海上の絶対君主




第一章 支配者の弱点





                                                         
※ここでの『』の言葉は日本語です






 船に上がった珠生はとにかく身体を温めなければと、ほとんど横抱きにされる形で船底に連れて行かれた。
手際よく用意されたそれ・・・・・大きな木のタライの中に沸かした湯を入れただけの、まるで行水のような形ではあったが、まだま
だ身体が華奢な珠生は何とかその中に収まり、アズハルは冷え切った珠生の服をその中で脱がせて、何度も手で湯をすくって
珠生の肩や背中に掛けてやった。
 「・・・・・少し、やり過ぎではないですか」
 アズハルの口調は怒っていた。
自分達でさえも、最初の頃は船から海に飛び込むのを躊躇う時期があり、慣れた今でもこんな時間に誰も好んで海に入る者
はいないはずだ。
珠生にいたっては、ほとんど無理といってもいいだろう。
 「何かあったらどうしたんですか」
 「何も無かったろう?」
 入口に身体を寄り掛からせていたラディスラスは、不適な笑みを浮かべながら上半身裸になると、渡された布で濡れた髪や身
体を拭い始めた。
日に焼け、綺麗に筋肉の付いた、どんな女もうっとりと見惚れるような綺麗でたくましい身体だが、同性であるアズハルには少し
も珍しいと思わない裸体だ。
 「化け物みたいなあなたとタマは全く違うでしょう?」
それよりもと、まるで口さがない保護者のように続くアズハルの小言に、ラディスラスは笑みを浮かべたままだ。
 「聞いてるんですか?」
 「聞いてる」
 「・・・・・」
 「まあ、これで、こいつも簡単に船から降りることは出来なくなっただろう。身体の造りからしても遠泳は無理だろうしな」
 「・・・・・他にもやり様があったでしょうに」
 「この生意気な奴に?どうせ口で言っても分からないんだ、実力行使が一番だな」
そう言うと、ラディスラスは踵を返す。
 「俺はまだ出航の準備があるからな、そいつを頼む」
 「・・・・・はい」
 「あんまり、身体を見るなよ?俺のもんなんだからな」
 「ラディ!」
アズハルの怒声を背中にしながら、ラディスラスは笑って甲板に上がって行った。



 「全く・・・・・」
 呆れたような溜め息を頭上に感じた珠生だが、強張った身体はなかなか動こうとはしなかった。
(あいつ、バカだよ、絶対バカ、あんなこと、普通しないよ)
確かに、、あの時自分は興奮していたと今なら分かるが、たとえその興奮を収める為だとしても、いきなり船の上から海に飛び込
んだりは普通はしないだろう。
(だから、体育会系は嫌いなんだっ)
 冷えと恐怖で強張った身体は、湯の温かさで次第に解れていく。
はあ〜と深い息をついた珠生は、ずっと自分の身体に湯をかけ続けてくれる手を見た。
大きな・・・・・しかし、綺麗な指先は、本当に優しく珠生の身体に触れる。
 「・・・・・アズハル」
 思わずその名を口にすると、動いていた手が止まった。
 「どうしました?」
 『・・・・・』
 「まだ寒い?それとも、どこか痛みますか?ああ、あなたはあの体力バカとは違って華奢ですからね、もしかしてどこか怪我をし
ているかもしれない。少し、じっとしていて」
確かめるように身体に触れてくる指には少しも嫌悪感は沸かず、珠生はじっと大人しくして触られたままでいる。
 「・・・・・良かった、傷は無いようですね。少しは気をつけたのかな」
 安堵して笑うその顔は優しく綺麗で、珠生はふとこの人の言葉が分かればいいなと思った。
きっと、あの傲慢な男の悪口を一緒に言い合ってくれるだろう。
(逃げる為にも、少しはこっちの事情が分からないといけないかも・・・・・)
あんな風に怖い思いはもうたくさんだった。それならば、少しは先回りをして危険は避けるようにすればいい。
珠生はギュッと拳を握り締めて、自分が今からしなければならないことを頭の中でシュミレーションした。



 「やり過ぎだ」
 着替えを終えたラディスラスが甲板に戻った時、既に先ほどの騒ぎは収まってそれぞれが出航の準備を再開していたが、直ぐ
にラディスラスの姿に気付いたラシェルが眉を顰めながら非難してきた。
 「あんたのことだから、きっと危険がないと判断したうえでのことだろうが、あの子の気持ちまでは量れないだろう。もしも恐怖で
何かあったら・・・・・そうなっていたとしたらどうした?」
 「さっき、アズハルにも言われた」
 「・・・・・」
 「あいつなら、大丈夫だと思った。それ以上の根拠はないがな」
 「ラディ」
 「ラシェル、俺は自分でも不思議なほど、あの子供が欲しいと思っているんだ。手に入れる為にはどんな卑怯な真似だってす
るし、逃げ出さない為の策は講じておきたい」
 「・・・・・」
 「おかしいだろう」
 珠生が船首にいるのを見た時、ラディスラスの頭の中に一瞬浮かんだのは、このまま珠生が海に飛び込めば、そのまま姿を消
すかもしれないということだった。
現われた時と同様、消える時も突然に・・・・・そう思った瞬間、ラディスラスは絶対にあの存在を繋ぎとめなければと思った。
海に入ることが帰ることだと思っているとしたら、自分があの身体を抱きしめていれば、どこにもいけるはずがない。
そんなことでは逃げられないと思い込ませる為にも、一度思い切ったことをしようと、珠生の身体を抱きしめて海に飛び込んだの
だ。
絶対に手を離さないと思いながら・・・・・。
 「・・・・・女は腐るほどいる」
 ラシェルが静かに言った。
 「ああ」
それに、ラディスラスも笑みを浮かべたまま答える。
 「お前なら、どんな女でも選び放題だろう」
 「まあなあ。俺みたいないい男に抱かれたいと思っている女は、かなりいるかもな」
 「ラディ」
 「でもな、ラシェル、俺が欲しいと思うものは1つだ」



 冗談めかして言っているラディスラスの言葉が本心からだというのはよく分かる。
(まさか、こんな短期間でな・・・・・)
運命の相手というのは、まさに不意に現われるものなのだなと、ラシェルは感慨深く思った。
自分もかの皇子、ミシュアと対面した時、この皇子を生涯、命をかけて守り抜くのだと思った。不幸にもそれは途中で挫折をし
てしまったが。
それは恋愛感情とはまた違った、敬愛という種類のものだったが、それよりもさらに熱情を含むであろう恋情を珠生に対して抱い
ているらしいラディスラスは、たとえどんなに忠告したとしても自分の信念を曲げることなどない男だ。
 「ラシェル?」
 黙って自分を見つめるラシェルに、ラディスラスはニヤッと笑みを向けた。
 「お前は俺の守備範囲じゃない。・・・・・惚れるなよ?」
 「バカを言うな」
最後には何時もこうしてふざけて終わりだが、ラディスラスの真意を見逃すほどラシェルは鈍い男ではなかった。
(取りあえずは静観するしかないか・・・・・)
今の珠生にラディスラスを受け入れる余裕などなさそうだったし、ラディスラスも嫌がる子供に無理強いはしないだろう・・・・・多分。
 「・・・・・そろそろ、出航だ、船長」
 「ああ。おい!出航の汽笛を鳴らせ!!」
 普段は姿を見せてはならない存在の海賊船だが、湾からの出航の際は大きな汽笛を鳴らすことになっていた。
 「出航!!」
響くラディスラスの声に合わせて大きな汽笛の音が鳴り響く。


この瞬間から、海賊船エイバルの新たな航海が始まった。