海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 「うわわっ、どいて!どいて!」
 「タマッ、大丈夫なのかっ?」
 「おい、持つぞっ」
 「だいじょーぶ!」
 大きな波に揺れる甲板を危なっかしく歩いていた珠生は、そこかしこから掛かる声に怒鳴るように答えた。
いくら珠生でも、たた歩いているだけでフラフラしているわけではない。その両手いっぱいに乗組員達の洗濯物を抱えているからだ。

 「俺だって、なんかする!」

もちろん、それまでも全く何もしていなかったわけではないが、珠生はそれではいけないと遅まきながら一念発起したのだ。
(だって、動いて疲れないと、眠れないし!)
 今まで寝付きが悪かったわけではないのだが、珠生はここのところ妙に目が冴えてなかなか眠りにつけなかった。
波で揺れるベッドにも慣れたし、なにより直ぐ側に大好きな父がいて、元の世界に帰れるかどうかという不安もかなり払拭されたと
いうのに・・・・・だ。
 それは、多分新しく旅の同行者になった、あの蜂蜜色の瞳を持つ男のせいだろう。
あれ以来、ラディスラスの監視の目は厳しく、珠生はあの男、ユージンとあれから2人きりで会った覚えは無い。
ラディスラスがいない時はラシェルかルドーが常に珠生の側にいるようになり、珠生はそんな守られているような状態が背筋がゾワ
ゾワして嫌だった。
 これでも自分は男で、守られて当然の女とは違う。
確かにユージンの手から簡単に逃げ出すことは出来なかったが、あれはあんな狭い物置の中だったからで、例えば甲板とか食堂
とかだったら武器になるものは色々あるし、最後の手段として男が一番痛い場所に蹴りを入れることだって出来たはずだ。
男としてのプライドが刺激された珠生は、自分もこのエイバル号の仲間の一員だということを見せ付ける為にも、少しは動かなけ
れば・・・・・そう、思った。
 自分の気持ちをはっきり言葉では言い表すことが出来なかったが、たどたどしくも一生懸命説明した珠生に、父は優しくアドバ
イスをしてくれた。

 「自分の出来る範囲で頑張ればいい。無理だけはしないようにな」

 父のアドバイスを受け、珠生は自分の出来ることを考えた。
とても他の乗組員達のように力仕事は無理だし(見張りの為にマストに30センチ登っただけで震えがきた)、ジェイの手伝いは父
がいれば十分だろう。
ミシュア王子の看病といっても、出来ることは限られているし・・・・・と、一つ一つ消していくと、残ったのは乗組員の中で最年少の
テッドの手伝いだった。
 だが、手伝いといっても馬鹿にはならない。
13歳なのに身寄りが無く苦労していたテッドは気遣いも出来、クルクルとよく動く。
他の乗組員達ほどではないが、珠生よりははるかに体力もあり、自分から仕事を見つけて働いていた。
テッドを見ていると、珠生は自分が今までいかに楽をしていたかと思い知り、その恥ずかしさを払拭する為にも珠生はテッドの手か
ら奪い取るように洗濯物を手にしていた。
 「え〜っと、先ずは塩水で簡単に汚れを落として・・・・・っと」
 船の旅での水は貴重だ。
普段ならば海水の水洗いで十分らしいが、今はミシュアという病人がいるので、ごく限られたものだけは雨水を溜めている樽から
最後の濯ぎをするらしい。
 「さてと」
 珠生が1人くらいは十分入れそうなほどに大きいタライに適当に汚れ物を入れると、珠生は洗濯用にとくみ上げられた海水を中
に入れてバシャバシャと足で踏み洗いを始めた。
 「あ・・・・・なんか楽しいかも」



 そんな珠生の一連の様子を、ラディスラスとアズハルが苦笑を浮かべながら見つめていた。
 「・・・・・なんだか、子供が水遊びをしているように見えますね」
 「そう言うな。本人はあれでも真剣なんだろう」
昼時の今は、ミシュアの側には瑛生がおり、アズハルは2人にさせてやる為に部屋から出ていた。
そこまで気を遣う必要は無いだろうし、たとえ2人きりにしても2人が人に言えない何かをするわけではないことも分かっているが、ミ
シュアにとってはやはり瑛生の存在が一番大きく、落ち着くだろうということは誰が見ても確かだった。
 「あの男はどうしています?」
 「今はラシェルが付いている。もう何日もしないうちにベニートに着くからな。今から医者の情報を聞き出しておかないと」
 「話しますかね」
 「話さない理由は無いだろう?」
 「・・・・・」
 「別に国家機密というわけでもあるまいし、だだちょっと腕のいい医者の情報を漏らすだけだ。無事に医者に辿り着けばあいつは
解放するつもりだしな」
 「そうですね」
 あの存在は、あまり長く身の内に置いておかない方がいい。
そう思っているのはラディスラスだけでは無かった。アズハルはもちろん、ラシェルも同意見で、ユージンは何かしら手に余る存在だと
いうことで意見は一致している。
とても王子らしからぬ言動をしているし、厳しい監視の中でもどこか楽しそうだ。
その意図が何なのか、ラディスラスとしては早めに把握しておきたい気分だった。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「あ」
 じっと珠生を見ていると、足が滑ったのか突然タライの中で派手に尻餅をついてしまった。
恥ずかしかったのか慌てて周りを見ているが、気のいい乗組員達はパッと目を逸らして見ぬふりをしてやっている。
多少は安堵したのか、珠生は濡れてしまった服を見下ろしていたが・・・・・、
 「・・・・・っ」
肌に張り付く服を脱ぎ始めた珠生を見た瞬間、ラディスラスは無意識の内に足を踏み出していた。



 濡れて絡まった布に足を取られた珠生は、全くバランスを保てないまま尻餅をついてしまった。
 『いったあ〜っ』
痛みよりも驚きの方が大きいものの、珠生は反射的に自分の周りに視線を向けた。この情けない姿を誰かに見られてしまったの
ではないかと思ったからだ。
 「・・・・・」
(大丈・・・・・夫、かな)
 どうやら、誰も見ていないらしい。
ほっと安堵したが、今度は濡れてしまった服が気になってしまった。塩水なので、何だかベタベタする気がして、珠生は少し考えて
服を脱いで身体を拭くことにした。
いや、今はそれほど日差しは強くないので日に焼けて肌が痛くなるということは無いだろうし、裸で洗濯をしてもいいかもしれない。
 「タマ!」
 「あ」
 その時、いきなり名前を呼ばれ、珠生はビクッとして顔を上げた。
 「ラディ?」
なぜか、少し怒ったように眉を潜めて歩み寄ってくるラディスラスに、珠生は無意識の内に数歩後ずさってしまった。
 「な、なに?」
 「駄目だ」
 「え?」
 「お前は裸厳禁」
 「はあ?」
(何言ってるんだ?)
 時々、ラディスラスは珠生の分からないことを言うが、今回もまた珠生が首を傾げるようなことを言う。
ただ、ラディスラスの中ではそれは説明するほどのものでもないらしく、いきなり珠生の両脇をつかんで軽々とタライから身体を出し
てしまうと、半分脱ぎかかったシャツをじっと見つめた。
 「ラディ?」
珠生が問い掛けるような視線を向けても黙ったまま、なぜかラディスラスは自分の服を脱ぎ始める。
 「ラ・・・・・」
 「手を上げろ、両手だ」
 「手?」
 何のことか分からないままに、無意識の内に言われた通りにすると、ラディスラスは一瞬で珠生の濡れた服を頭から脱がせ、それ
を置く暇も惜しいほどに素早く自分の服を珠生の肩に掛けた。
 「とりあえずそれを着て、部屋でちゃんと着替えろ」
 「・・・・・」
同じような作りのシャツなのに、体格の違いを見せ付けるかのように珠生にはブカブカに大きなシャツ。
風邪をひかないようにと気を遣ってくれたのかもしれないが、珠生にとってはあまり楽しくは無い現実を突きつけられた感じだ。
(・・・・・もっとたくさん食べなきゃな)
とにかくまだ育ち盛りは過ぎていないはずだと、珠生はムンッと自分の心に誓った。