけど)
兄弟のいない亘は、大人しく可愛らしい聖を本当の弟のように迎えるつもりだったが、あの日、自分の母親の代わりに花嫁姿
になった聖を見て、この子が抱きたいと唐突に思ってしまった。
今も、そんな突発的な自分の気持ちに明確な理由をつけることは出来ないものの、それでも諦めるつもりはない。今回が無理
でも、近いうちに必ず・・・・・。
「・・・・・」
そう思いながら、亘は玄関の鍵を開けた。
「・・・・・」
「お、お帰りなさい」
「・・・・・ただいま、聖君」
玄関先に出迎えに来てくれた聖は、何時ものようにエプロンを付けた姿だった。奥からはビーフシチューの匂いがしてくる。これは、
亘と父の共通の好物だ。
「今日は、聖君のお祝いなのに?」
「で、でも・・・・・」
「でも・」
「・・・・・俺、昨日・・・・・」
「・・・・・ああ、そうか」
優しい聖は、夕べの自分の態度を申し訳ないと思い、その詫びの気持ちを込めて自分達の好物を作ったのだろう。
可愛くて、可愛くて、本当にまだ子供の聖。第三者に聞けば、誰が一番正しいのか分かるのに、それを自分の胸の中だけに止
めておくから、こうして自分から獣の口の中に飛び込んできてしまう。
「ありがとう、嬉しいな」
亘はにっこりと笑ってそう言うと、聖の肩を抱いてリビングへと向かう。この手の下の柔らかな身体を、全て自分のものに出来るの
も後数時間後だ。
「おお、帰ったな」
聖の肩を抱き、情けないほどに顔を緩めた息子がリビングにやってくると、既にソファに座っていた高須賀は目を細めて笑い掛け
た。
自分が驚いたように、どうやら息子もかなり驚き、その上で聖の行動を喜んでいるらしいということがその表情だけでも分かる。
(まあ、俺も同じだがな)
玄関のドアを開け、そこに聖の靴を見付けた時、高須賀は胸の中に湧きあがった喜びを、気恥ずかしくて絶対に亘にだけは知
られたくないと思っていた。それほどに、自分も一種賭けのような気持ちで聖の行動を待っていたのだ。
「父さん」
その時だけ、亘は年相応の無防備な青年の顔をしていたが、直ぐに親にも読ませないような柔らかな微笑を浮かべて言った。
「本当に早かったんだ」
「そう言ったろ?」
「よく嘘も言ってた気がしたから」
「それは昔の俺」
まだ亘が幼い頃は、らしくもなく父親らしいことをしていたが、そんな息子が中学生に進学したころから、再び大人の遊びを再開し
た。
もちろん、特定の相手ではなく、その場その場の快楽のための相手だが、そのせいで亘との約束を不可抗力(?)で破ったことが
何回もあり、その頃既に大人びていた亘は文句を言うことも無かったが、面白くない思いはしていたのだろう。
しかし、それを聖の前で言わなくてもいいのになと思うが。
(そんなことで差はつけられないぞ、亘)
聖は、父親の縁に薄い。だからきっと、父親くらいの年齢の男に弱いはずだ。
恋愛に、聖に対しては、息子にも譲れない思いがあるので、そこはきちんと否定しておかなければと高須賀は思っていた。
高須賀も亘も帰ってきて、聖は一度大きな深呼吸をした。
高須賀だけいた時も気づまりだったが、亘も帰ってくると・・・・・その思いは二倍になったような気がする。
(い、いったん、間を開けなくちゃっ)
「お、俺、夕食作りの途中だからっ」
「手伝おうか?」
「いいえっ、亘さんはゆっくりしていて下さいっ」
何時もは聖がそう言っても強引にキッチンにやってくることが多い亘だが、今日は1人で考える時間をくれるつもりなのか後を追っ
てはこなかった。
それでも、リビングと続きのキッチンでは、2人の視線をあからさまに感じてしまう。
(普通、普通にしてよっと・・・・・っ)
「父さん、ケーキは買ってきた?」
「ああ、忘れてないぞ」
「良かった。せっかくの誕生日なのにケーキが無いとね」
「ワインも買ってあるが、子供には早いか?」
「・・・・・」
2人の会話は、もちろん聖にもよく聞こえていた。
自分の誕生日を祝ってくれようという気持ちは確かに嬉しいものの、その背後に別の意味があるから素直に喜ぶことで出来ない
のだ。
「ありがとう、下野。でも、俺帰るから」
せっかく伸ばされた逃げるチャンス、いや、問題を先延ばしに出来るチャンスを、なぜ自分から手放したのかは分からない。
ただ、あのまま逃げることがいいとは思えなかったし、一番の大きな問題は・・・・・聖自身が、2人を拒絶しきれないからだ。
高校1年生の自分が、この高須賀の庇護から出て1人で生活出来るかと言えばとても無理で、金銭的な援助を期待してしま
うという情けない現実も確かにある。
一方で、彼らが自分に注いでくれる愛情が、少し方向は違うが確かに本物で、甘やかされる自分というものの居心地の良さも
知ってしまっていた。
(俺って・・・・・単に、エゴイストなのかも)
全ての基準を自分の気持ちにしていることが、本当は間違いではないのだろうかとも思うが、愛情という形の無いものを計るに
は、後はもう自分の気持ちくらいしかない。
「・・・・・」
聖は顔を上げ、リビングを見る。
「・・・・・っ」
高須賀も、亘も、今会話をしていたはずなのに、視線だけは真っ直ぐに自分に向けられていた。
全く似ていない親子だと思っていたのに、こうして見ると何だかよく似ていて・・・・・聖はなぜか笑いが零れ、張りつめていた緊張
感が少し、ほぐれた気がした。
「あの、ご飯の用意、出来ました」
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