海上の絶対君主




第一章 支配者の弱点


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 翌日の珠生の目覚めは最悪・・・・・と、いうよりも、地を這っているといってもいいくらいのどん底だった。
寝て起きたら忘れていたという幼い子供ではない珠生は(言動がそれに近いとはいえ)、昨夜ラディスラスにされたセクハラまがい
の出来事をつらつらと頭の中で繰り返し、何度ベットを叩いたかは分からないくらいだ。
(男を襲うヘンタイって、違う世界にもいるんだ・・・・・)
このままではまた何時あんな目に遭うかも知れないと考えた時、珠生はふと頭の中を切り変えた。
 『・・・・・使える、かも』
(俺のこと、そんな風に思ってるんだったら・・・・・)
 上手く懐柔すれば、自分の言う事を聞いてくれるようになるかもしれない。
あまりやりたくないが甘えてねだって陸に上がるように仕向ければ、とにかく海の上から陸に移れば逃げられる可能性は格段に大
きくなるはずだ。
 『色仕掛け・・・・・出来るか?』
 あまり自慢出来ることではないが、珠生は今もってちゃんと誰かと付き合ったことは無い。
高校生になった頃から同性にアプローチされるようになってしまったが、友人に言わせれば男っぽくない柔らかな面差しと、子供な
性格が、今時の少女達よりもぐっときてしまう男も(面白くないが)多いらしい。
 ラディスラスに腹をたて、怒りをぶつけるだけでは現状を変えることが出来ないとやっと悟った珠生は、取り合えず昨夜のことは何
とか水に流して、一番偉いらしい男を手懐けようと考えた。
 「タマ、入りますよ」
 そこまで自分の中で決意を固めた時、耳に優しい声とノックの音がした。
中に入ってきたのはアズハルだ。
 「ああ、起きていましたね。気分は?身体は痛い所はないですか?」
 『・・・・・』
 「ラディも最後まではしていないと言っていたし、その言葉は信じてもいいとは思いますが」
 『・・・・・』
自分の顔を覗き込むようにして、心配そうに何か言っているアズハル。その言葉の意味を、珠生は必死で考えた。
(とにかく、本当に急いで言葉を覚えないと・・・・・っ)
短い生活用語でも、単語だけでも覚えないと何も出来ない。
 「お腹、空いてますか?食事に行きましょうか」
 『・・・・・』
(あ、これ、何度も聞いたことがある言葉だ。たし・・・・・か)
 「しょ・・・・・くじ、いきましょーか?」
 両手を使って何かを食べる仕草をしながら言葉を真似てみると、アズハルは一瞬驚いたように目を見張り、次の瞬間破顔し
て珠生の頭を撫でてくれた。
 「そうですよ、《食事に行きましょうか》です。よく分かりましたね」
 「よ・・・・・く?」
 「よく出来ました」
 「よ・・・・・く、できま、した」
 「よく出来ましたね、タマ」
 「・・・・・」
(褒めてくれてるのか)
すらすらと覚えられるものでもないが、既に何日もこの世界にいて、言葉の響きや流れは自然に耳に入るようになってきてはいる。
子供のように頭を撫でられるのは気恥ずかしいが、それでも褒められて悪い気はしない珠生は、今口にした単語を覚え込むよう
に口の中で何度も繰り返した。



 アズハルと共に食堂に出向いた珠生は、入口で待ち構えるように立っているラディスラスの姿を見つけ、反射的にアズハルの背
中に隠れてしまった。
 「タマ」
そんな珠生の行動に眉を顰めながらも、ラディスラスは何時もの傲慢さを少し隠すようにして口を開いた。
 「昨夜は悪かった」
 『・・・・・』
 「もう、お前が嫌がることはしない」
 『・・・・・』
(・・・・・もしかして、謝ってる?)
言葉の調子や表情から、ラディスラスが謝っているのだろうという事は感じる。
その証拠に、
 「ちゃんと謝ることが出来るじゃないですか。よく出来ましたね」
 「・・・・・バカにしてるだろ」
アズハルは先ほど珠生に言ったのと同じ言葉を言いながら、柔らかく頬を緩めていた。
(謝るぐらいなら最初からするなってーの!)
 言葉が通じるのならばそう言って何発かの蹴りを入れたいぐらいだが、珠生は今朝自分で決めたばかりの作戦を忘れてはいな
かった。
(とにかく、こいつをメロメロにして、言いなりに出来るようにしないと!)
もしも、ラディスラスが昨夜のように強行手段に出てこようとしても、結果的に自分は逃げることが出来た。
アズハルもラシェルも自分の味方になってくれているし、危機というものは人生でそう何回もあるはずが無い。
 「タマ、許してあげますか?」
 アズハルが笑いながら振り向き、そっと珠生の身体を押し出す。
珠生はまだ多少怯えが残っているものの、それでも精一杯上から目線でラディスラスに言った。
 「よくできました!」



 「・・・・・よくできました?」
 いきなりの珠生の発言にラディスラスだけではなく、その場にいた他の乗組員達もかなり驚いたように視線を向けてしまった。
 「なんだ、それは?」
 「褒めてくれてるんですよ、あなたがちゃんと謝ったことに」
この場にいた人間の中で唯一珠生の思考を理解出来たアズハルは、間違いではないがあまりラディスラスには似合わない言葉
に苦笑を漏らした。
(私の言葉を真似てるのか)
まさに、物心がつき始めた子供と同じような行動を取る珠生が微笑ましいが、言われたラディスラスの方はどう対応したらいいの
か分からないように途惑っている。
こんな彼の様子は滅多に見ることはなく、アズハルの笑みはますます深まっていった。
 「・・・・・褒めてるのか?バカにされてる気がするが」
 「そこまで考えることが出来るほど、タマはまだ言葉を思えていませんよ。素直に受け取ってやればどうです」



 「・・・・・」
 ラディスラスはもう一度珠生に視線を向けた。
アズハルの直ぐ隣には立っているものの、ちゃんと姿を見せてじっとラディスラスの様子を見ている。
その目の中には危惧した怯えの色は見当たらなかった。
(怒っているぐらいだったらいいと思っていたが)
もしかしたら、珠生はラディスラスが思っている以上に精神的にタフなのかもしれない。
(それならそれで・・・・・面白いか)
 しばらくは様子見の為に手を出さない方がいいかとも思っていたが、もっと方法を変えれば・・・・・意外に早く珠生は自分の手
の中に落ちてくるかもしれない。
(それなら、言葉の一つ二つはどうってことないか)
 「タマ、本当に悪かったな」
もう一度そう言って軽く頭を下げると、珠生の頬には見る間に会心の笑みが広がっていった。
 「よくできました!!」
 「・・・・・」
 「しょ、しょくじいきましょーか」
 「ああ、お腹が空いたんですね。ラディ」
 「ああ」
 昨夜のことはそこでいったん打ち切りというように、3人は空いている席に向かって歩き始める。
何気なく珠生の背を押そうと手を伸ばしたラディスラスだが、急にくるりと振り返った珠生に思わず足を止めてしまった。
 『スケベジジイ!』
 「・・・・・すけべ?」
何を言われたのかは分からなかったが、にっこりと笑みを向けてきた珠生に、ラディスラスもつられるように口元に笑みを浮かべてし
まった。